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赤木善光 『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』
 
 赤木善光 著
 教文館 2008年11月1日
  価格:1,600円 (+税)

 読めば読むほど疑問が深まる困った本
 


 「神学論争の場合、宗派的な立場から結論はあらかじめ決まっている。あとは結論に向けて、どういう論理を構築するかの腕が競われることになる」という言葉を聞いたことがあります。もし、それが神学というものの定義のひとつならば、この本はまさに「神学的」な本です。まさに結論は予め決まっていて、論理は後からついてくるということが、実にわかりやすく露になっているからです。

 結論は決まっています。
 「聖餐は『聖』なるものであり、神が行なう『恵みの手段』であり、理性による理解を超えた『秘義』である」
 「聖餐は『キリストと一体となる』という意味において洗礼と密接不可分なものであり、洗礼を受けていない者は聖餐に与ってはならない」
 「未受洗者による陪餐を主張する者は、聖餐をサクラメントという神の恵みの手段として受け取ることができず、『俗』なる知性/理性によって聖餐の意味さえ分かればいいと思っており、聖餐を神の行いではなく、人間の行動にしてしまっており、洗礼を否定している」
 これが著者の前提であり、結論です。
 論証を重ねて結論が出るのではなく、この結論に向けて、論理が構築されているだけです。それが神学というものだというのなら、そういうことなのでしょう。

 突っ込みどころは満載なのですが、いくつかにしぼります。
 まず、著者の頭の中では、聖餐を非受洗者に陪餐するのは、聖餐を愛餐化することであり、その
「原因の一つは、現代人が『聖』を理解できなくなったことにある」(p.29)と述べています。
 そして、さらにその原因として、
「現代人が、天災と人災とを含めて、さまざまな不幸や禍を、『たまたま自分の運が悪かったのだ』と考えて、神の審判として受け取ることをしなくなったことによる、と思います」(p.29)と述べています。
 そして、実例として、第二次世界大戦の敗戦、秋葉原での殺傷事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件、福知山線の大事故などをあげています(p.31-32)。
 これは、かなり危険な思想なのではないでしょうか。
 第二次大戦における日本の敗戦が神の審判なら、戦勝国は審判を受けていないことになりますが、何故、日本に核兵器を2発も投下して数百万人もの人名を奪った国が裁かれていないのでしょうか? 秋葉原やサリン事件や福知山線の事故が神の審判であるならば、誰に対する審判なのでしょうか? 死んだ人はなぜ死に、傷を負った人はなぜ傷を負い、事故や事件に遭わなかった人は、何故遭わなかったのでしょうか? 亡くなった人や遺された遺族が引き裂かれた思いを抱く前で、どの面を下げて「これは神の審判です」と言うのでしょうか? 亡くなった人は何をもって神に裁かれたのでしょうか? 生き残った人や被災しなかった人は何をもって神に見逃されたのでしょうか? こういう絶対に答の出ない問いを投げつけて人の苦しみを倍増させるのが、「天罰」という思想なのです。
 著者は、イスラエルの民におけるアッシリアの侵攻やバビロン捕囚を引き合いに出しています。イスラエルの民が自分たちの民族の運命を、自分たちが神に背いたためだと自己理解するのは構いません。しかし、身の覚えのない災いを受けた人に対して、第三者が「これは神の審判だ」と言うのは、はっきり言って迷惑千万なことではないでしょうか。 
 このような言説は、理不尽な天災・人災を、対岸の火事のように眺めることができる人が、一応の自分なりの納得をつけるのには役立つかも知れませんが、被災した当事者・関係者にとっては、苦しみや怒りをかき回すだけであって、百害あって一利無しと言えるのではないでしょうか。
 このような、ある意味、無責任、無関心、無慈悲に立った思想を基礎にして、「聖」なるものの意志があるかのように論じられても、全く納得できませんし、仮にそのような「聖」なるものがあったとしても、そのような人間に対する愛の無い「聖」を信仰したり、崇めたり、礼拝したり、奉献したりといったことはこちらから願い下げです。
 そういうわけで、私としては、この著者の言うところの「聖」の存在を根拠にして、聖餐を特別なものにするという論旨を、全くもって拒絶したいと思わされました。
 この本の内容は、2006年と2008年の講演が基になっているようですが、2011年の東日本大震災を経てなお、このような記事を残した本が出版されているというのは、貴重な史料として捉えるべきなのか、戸惑うところです。

