『子どもが見ている背中 良心と抵抗の教育』
野田正彰 著 岩波書店 2006年10月13日 価格:1,700円 (+ tax) 「君が代」の強制によって、どんな風に教育現場が荒廃させられていくのかが、粘り強い取材によって明らかにされてゆきます。 著者の野田正彰氏は精神科医であり、これまでも『戦争と罪責』など、深刻な社会問題を精神科医としての視点から切り取って、事の本質を明らかにする書物をいくつも世に問うてきた方です。 彼の取材とはすなわち診察です。特にこの本では、2004年2月、東京都を被告として東京地方裁判所に訴えた、佐藤美和子さんのケースに当たっての診察が、もっとも太い幹となって全体を支えています。「君が代」を伴奏しろという命令に対して佐藤さんは、キリスト者として、また音楽教師として、それはできないということを貫くために、自らの実存を欠けて闘ってきました。 また、この他にも、広島で自殺に追い込まれた民間人校長、慶徳和宏さんが、どのような苦しみの中に追い込まれていたのか。その他にもさまざまな教師の事例研究が、「君が代」が人を追い詰め、殺すということを明らかにしてくれます。 同時に、この本では、「君が代」の強制、あるいは「心のノート」による内面への支配の教育が、生徒に「ニセの感情表明」を培わせ、ウソつきを生み出す教育を作り出してゆくということも指摘されています。そして、それに納得がいかない教師たちが、いかに非暴力的に抵抗を続けているか、ということも克明に描かれています。 このことは、宗教教育に携わる私のような人間にとっては他人事ではない問題です。キリスト教学校では毎日礼拝で讃美歌を歌わせています。しかし、それは強制であってはならないし、強制してそのことで生徒や教員の評価をするようになれば、それはひとりひとりの信教の自由に抵触することになるのです。 キリスト教学校は、実は危ない橋を渡っているのです。信仰があるわけでもない何百人という人びとを一箇所に(礼拝堂に)集め、讃美歌を歌えとばかりにオルガンを鳴らし、司会者が率先して歌ってみせて、歌うことを指導します。これは、たとえば日本人よりもはるかに宗教的な軋轢をたくさん経験した国ぐにでは、信教の自由に反する教育として糾弾されても仕方のないことではないか、と感じることがあります。 ドイツなどでは14歳以上になると、自分の宗教を自分で選ぶ権利が与えられるということです。そこでは個人の自由意志に基づいた判断で選んだ宗教の儀式に参加します。同時に、自分の信じているわけではない宗教に対して、その宗教の礼拝を強制されたりしてはいけないはずです。 日本のキリスト教学校の多くは、このあたりをあいまいなまま、全校生徒に礼拝に参列させるということをやっているのです。このあたりは神学的に、どう説明をつけていくのか、日本の教育神学の課題だと思います。そういう体質が、結局戦時中には、教会や学校が大政翼賛的になっていったことの背景にあるのではないかと直感的に思ってしまいます。 話が横道にそれましたが、「君が代」「心のノート」の強制に対しては、キリスト者は大いに自戒をこめながら、自他共に問い直すしっかりとした批判的な目を養いつつ、慎重に事にかからなければならないと思います。 この『子どもが見ている背中』、いま教育現場でどんな「見えない暴力」が権力によって振るわれているのかを知るためには必読の本と言えそうです。日本の教育はとんでもない方向へと持っていかれようとしています。非常に危機感を深められ、考えることを促されます。 (2007年10月8日記) |
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