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『イエスの生涯

 
  遠藤周作 著
  新潮文庫
  初版単行本1973年10月、文庫化1982年5月25日
  価格:460円 (+ tax)

 日本人のイエス像に多大な影響を与えた、記念碑的作品です。
 

  「事実と真実の違い」、「同伴者イエス」、「母性的愛の神」など、日本人クリスチャンの思考法に多大な影響を与えた用語法は、みなこの本に詰まっていると言っても過言ではないでしょう。
  1970年代に入手可能な史的イエス論を踏まえつつ、史実として提示された隙間だらけのイエス像を「事実」とするならば、それに加えて独自の作家的直観や想像力を駆使して埋めていった「真実」を提示する、日本人のためのイエス論だといえます。
 
  イエスが終始、弱い人、無力な人、愛の人であり、彼が貫こうとしたのは初めからひたすらに「愛」であったのだ、というテーマは、根拠なく最初から断定的に主張されている
きらいがあるので、多少強引な感は否めません。しかし、それも西欧キリスト教を日本化する遠藤氏の長い思索のなかから生まれてきた信仰の姿なのでしょう。
  世の中の現実は、神の沈黙、あるいは神の不在しか感じさせない。そんな現実のさなかにあって、愛は往々にして無力です。しかし、そんな現実に生きる人間に対して、神の愛、愛の神を証明していくという大変困難な課題に取り組み続けた遠藤氏の「真実」がここにある、といえるでしょう。
  文庫版の解説(井上洋治神父)にあるように、この「永遠の同伴者」というイエス像こそが、遠藤氏が仕立て上げた「和服」なのだといえます。

  中でも、今読み返して面白いのは、遠藤氏のユダに対する洞察です。
  1973年の段階で、「ユダこそがイエスの真の理解者であった」という推測が遠藤氏からすでに出されていたことは、たいへん興味深いと言えます、
  もちろん、2006年に発見された『ユダの福音書』のように、ユダこそがイエスの真意の実行者であるというようなことは遠藤氏は言っていません。しかし、ユダこそがイエスが十字架に向かう真意を見抜いており、それが故にイエスへの愛と憎悪の狭間で苦しみぬき、その苦しみを通して、イエスが恥と孤独の中で死んでゆくことと、自分が恥と孤独の中で死んでゆかねばならぬことの相似関係を発見しながら、イエスの愛を知り、やはりユダも救われたのだろう、と構想したことは、作家的洞察力としては画期的なことではなかったかと思います。

  また、遠藤氏が洞察し、推測した弟子達の裏切りの真相も、面白く説得力があります。
  「師イエスは、まさにわれわれの身代わりのために死んだのだ」、「自分たちが助かるために、イエスは死んでくれたのだ」ということが、弟子たちにとっては、観念ではなく事実であった、ということ。これはたいへんリアリティに富んだ推測だといえるでしょう。そうでなければ、リアルな信仰の出発点となりえないだろうと思うからです。

  そんな弟子たちにとって、「復活」がいかに事実でありえたか、ということについては、この本の結論においては謎のままに残されています。しかし、それはこの本の続編である『キリストの誕生』にゆずる、ということなのでしょう。『イエスの生涯』と『キリストの誕生』は、ルカ文書のように、両者あわせて完結するのです。
  この本は、聖書学の専門書ではなく、研究書でもなく、小説家がその作家的直観と洞察によって作り上げた、日本人のためのイエス論です。決して、イエスの全体像をとらえているわけでもなく、イエスの「弱さ」、「無力さ」、「愛」に特に注目し、そこをデフォルメしたような感を与えることは確かです。
  しかし、同時に、いまのクリスチャン、牧師たちが、いかに遠藤氏のイエス像に影響を受けているのか、ということも、この本を読めば明らかになってくるのです。現代クリスチャンのイエス像のルーツとして、おさえておく必要のある本とは言えるでしょう。
  (2007年4月13日記)

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