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 Q. 聖書に書いてあることは結局ホントなんですか、ウソなんですか?
このホームページを見ていると、あちこちで、「この文書が書かれた時代には……」とか、「この文書を書いた著者は……」という言葉が見られます。
あなたは、聖書は人の言葉だと思っているのですか? 聖書を神さまの言葉だと認めていないのですか?
教会では、聖書の言葉は、一言一句間違いのない神の御言葉です、と教えていただきました。
しかし、あなたは牧師の肩書きを持っているといいながら、聖書は神さまの御言葉ではない、とおっしゃるのでしょうか? わたしには理解できません。
あなたは、聖書に書いてあることはすべてウソだ、とおっしゃるのでしょうか……?

(かなり頻繁にお寄せいただくメールの内容より再構成したもの)

 A. ウソというのは言うすぎですが、人の手あかにはまみれていますよ。
 「聖書は、一点一画誤りなく、一箇所も間違いのない、完璧な神の言葉が書いてある書物である」……と信じている人は、意外に多いようです。いや、むしろ、最近では増えているという話さえ聞いています。
 わたしは、これはカルトの流行と同じくらい危ない現象ではないかと、はっきり言って思っております。
 たしかに、このウソとゴマカシと悪意と暴力に満ちたこの世の中で、「なにかひとつでも真実なものがあってほしい」「信じられるものがあってほしい」と思う気持ちはわかります。
 しかし、なんで、人間の文字で書かれた書物を、「完璧で、間違いがない」と信じ込むなどという、ありえないことができるのですか?
 「聖書は一字一句間違いのない神の言葉である」……これは一種の思い込みというか、イデオロギーというか、しょせんスローガン的なかけ声に過ぎないのであって、これから述べていきますように、明らかに現実とは違います。

 しかし、それでは「聖書に書いてあることは、ぜんぶウソ」なのかというと、そういう風に言い切るのもまた間違っているのです。
 「聖書の間違い」をあげつらう本やサイトがいくつかあります。たいていは、つまらない、くだらないものです。
 なぜそういう本やサイトがくだらないか、というと、そこに自慢げに書いてあるような「聖書の間違い」という類のものは、たいてい聖書学者などの専門家なら確認済みのものですし、神学校などでひととおり勉強した牧師なら、だいたい知っているような話だからです。
 映画の『スター・ウォーズ』を観て、「どうして真空であるはずの宇宙でエンジン音や爆発音が聞こえるのだ。科学的におかしいではないか。『スター・ウォーズ』はウソばかり描いている!」といきり立つ人がいるでしょうか? スター・ウォーズのウンチク本によれば、科学的には、ライト・セイバーのスイッチを入れただけで、スイッチを入れたジェダイの騎士自身が熱で蒸発してしまうそうです。聖書の間違いを自慢そうにあげつらっている人の多くは、その程度のレベルの話で喜んでいるだけなのです。
 あるいは、『スター・ウォーズ』なんか例に出したら、聖書が完全に作り話みたいに受け取られても困りますから、実在の人物を描いたテレビ番組を例に取りましょう。
 『義経』というテレビ・ドラマがあります。源義経は実在した人物です。そして、義経にまつわるストーリーも実話に基づいているでしょう。しかし、じっさいの源義経があんなに男前だったかどうかは、わからない。むしろ、たいへん不細工であったという伝承もあります。しかし、番組では男前の男優さんが演じてしまう。でも、「それはウソだ! あの番組はウソだ!」と怒るのはヤボというものでしょう。ドラマというものには、演出とか脚色というのものが入るのです。
 同じように、「聖書に書いてあることはウソばかり」とムキになるのも、ヤボというものです。聖書にも演出や脚色は入っています。

