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『ケセン語訳 新約聖書 【マタイによる福音書】

 本とCD
  訳・朗読:山浦玄嗣
  発行:2002年11月1日(イー・ピックス)
  価格:5600円(税別)、ただし3000部限定出版

 まあいっぺん聴いてみて下さい。イエスのことば、その息遣いに、笑ったり泣いたり。
 「ふるさとのことばで福音を」との熱意が生んだ、「腹の奥まで響く」力強いイエスのことばです


 「ケセン語」とは、岩手県気仙地方のことば。いわゆる、他の地方の人々が「ズーズー弁」と呼んでいる、東北地方のことばです。
 ズーズー弁で聖書を呼んだら面白いだろうな、程度の感覚のお持ちのあなた、ぜひこのケセン語聖書の朗読を聴いてみてごらんなさい。きっと、イエスの言葉のひとつひとつ、その息遣い、イエスとそのライバルたち、あるいは弟子たちらのあふれる思いが、ジンジンと響いてくるのを感じるでしょう。
 そして、標準語訳のカタい文章では決して伝わってこなかった、イエスの言いたかったこと、その思いが、ストレートに胸に飛び込んで、腹におさまるという感じをもつことができるでしょう。

 正直、私は、マタイによる福音書の山上の説教(5−7章)などは、個人的感情としては、あまり好きではありませんでした。なんだか高飛車で偉そうな命令口調だし、実現不可能なむずかしい掟を押し付けられているような印象が漂ってしまうんです。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)なんて言われたって、「そんなことできるかい。自然な人間の感情に逆らってるじゃないか」と思ってしまいます。
 でも
、「敵(かだぎ)だって大事(でァず)にす、吾人(われひと)ォ苛(せァな)む者のために良がれど祈れ。そうすて、天のお父様(どっさま)の子になんべす」(同)って、ぶっといオヤジ声で言われたら、「そうなんですかねぇ」って気分になるから不思議。
 
「自分のことを愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイによる福音書5章46節)と言われると、なんかその言い方カンにさわると思ってしまうけれど、「自分(われ)ァどごォ大事(でァず)にすてける人ォ大事(でァず)にすたがらって、其方等(そなだァど)ァ許(もっ)さ如何(なぞ)ないい報(むぐ)いがあんべさよ?」(同)って言われたら、「まぁそうですよね」と言ってしまう(笑)。

 じっさい、訳者・朗読者の山浦さんが前書きにも書いているとおり、イエス自身もそして弟子たちも、エルサレムの標準ヘブライ語ではなく、ガリラヤなまり丸だしの田舎大工、田舎漁師たちだったわけだし、イエスのたとえ話も、そんなガリラヤの暮らしに根ざしたもので、ガリラヤの田舎を旅しながら語られたものだったから、本当はこんな風に方言丸出しの翻訳の方が、ニュアンスが伝わるということは納得のいく事で。
 しかも、この訳は、日本語の標準語聖書からケセン語に直した者ではなく、ギリシア語新約聖書から直接翻訳したものです。だからこそ、田舎のオヤジだったイエスの語りのニュアンスが、実によく表現されていると思います。イエスは、30歳過ぎといっても、当時の感覚では熟年のオヤジでしたし。

 そんなわけで、私、三十番地キリスト教会の牧師は、このケセン語新約聖書、つよくオススメします。
 他にも、マルコ、ルカ、ヨハネが出版されています。

 追伸:ところで、ちなみに『コテコテ大阪弁訳「聖書」』というのも実はあるんですよ。

 (2002年11月9日記)

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