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赤木善光 『イエスと洗礼・聖餐の起源』
 
 赤木善光 著
 教文館 2012年4月20日
  価格:3,500円 (+税)

 イエスと洗礼・聖餐の起源については書いてありません
 

 この本の題名には偽りがあります。
 この本は洗礼や聖餐の起源とそれらのイエスとの関わりを明らかにしてはいません。
 それどころか、このようにはっきりと著者自身が記しています。
 「キリストの十字架の事件の後、程へずして、どうして原始教会が洗礼を実施することになったのか、その間の事情は明らかではないのです。『キリスト教の』洗礼が、いつ、どのようにして始まったかを、歴史学的に解明することは困難なことです」(p.186)
 これ以外にこの本の中で、イエスと洗礼・聖餐の起源についての記事はほとんど皆無です。
 イエスと洗礼・聖餐の起源を知りたいと思ってこの本を手に取る人は、大変な落胆を味わうでしょう。

 また、この本にはイエスはほとんど登場しません。
 「キリスト教における洗礼や聖餐の起源はよくわからない」という上述の前提の上で、著者が知る限りの神学者の言説をあちこちつまみ食いして批評しているだけの本です。それも、著者は「洗礼を受けた者しか聖餐に与ってはならない」という信念を持っており、その観点からあれこれ神学者を「正しい」 あるいは「間違っている」と判定しているだけなのです。
 そして、その判定の根拠は、「キリスト教信仰の本質から重要不可欠」(p.222)、「教会の規律として当然」(p.235-236)、といった著者の断言しかありません。言い切るのはかまいませんが、その結論をかみくだいて、根拠をわかりやすく述べるという作業を、著者は一切省いています。結局、全てが著者の主観に基づいて書き連ねられている、という感が否めません。

 しかも、その論評の姿勢は、例えば「彼は何々派であるから」とか、「彼は共産主義者であるから」とか、「彼の生い立ちはこうであるから」など、とにかく非常に政治的であったり、個人のプライバシーに必要以上に踏み込んだ踏み込んだ内容に基づくレッテル貼りにまみれています。
 「イエスと洗礼・聖餐の起源」というタイトルであるにも関わらず、イエスと洗礼・聖餐の起源についての記述はほとんど無く、最後は東京神学大学におけるバリケード封鎖と機動隊導入(いわゆる「東神大紛争」(1969年))における井上良雄批判で終わってしまいます。この井上良雄批判も、個人的に恨みでもあるのではないかと思われるほど、井上氏の恋愛・結婚の失敗と彼の思想的弱さを結びつけ、顔をしかめたくなるほどの内容です。
 著者によれば、歴史を語るときには赤裸々にダークサイドをも恐れずにさらけ出さなければならない(p.331-332, 338)とのことですが、文学における作家論と違って、この著者のように、ある一定の思想的偏りのある人間が、異なる思想的偏りを持つ人間を明確に攻撃する意図をもって批判する文章は、読むに堪えません。
 これが神学だと言うのなら、神学とは、ただ思い込みや感情を羅列するだけでいいのであって、到底学問と呼べるようなものではないと言わざるを得ません。
 『イエスと洗礼・聖餐の起源』というタイトルの本がこの有様では、「洗礼を受けた人だけが生産に与ることができる」と信じている人たちが、学問的根拠を見つけようとするのにも困るでしょう。

 結局のところ、イエスと洗礼・聖餐の歴史的根拠はよくわからない。だから、現在の教会の規律に準じてゆこう……。
 あるいは、洗礼と聖餐の問題は、結局教会の会派の対立の問題であるから、一致することは非常に難しいけれども、教会の規律という面からどちらが正しいかははっきりさせよう……。
 そういう安直さのみが、読後感として残りました。
 どんなにキリスト教は「単なる隣人愛の倫理教」(p.52)とは違うのだと言ったところで、そのご大層な宗教や信仰を、活き活きとした言葉で語ることを怠り、単に教会の規律によって統制を図るというだけでは、私のような主体的な自由を重んじる人間には、安易な右へ習え主義に思われてしまいます。
 自由か、規律かということに関して言えば、確かにこの本には、「伝統の違いということは、重い事実です。これは理屈ではないのです。文句なしなのです。教会は伝統によっていますが、各教会の伝統というのは、これには文句なしの所があります。伝統は頭の中ではなくて、体にしみこんでいます。皮膚から肉、体の中にしみこんでいます。だからたとい頭で理解しても、簡単に歩み寄れないのです」(p.348)、と書かれており、その点のみにおいてはうなずける面がありました。自由を渇望する者と、規律に生きる者とは水と油なのです。
 しかし、そのような事実を認めながら、「どちらが正しいのか、どちらにするべきか、はっきりすべきではないでしょうか?」(p.346)と迫るのは矛盾ではないでしょうか。たとえて言うならば、スタンドから無責任に放たれる野次のような。人が異なる立場の狭間で困っているのを、高みの見物であれこれ批評している、それも片方のチームに勝手に思い入れている。そんな無責任さを感じます。

 現在、日本キリスト教団は聖餐をめぐる論争で二分されていますが、双方にとっても役に立たないこの本は、「壮大なる駄作」と言えるのではないでしょうか。
 分厚い本ではありますが、魅力的なタイトルに惹かれて、途中経過で落胆しつつも、最後にはなにか画期的な結論があるのではないかと希望を持って読み進める人には、「最後まで読む価値はありませんよ」と、最後まで読んだ私からは助言申し上げたいと思います。
 しかし、それでも何か価値があるはずだと信じたい方は、あえて止めはしません。どうぞ手にとってお読みください。
 (2013年7月20日記)

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