 聖書に描いてあることは、そのフィクションの程度はもちろん部分によって異なりますが、だいたいは史実に基づいた、しかし大幅に脚色されてしまった「歴史もの」の小説のようなものだ、と思ってください。
 聖書を通して歴史的な手がかりを得ることはある程度は可能です。しかし、聖書に書いてあるとおりに物事が起ったわけでもありません。
 「何があったか」と聖書から読み取ろうとするより、「何を言わんとしているのか」というメッセージ性を受け取ろうとするほうが、聖書の上手な読み方と言えるかもしれません。
 誰も、浦島太郎のお話を聞いて、「竜宮城なんてウソだ」とダダをこねたりしないでしょう? でも、浦島太郎のお話では、「困っている人がいたら、見知らぬ人でも助けてあげよう」というメッセージを受け取ることはできますね。そういう読み方が大事なのです。
 聖書も同じ。「書いた人は、ここから何を学べと言っているのかな?」ということを考えながら読むと、だいたいうまくいくのです。

■聖書が完璧ではないわけ (聖書が人間の書物であるわけ)

 「完璧ではない」と言うと、聞く人によってはちょっと過激に聞こえるでしょうか?
 要するに、聖書に書いてある文章というのは、神という人間には把握できるはずもない超越的な存在が直接人間の言葉を使って書いた残した文章なのではなくて、まぎれもなく人間が書いた文章であるということなのです。
 しかも、一人で書いたのではなく、たくさんの人が何世代にもわたって語り伝え、またその語り伝えた道すじも複数あり、その複数の言い伝えを、複数の人が書き残し、それをまた複数の人が寄せ集めて、まとまった本にしていった……というプロセスを踏んでいます。
 ですから、当然、書いた人によって、あちこち見解の相違が見られる部分が出てきたり、聖書のある部分を、後の世代の別の人が引用するときに間違って引用して、それがまた聖書におさめられている、というようなことも起っているのです。
 おまけにそれを翻訳してさまざまな言葉に直している過程で、意味のズレが生じてしまったり、ということも起こるので、何が本当に正しい言葉なのか、ちょっと簡単には言えないような状況になっていたりもするのです。

 ここから先は、少し細かく例を紹介していきましょう。
 ただし、ここに紹介しておくのは、問題点のほんの一部にすぎないのであって、ここに紹介したような問題が、聖書のあちこちにごまんとあることをおぼえておいてください。

 【聖書が完璧な書物ではない、ほんの一例……INDEX】 (クリックするとその項目にジャンプします)

 ▼同じような話が何種類かの系統で伝えられている例……その1:天地創造物語
 ▼同じような話が何種類かの系統で伝えられている例……その2:ノアの箱舟物語
 ▼同じような話が何種類かの系統で伝えられている例……その3:アブラハムとサラとハガルの物語
 ▼明らかに人が書いたという証拠……ルカ文書の前書き
 ▼聖書の引用を間違えている例……その1:マタイ
 ▼聖書の引用を間違えている例……その2:マルコあるいはイエス
 ▼先人の著作を意図的に改ざんして書いている例……離縁の禁止の教え
 ▼明らかに文学として読むべき技巧が発見できる例……その1:ルカによる福音書の「飼い葉桶」
 ▼明らかに文学として読むべき技巧が発見できる例……その2:マルコによる福音書の神の子宣言と天が裂ける話
 ▼内容が食い違う写本が山ほどある現実
 ▼翻訳のしかたで、意味が変わってきてしまう例……その1:イエスは本当に神の子か?
 ▼翻訳のしかたで、意味が変わってきてしまう例……その2:パウロの論敵の言葉?

 ■おわりに……「聖書は人間が書いた書物です」




 ▼同じような話が何種類かの系統で伝えられている例……その1:天地創造物語

 たとえば、ぶあつい聖書の一番はじめのほうにある、「天地創造」の物語があります。旧約聖書の最初、「創世記」という文書の1章1節から、注意ぶかく読んでゆくと、実はここには2つの「天地創造物語」があることがわかります。2つの物語が並んでいて、どこかでつなぎ合わされているのです。
 じっさいに読んで欲しいです。言われなければわからなかったかもしれませんが、「2つの物語があるんだ」と思って読み進めば、どこが境い目か、わかるはずです。……わかりましたか?
 答えは、2章の4節です。その前後の2章3節から5節までを、ちょっと見てみましょう。

