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『最後のイエス』

 
  佐藤研 著
  ぷねうま舎、2012年7月12日
  価格:2,600円 (+税)

 実在の「人間」イエスに肉薄する画期的「習作」。
 

 とても面白い本、と私は思いました。
 「神の子」あるいは「子なる神」としての神格化されてしまったイエス・キリストではなく、今から約2000年前に生き、そして殺された一人のユダヤ人としてのイエスを探ろうとする作品です。「史的イエス」あるいは「歴史のイエス」といった事柄に関心がある人には是非お勧めしたい本です。
 目次を見るだけでも、「イエスの〈負い目〉」、「イエスにおける結婚・離婚・姦淫(イエスの『結婚理想主義』とリアリズムの欠如」、「詩人イエス」、「聖書学は〈イエス批判〉に向かうか」等々、聖書に書いてある事は全て事実であると信じている人たちや、イエスは子なる神そのものであると信じている人たちが目をむきそうな項目がズラリと並んでいます。

 一言で言えば、「聖書を、宗教の聖典としてではなく、ひとつの文芸として読む」ということ。
 すなわち、イエスの言動を、神の子の振る舞いとして何でも鵜呑みにするのではなく、一人の人間として、変化し、成長もし、また欠点も失敗も含まれるものとして、ありのままに受け取ろうとする試みです。
 ですから、イエスに対する批判的な見解も当然出てきます。イエスにおける「リアリズムの欠如」なんていう発想は、なかなか保守的な観点からは出て来ないでしょう。

 しかし、私の私見ではありますが、案外この方法で聖書を読むほうが、かえって人間にとっては福音なのではないか、あるいはクリスチャン自身が解放されて楽になるのではないか、と思うのです。
 というのも、保守的な教会では、「イエス様が命じておられるから、清い行いをしなさい、奉仕をしなさい、あなたの信仰は間違っています」という裁きの言葉が、礼拝の講壇から牧師たちによって垂れ流され、信徒や求道者の中には「ああ、私にはとてもイエス様の求めておられるような立派な生き方はできない……」と人知れず苦しんでいる方が案外たくさんおられるのです。
 しかし、イエスも欠点はあった、イエスの言うことにも現実離れしているところがある、イエスの言った通り、行なった通りを真似するのが正しいこととは限らない……と誰かがちゃんとした聖書研究の結果言ってくれれば、そうやって悶々と一人で悩んでいた信徒、求道者は救われます。
 ですから、こういう聖書研究、イエス研究の書がどんどん出版されるほうが、教会の中の人にも、教会の外の人にも、文字通り「福音」となるのではないか、と私は思います。

 それから、そういう方向性でイエス研究をしてゆくと、実は福音書が事実を伝えるメディアとしてはかなり詳細な部分が省略されていて、おおまかなイエス像しか私たちにはつかめないということもすぐに分かってきます。
 そうなると、より詳細な人間イエス像を追求しようとすると、学問から一歩出て、小説のような方法で洞察するしかないのではないか(例えば遠藤周作さんやゲルト・タイセンさんのように)、と私は以前から思っていたのですが、著者の佐藤研さんはそれを既に始めています。
 本書の中に、「アリマタヤのヨセフの話」、「マリアの回想」、「空の墓より」という3つの短編小説が埋め込まれています。なかなか興味深いです。
 私自身が、イエスを主人公にした小説を書ければいいなと思っていたのですが、この本の著者のように専門的に新約聖書を研究している学者の方が、イエスを巡る小説を書いてくださるほうが、当然良い作品ができるでしょうから、私は佐藤さんが「小説イエス」を上梓してくださるのではないか、と心待ちにしています。
 著者ご自身があとがきで、この本は「習作」であるとおっしゃっていますから、これは史的イエスに関する研究の集大成ではなく、その入門編として史的イエスを分析する様々な視点を提供してくれている本ととらえることができます。
 やがて、この著者から素晴らしいイエス論の集大成が出る事は私は期待しています。

 というわけで、リベラルな宗教観、聖書観、イエス観を持つ方々には、胸のすくような一冊であることは間違いありません。心からこの本をお薦めいたします。
 (2013年1月17日記)

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