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山口雅弘編・著 『聖餐の豊かさを求めて』
 山口雅弘、高柳富夫、禿準一、中道基夫、森野善右衛門、
 廣石望、山口里子、菊地恵美香、中村吉基 著
 新教出版社 2008年1月31日
  価格:2,200円 (+税)

 聖餐の起源から発展、そして現代世界における展開について
 とても参考になる良書です。
 

 日本の内外で、聖餐が見直され、現実に様々な聖餐が行われている状況を受けて、改めて聖餐を……
  第1部 牧会・宣教学から
  第2部 実践神学・組織神学から
  第3部 聖書学・キリスト教歴史学から
  第4部 礼拝のメッセージから
 ……という4つの観点から多面的にとらえている書物です。
 9人の執筆者はいずれも、あえてレッテル貼りをすれば「リベラル」な人々であり、この本も全体的に「オープンな聖餐」、すなわち洗礼を受けているかいないかに関わらず、全ての人が招かれている聖餐を支持する方向に向かっています。
 ただ、執筆者によって差はありますが、いわゆる「クローズ」、つまり聖餐を洗礼を受けた人のみに限定することに対する否定を論じている人だけではなく、クローズ派あるいはオープンに反対する人びとの意見も認めている論者がいることが、この本の良いところだろうと思います。

 私自身が聖書学専攻だったので、特に魅力を感じるのかもしれません(たぶんそうでしょう)が、第3部の聖書学・キリスト教歴史学からの論考で、廣石望さんの「イエスと原始キリスト教における『聖餐』」と、山口里子さんの「聖餐ー世界のディスカッションから考える」、山口雅弘さんの「聖餐の豊かさを求めて」は、非常に興味深い内容でした。

 廣石望さんの論考は、イエスの象徴行為としての食事から始まって、聖餐の起源を明らかにします。そして、いわゆる「最後の晩餐(主の晩餐)」についても、共観福音書は過越の食事として描き、ヨハネによる福音書ではそうではないわけですが、この理由についても解説しています。
 さらには、洗礼の起源にも触れ、それが一回限りのものではなく、当初は反復可能なものであったとも述べています。
 イエスによる聖餐の起源、そしてパウロによる新たな意味付け、パウロのコリントの信徒への手紙(一)にある「ふさわしくないままで」、「互いに待ち合わせなさい」、「家で食事を済ませなさい」と訳されている箇所の真相、コリントの教会での聖餐の実態、そしてマルコによる福音書、ヨハネによる福音書への発展、さらには、一般に洗礼を受けていない人以外は聖餐に与ってはならないという根拠としてよく引用される『十二使徒の遺訓(ディダケー)』についても再検証がなされています。
 「長い歴史の中で形成されてきた各教派・教団の聖餐理解とその実践を、一朝一夕に変えてよいとも私には思われません。大切なのは、最初期のキリスト教に見られる活発なシンボリズムの展開に内包されたダイナミズムを活かすような議論と対話がなされることだと思います」(p.138)という廣石さんの締めくくりは、歴史的・文献的根拠を示しつつ、対話に向けて「オープンな」姿勢を示しているものとして、非常に評価できると感じました。

 山口里子さんの論考は、オープンな聖餐にたいする支持派と反対派の対話を両論併記することから始まっており、非常に面白かったです。しかも、その対話は、互いに相手の立場を尊重し認め合いつつ行われているものなので、言いっ放しのぶつけ合いよりは、はるかに読んでいて有益なものでした。
 そして、「今日の非キリスト教社会という新しい状況においては、聖餐をむしろ洗礼に先行する準備的・入門的なリタジーへの参加としても、位置づけることができます」(p.147)という提言は、もともと非キリスト教社会であった日本という文脈でこそ活きてくる提案であると受け止められます。

 その他、個人的には、受洗者のみに聖餐を限定する『ディダケー』や『ユスティノスの弁明』がそういう事を言うのは、実際、それまではオープンな聖餐が行われていた可能性があるということと、『ディダケー』などに書かれている聖餐が過越祭のシンボリズムとは無関係であること(p.137)、『ディダケー』には聖餐制定辞も含まれていないことから、パウロやマルコが示している聖餐とは別のものである可能性(p.135)などが、非常に興味深かったです。
 また、「最後の晩餐」を根拠に、閉じられた聖餐を主張する人々もいるわけですが、それに対して、(最後の晩餐の史実性は置いたとしても)十二使徒が洗礼を受けていたわけではありませんし、また、イエスの受難と復活と贖罪の意味を、その別れの食事の段階で理解していたとは言えませんし、その晩餐の直後にユダもペトロもイエスを裏切り、他も全員逃げてしまったというメンバーの姿を見て、果たして誰がその最後の晩餐に招かれるに「ふさわしい」者だったのだろうか、ということをちゃんと考えてみないといけません(p.196参照)。
 時折、いわゆるクローズ派の人々の中には、「受洗者以外の陪餐が行われている例がどこにあるのか?」と問われますが、実例として中道基夫さんがスイスとカナダ、ドイツの実例を紹介し、非受洗者や子どもに対して開かれた聖餐があることを示しているのも、この本を価値ある資料にしています(p.66-84)。

 とにかく、まとめますと、この本においては根拠の薄い断言は一切行われておらず、現在の聖書学や初期キリスト教史、礼拝学などの研究成果による聖餐の検証結果を、きちんと根拠を立てて述べている、大変良い本です。
 脚注や文献表などの資料も充実していて学問的に誠実な反面、本文は一般的な読者も想定し、非常にわかりやすく平易な文章で書かれていて親切です。
 この本は、日本基督教団で聖餐論に悩んでいる人にも、また、教団とは関係なく聖餐について良い参考文献を求めている人にも、おすすめしたい良書です。
 (2013年8月6日記)

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