  〔3節〕この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
  〔4節〕これが天地創造の由来である。

      主なる神が地と天を造られたとき、
  〔5節〕地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。

  (創世記2章3−5節)


 4節の途中から、またもうひとつの物語が語り始められようとしているのが、わかりますか?
 いったん、「6日間働いて、1日安息日をとった神さま」の話が終わって、こんどは(せっかく6日目に地上のすべての植物を作ったはずなのに)、「地上には木も草も生えていなかった……」から始まる別の物語がスタートするのです。
 片方は、ドロドロの混沌から、6日間かけて、天地を造り、最後に人間を作った神さまの物語。
 もう片方は、カラカラの砂漠から水が出て、土をこねて、まず最初に人間を作った主なる神さまの物語。
 こうして2種類の物語があると、「いったいどっちが本当の世界の始まりでしょう?」ということになりますね? どっちだと思いますか?
 ですからね、「どっちが本当か」ではなくて、「第1の物語はどんなことを言いたいんだろう? そして、第2の物語にはどういう思想がこめられているんだろう?」という風に考えて読めばいいのです。

 ▼同じような話が何種類かの系統で伝えられている例……その2:ノアの箱舟物語

 まだ、天地創造の物語のように、前後にきっちり分かれている場合はいいんです。ノアの箱舟の大洪水の話なんか、ごたまぜになっていて、どっちがどっちの物語なのか、分類するのが難しいものもあります。
 たとえば、
「人の一生は百二十年となった」(創世記6章3節)となったはずなのに、洪水が起ったときは「ノアが六百一歳のとき」(同8章13節)だったとか。
 あるいは、
「洪水は四十日間地上を覆った」(同7章17節)けれども、「水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった」(同24節)とか。
 一般には、
「命の霊を持つ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌が来た」(同7章15−16節)だと思われているようだけれども、「清い動物を七つがいずつ取り、また、清くない動物も1つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがいずつ取りなさい」(同2−3節)なんていうヤヤコシイ指示が書いてあるところもある。
 これは、2種類の「洪水物語」があって、それが、まぜこぜに編集されているからなのですね。「どっちが本当の話なのか?」と考えても、答えなど見つかりようがありません。どちらも神話、伝説なのです。

 他にも、ノアに3人の息子がいたと言いますが、その1人、セムの子孫を書いた系図は、創世記10章21−31節と、11章10−26節の2種類が残されていますが、読み比べてみればすぐわかりますが、全然、記録されている名前が違います。
 どっちがホンモノでしょうか? どっちもウソなのでしょうか? いや、ただ2種類の伝説が伝わってきているのを、両方とも記録した、というだけのことなのです。紀元前の話ですよ。紀元前にしては几帳面なほうじゃないですか。そう思いませんか?

 ▼同じような話が何種類かの系統で伝えられている例……その3:アブラハムとサラとハガルの物語

 だんだんマニアックになっていきます。
 たとえば、創世記12章からアブラム、あるいはアブラハムの物語が始まります。
 
創世記12章1−8節の、アブラムが主から「あなたの子孫にこの土地を与える」(12章7節)と言われる話と、17章1−8節の、アブラハムが神から「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」(17章8節)と言われる話は、似ています。
 
16章1−16節の、サライの女奴隷ハガルが、アブラムの子を身ごもったことをサライにねたまれて追い出される話と、21章9−21節の、ハガルがサラにねたまれて追い出される話は、似ています。
 どうやら、アブラム&サライの伝説と、アブラハム&サラの伝説が2系統伝わっていたのでしょう。
 そして、
「あなたはアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」(17章5節)、あるいは「あなたの妻サライは名前をサライではなく、サラと呼びなさい」(同15節)という話を付け加えて、2つの物語を接続したのではないか、という推理が可能になってくるわけです。

  この種類の例の紹介はこのへんにしておきましょう。

 ▼明らかに人が書いたという証拠……ルカ文書の前書き

 たとえば代表的なのは、新約聖書のルカによる福音書のいちばん最初に、いわゆる「献呈の言葉」というものが書き記されています。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです」(ルカによる福音書1章1−4節)

