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『先生はえらい

 
  内田 樹(うちだ・たつる) 著
  ちくまプリマー新書002
  2005年1月25日
  価格:760円+tax


 教育の話かな、と思っていたら、結局、人間と人間のコミュニケーションと成長についての話だった。
 ていうか、それが教育なのか、つまるところ、という話の本。
 

  正直言って、オフラインの職場で、教師として自分にかなり失望していたときに、本屋でふと手にとった本だから、紹介する動機が不純だと言われても仕方がないようなタイトルの本なんですが……。

  でもね。おもしろいですよ、この本。いっぺん読んでみてください。
  「先生はえらい」というタイトルですがね、「先生『が』えらい」なんて、一言も書いてないです。

  最初のほうはちょっとダラダラした話が続きますが、半ば以降から話がどんどん面白くなっていきます。
  要は人間と人間のコミュニケーションが、いかに誤解と幻想によって成り立っているのか、ということなんですけど。でも、誤解があって、幻想があって、訂正の余地がある誤解があるからこそ、人間と人間はコミュニケーションを続けてゆけるのだよ、それが実は真実なのだよ、ということを、こうやって書くとわけがわからないでしょうが、この本を読むと、実にそのあたりがわかりやすく明快に解説してあるのです。

  「わかる」ということが実は大いなる誤解に基づいているということ……。
  「わからない」ということが実はとても大きな価値を持っているということ……。
  「正解」がある(あるのではないか)、という思い込みも、実は危険だということ……。
  そんなことが書かれているとても面白い本です。
  教育関係者だけではなくて、宗教関係者も読んだほうがいいかも。だって、「正解がある(正解がないと気持ち悪い)」という若い人たちを学校教育で大量生産してしまったから、いま日本でカルトの被害者が大量発生しているんじゃないか、と三十番地の牧師は思っていますから。
  また、クリスチャンの人は、この本から、イエスという先生と弟子たちの関係について考察するのも面白いと思いますよ。

  「わかる」とか「学ぶ」というのは、結局「学ぶ」側の主体の問題で、しかし、学ぶ人は先生を「えらい」と思っていないと、「学ぶ」ことも「わかる」こともありえない。
  「あの先生はいい先生だ」「この先生はダメだ」と、先生を査定することが、真の「学ぶ側の主体」なのではなく、「先生はえらい」と思って、そこから「これは何を伝えようとしているのだろうか」と問う姿勢で追いかけることからしか、「学び」はありえないよ、ということ。
  そういうことがわかる、いい本です。(2005年3月10日記)

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