 次に、この本は2008年に出版された、山口雅弘編著『聖餐の豊かさを求めて』(新教出版社)に対して、
「聖餐と愛餐とが明確に区別されず、執筆者たちが聖餐だか愛餐だか分からないまま書いているのではないか、と思われます。聖餐について論じながら、いつの間にか、愛餐について論じているのです。未受洗者の陪餐を実行している教会でも、聖餐と愛餐は区別されていないようです」(p.40)と評しています。
 これはひどい暴論です。著者は、相当読解力がないか、最初から「こいつらは聖餐を愛餐化している」とレッテルを貼って先入見で判断しているのでしょう。
 『聖餐の豊かさを求めて』という本には、「聖餐の起源にはイエスの愛餐があり、最初期の教会では愛餐と聖餐が分離されてはいなかったが、やがて2つに分離していった」ということは書いてありますが、「聖餐だか愛餐だか分からないまま書いている」などということはありません。
 このような、最初から偏見で片付けているような態度では、有益な対話は望めるはずもありません。
 これだけに限らず、著者はこの本の随所で、「非受洗者に陪餐を許そうとする者は、聖餐と愛餐をごちゃごちゃにし、神のわざである聖餐を人のわざにしてしまうツヴィングリや赤岩栄の過ちを繰り返している」という決めつけを行なっており、そのレッテル貼りに終始しています。
 そういうやり方でしか、対話すべき相手をカテゴライズすることしかしないのでは、話がすれ違って議論にならないのは当たり前です。
 もっとも、著者にとっては、最初から聖餐を非受洗者に開くこと自体が間違っていることなので、対話の必要はないということなのでしょうが。

 さらに著者は、
「未受洗者に陪餐を許さないのは差別ではなく、区別だ。差別と区別とは異なる。なぜなら、信じることも洗礼を受けることも各自の自由意志によるからである。信じて洗礼を申し出た人には、教会は一定の審査の上、洗礼を授けることを外的に規制していないのだから、差別とは言えない。聖餐にあずかりたいのであれば、洗礼を受ければよいのである」(p.85-86)と記していますが、これは教会の現実を知らないから言えることではないかと思われます。
 まず、「洗礼は自由意志によるものだから、聖餐にあずかりたければ洗礼を受ければよい」と簡単に割り切っていますが、個人の自由意志を素直に行動に移せる環境にいる人ならともかく、地縁血縁の縛りなどから、自由意志で洗礼を受けるということがなかなか難しい事情が、特に地方の教会には往々にしてあります。また地域に関係なく、家庭内の理解が得られず、信仰があっても、洗礼を受けるに至っていない人もたくさんいます。そのような事情を著者が考慮しているとは思われません。
 加えて、著者は
「問題は洗礼であって、信仰ではない」(p.81)と言い切っています。「誰がどのような信仰を、どの程度持っているかは、神のみが知りたもうのであって、人間が判断することは不可能です」(p.81)。「信仰の内容や程度によって陪餐の適・不適を判断することはできないのです」(p.82)とも述べています。
 ということは、著者の論理では、信仰があっても、洗礼を受けられない人は、聖餐から外されるのであり、それで何の問題も矛盾もないのです。大切なのは、信仰の有無ではなく、洗礼を受けたか受けていないかという形式的な秩序だということでしょうか? このあたりは非常に疑問を抱かされました。
 このような理解では、信仰があったとしても、事情があって洗礼を受けられない人は、排除するのが当然ということになりますし、病気や障がいのために信仰告白ができない人は永久に排除されるということになります。これで本当に「恵みの手段」としての聖餐と言えるのでしょうか?

 加えて、洗礼と聖餐の関係について著者は、
「確かに福音は開かれたものであるが、キリスト教はそれ自身の秩序を持っている。その秩序を崩すべきでない。もし未受洗者に陪餐を許すと、洗礼の意味がなくなる。未受洗者に陪餐を許すということは、論理的には、洗礼と聖餐とは無関係で、両者を切り離すことができるという主張、また洗礼を無視してもよい、という洗礼否定論を含んでいる」(p.86)と述べ、「このようなわけで、洗礼は一回限り、聖餐は繰り返されるという違いはあるにせよ、内容的には、洗礼を受け、聖餐をあずかることは、『キリストの体にあずかる』という同一事態の二つの面だと言うことができる」(p.91)とも述べています。
 「未受洗者に陪餐を許すと、洗礼の意味が無くなり、洗礼と聖餐を切り離すことになる」、また「洗礼を否定する」というのは本当でしょうか?
 例えば、『聖餐の豊かさを求めて』という本には、「洗礼から聖餐へという一方通行ではなく、聖餐から洗礼へという導きもあり得る」と述べられていますが、これは洗礼と聖餐を切り離すという発想では書かれていません。むしろ相互に働き合う礼典として積極的に捉え直されています。
 また、洗礼と聖餐が「同一事態の2つの面だ」とまで強調されるのなら、洗礼が自由意志で受けられるのと同じように、聖餐も自由意志で受けてかまわないのではないでしょうか? 洗礼は自由意志で受けたらいい、聖餐は自由意志は関係ないという区別はどこから来るのでしょうか? 信仰があれば信仰告白し、洗礼を受けられる。しかし、聖餐は信仰の有る無しや程度は関係なく、洗礼を受けたかどうかという基準によってのみ秩序づけられる、これはどういう根拠によるのでしょうか? この本ではその点は明確にされていません。
 洗礼と聖餐が同一事態の2つの面だというのであれば、洗礼を自由意志で受けてればよいのと同じように、聖餐も自由意志で受ければよいのです。聖餐だけを自由意志に対して拒絶するのは矛盾です。

