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 Q. 旧約聖書を読んだんですが、神ってどうしてあんなに身勝手なんですか?
 けっこうヒマだったもんで、旧約聖書を最初から読んでみようと思ったんですよ。そしたら、なんだかこの「主なる神」っていうやつが、とんでもないわがままというかぁ、その、こんな身勝手でいいのかって言いたくなるくらい身勝手なので、こんなのを本気で神さまだなんて拝んでるんだったら、とてもついていけないな、と思った次第です。

(2001年ごろにお受けして、長期にわたり放置していた疑問のひとつ)

 A. 身勝手ですよね。本当に。 ←答えになってない
 まず最初に身勝手だな、と思わされるのは、天地創造のあと、その実を食べちゃいけないはずの木を、どうしてアダムとエバの住んでいる目の前に置いたのかということですよね。「食べてはいけませんよ」と言われたら、余計においしそうに見えてくるし、そういう木をこれ見よがしに植えておく。それで、実際食べてしまったら、「何ということをしたのか」(創世記3章13節)と言って、人間と人間をそそのかした蛇に呪いをかけてしまいます。

 また、あるときは、地上に悪がはびこり、常に悪いことばかりを計画しているのを見て悩み、
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけはなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」(創世記6章7節)と言い出す。
洪水ですから魚は滅ぼされないのかな、などというチェックも入れたくなりますが、とにかく神さまには「造った側の責任」というもの、今で言うところの製造物責任法的な考え方はないようです。「ご自身の創造のわざが不完全だったのではありませんか?」と言う人はいなかったらしい。ていうか、そういうことを言った人は間違いなく洪水でおぼれ死んだろう。とにかく神さまは地上を洪水で襲い、ノアの家族だけ助けるようにします。
 この時点でもっとも私が身勝手だなーっ! と思うのは、洪水の後の神さまのセリフですね。
 洪水が終わり、ノアたちが神をなだめる祭壇を作り、ささげものをしたとき、神さまはこういうのです。
 
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい、人が心に思うことは幼いときから悪いのだ。」(創世記8章21節)
 これはひどい! ひどいと思いませんか? 「人が心に思うことは幼いときから悪いのだ」なんて言うくらいだったら、最初から地上に悪がはびこっていたのを見た時点で、なぜそう考えなかったのか。私はここを読むたびに、「ひどいよなぁ、これは」と思ってしまうのです。思わず口に出して言ってしまったりします。「これは、ひどいよなぁ」って。

 このようにして旧約聖書を読んでゆくと、まず最初のほうは、こんな具合で神さまが自ら身勝手なふるまいを展開してゆきます。
 つぎに、出エジプト記のモーセ物語以降を読んでゆくと、イスラエルの神である「主」と、他の民族の神々との戦いという物語の展開になります。
 さらには、歴代誌・列王記などの王国の歴史を読んでゆくと、敵の軍隊さえも「主」なる神が動かして、イスラエルを攻撃させる(つまり、敵を利用してイスラエルを罰する)ということになってゆきます。
 たとえば……
 
「主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め上らせられた。彼は若者たちを聖所の中で剣にかけて殺し、若者のみならず、おとめも、白髪の老人も容赦しなかった。主はすべての者を彼の手に渡された」(歴代誌36章17節)
 ……これは新バビロニア帝国(バビロン)がイスラエルを攻める場面ですが、こんな風に、神が敵に力を与えてイスラエルを討たせる、という描き方になってゆきます。

 最初は個々人と対立する神さま、つぎにはいくつも民族の数だけある神々の中でも特にイスラエルの神さまという存在として描かれ、最終的には敵も味方も両方ともコントロールする全知全能の唯一神、という具合に神さまの描かれ方が変わっていっているのです。

 このことから言えるのは、「人間は神さまという存在をよくわかっていない」ということです。
 時代や社会状況によって、神の描き方が変わってゆくということは、神という存在が人間にとっては常に謎の存在であるということですね。

 もうひとつ言えることはなにかというと、「人間は、人間の力の及ばないものを神のわざとして認識する」ということです。
 人間がとてもコントロールできないような天変地異はもちろんのことですが、たとえば敵との戦争で、比較的よく勝利をあげていて王国を樹立していくあたりの歴史の段階では、「『主』なる神が○○に勝利した」、というような描き方になるのですが、王国が次第に滅亡に向かってゆくと、「『主』はわれらを○○の手に渡された」という描き方に変わってゆくのです。
 結局、人間が人間自身の力でコントロールできないものは、「神のみわざ」だと言うしかなかったのです。
 コントロールできないもの、それは洪水であったり、地震であったり、敵の軍事力であったり……それらの自力で予想もコントロールもできないすべてを「神のみわざ」と受け取るしかなかったのです。

 考えてみれば、神さまにとっても迷惑な話かもしれません。
 神が洪水を本当に起こした、そして洪水を止めた、神がイスラエルを勝利させた、神がイスラエルを敗北させた……なんでもかんでも人間のコントロール外、想定外のことについては、神さまのせいだということにして、人間を聖書を書いてきたわけですから、神さまから見ても、「おいおいちょっと待ってくれよ。なんでそれがわたしのせいなの?」と言いたくなるような記述も聖書にはあるのではないでしょうか。

 とにかく、なぜ旧約聖書の神は身勝手に描かれているのか。
 それは、身勝手で理不尽で人間には理解できない不条理なことは、みんな神さまのみわざである、と描き続けてきた旧約聖書の各文書の記者に責任がある、ということになるのではないでしょうか。

〔最終更新日:2006年3月13日〕

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