 他、気になったのは、
「聖書学者たちが指摘しているように、もしIコリント十六・二二『主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい』(口語訳では「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」)が初代教会の聖餐式において告知された言葉であるとすれば、聖餐には、すでにパウロの頃から裁きや呪いの面があることとされていたと言うことができる」(p.97)とありますが、このようなことを明らかにしている聖書学者の研究成果はあるのでしょうか?
 ちなみに、このパウロの言葉は、聖餐とは全く文脈で記されていますが(Iコリントの末尾の言葉)、これが初代教会の聖餐式において告知されていたというのは本当でしょうか? ここは未確認ですので判断を保留しておきたいと思います。
 ただ、このような論旨に基づいて、
「一一・二七と二八の「ふさわしくないままで」陪餐する者は「主の体と血とに対して罪を犯す」とか「自分自身に対する裁きを飲み食いしている」という言葉の背景には、ユダのこともあったのではないだろうか。ルカはユダの最後について(中略)ときわめて具体的に記しているが、そのような記述をした理由には、Iコリント十六・二二の「主を愛さない者は、のろわれよ」があったのではないだろうか」(p.97-98)「もし以上のような解釈が許されるとすれば、最後の晩餐にユダが加わり、パンと杯とを受けたことを、未受洗者に陪餐を許すための積極的理由とすることはできないことは明らかである。むしろ反対に、そのことは、陪餐に対して慎重でなければならないことを示唆しているのではなかろうか」(p.98)というのは、いささか話が飛躍し過ぎてはいないでしょうか?
 著者は、「ふさわしくない者」を聖餐の席に招くと、その者に対する厳しい裁きが下り、ユダが「まっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」(使徒1:18)のは同じような裁きを招くと言いたいのでしょうか?
 「ふさわしくないままで陪餐する者は、罪を犯すことになる」というコリントの信徒への手紙の言葉を、イエスの最後の晩餐の場面に当てはめて読むと、ユダは最後の晩餐に加わったから、罪を犯し、裁かれたことになるのでしょうか? しかし、最後の晩餐にユダを招いたのはイエスです。ユダはイエスに食事に招かれても自分から固辞するべきだったのでしょうか?
 この著者のような恣意的な聖書解釈は、考えれば考えるほど、矛盾点が暴露して、わけのわからないことになるので、正直つきあいきれないという感を覚えます。そもそも「ふさわしくないままで」というパウロの言葉の本来の原意と文脈については、きちんと聖書学者の研究に耳を傾けるべきではないでしょうか。「ふさわしくないままで」という日本語訳も、必ずしも適切な訳ではないことも、またこの言葉が向けられたのも、むしろ自分たちはふさわしいと思って聖餐に参与しているクリスチャン自身に向けた警告であったということも、考慮すべきではないでしょうか。

 以上、本書を読んで、なぜ非受洗者が聖餐にあずかってはいけないのか、という疑問は解決しませんでした。それどころか、最初から決まっている結論に対して、矛盾をはらんだ論議が書き連ねられているだけで、疑問は深まるばかりでした。
 他にも問題を感じる部分は多かったのですが、これ以上書き出すと、あまりにも冗長になってしまいますので、このあたりでやめておこうと思います。

 結論的には、あまりこの本を読むことはおすすめしません。疑問が解決するとは思えないからです。しかし、薄い本ですから、比較的短時間で読めますので、聖餐を非受洗者に開いてはならないと考えている人の考えを知る手がかりとして読む分にはよいかもしれません。
 私にとっては学ぶこと少ない本でしたが、読む人にとっては自らの立場を強化してくれる、示唆に富む本になるのかもしれません。どうぞ、読みたい方はお読み下さい。
 (2013年8月16日記)

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