 どこの神さまが、どこかの貴族かなにかのテオフィロさまに、こういうお手紙を書かないといけないのでしょうか。これは、明らかに人間である著者が、他の著者に対してけん制をしながら、自分の著作を売り込もうとする前書きですよね。
 これで、少なくともルカによる福音書が、神さまが直接筆をとってお書きになったのでも、神さまの霊感を受けてまるで心霊現象のようにアレアレと書く人の筆が動いたのでもないことを、「よく分かっていただきたいのです」。
 ちなみに、ルカさんは、福音書の第2巻:続編として、使徒言行録をお書きになっています。使徒言行録の出だしはこうです。

 「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」(使徒言行録1章1−2節)

 これで、この2冊の本が、シリーズものとして書かれた人間の著作であることがわかりますね。
 ここで、「いや、神さまはそういう風に人間が書いたかのように思わせるために、わざわざそういう風にご自身でお書きになったのだ」とおっしゃる方はいますか? でも、もしそうなら、なんのために?

 ▼聖書の引用を間違えている例……その1:マタイ

 あと、こういう例があります。
 新約聖書というのは、旧約聖書がすでに浸透している世界に、旧約聖書を知っている人たちがたくさんいることを前提にして書かれましたから、当然、旧約聖書を引用する、ということもあるわけです。で、その引用が、原文の旧約と違っていたりするのですね。
 たとえば、マタイによる福音書2章6節、イエスが生まれることを占星術の学者たちがやってきて予言する場面です。占星術の学者たちが旧約聖書のミカ書5章1節を引用して言うのです。

 「ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者の中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイによる福音書2章6節)


 ところが、じっさいのミカ書は、こうなっているのですね。

 「エフラタのベツレヘムよ
 お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
 お前の中から、わたしのために
 イスラエルを治める者が出る」(ミカ書5章1節)


 単なる記憶違いか、引用するときに文章表現上の効果をあげるために意図的に改ざんしたか。それは実際のところわかりませんが、とにかく引用元と引用先が食い違っている例です。

 他にも、実は新約聖書が書かれた当時、人びとの間で出回っていたのは、旧約聖書のヘブライ語の原典ではなくて、ギリシア語に翻訳されたいわゆる
「七十人訳」と呼ばれる旧約聖書だったのですが、どうもこの「七十人訳」、もとのヘブライ語聖書から、意訳したり、訳し変えたりしたところがあったらしい、だから、新約聖書を書いた人たちが読んでいたギリシア語の旧約聖書と、いまのわたしたちが読んでいるものの元になっているヘブライ語の旧約聖書とは、食い違っているところがいくつもあるんだよ、ということも最近は研究の結果明らかになってきているのです。わたしは不勉強なので、その具体的な細かい例のひとつひとつは知りませんが。
 そうすると、上に書いたような、旧約と新約の言葉上の矛盾なんて、もっともっとたくさん出てきてもおかしくはないでしょうね。つまり、もともとの
ヘブライ語のユダヤ教聖書ヘブライ語聖書:キリスト教に受けつがれた「旧約聖書」のもとになった本)と、新約聖書を書いた人びとがもっぱらよく引用していたギリシア語のユダヤ教聖書七十人訳聖書)の間で、ヘブライ語からギリシア語に翻訳されるときに食い違いが起こった部分がたくさんあるはずですから。翻訳とはそういうものですから。

 ▼聖書の引用を間違えている例……その2:マルコあるいはイエス

 イエスだって聖書の引用を間違えています。
 マルコによる福音書2章23−28節、ある安息日に、イエスが麦畑を通って行くとき、腹が減っていたんでしょうかね、イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めたとき、ファリサイ派の人たちがそれを見つけて、
「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(マルコによる福音書2章24節)と言う。
 するとイエスは言い返す。

 「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」(同25−26節)

 そう、たしかに、そういう話が旧約聖書、サムエル記上21章1−7節には書いてあった、しかし……

 「ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った」(サムエル記上21章2節)

 ……アビアタルじゃなくて、アヒメレクだった。しかも、どこにもそれは安息日の出来事だったとは書いてない。
 でも、どうしてファリサイ派の人たちも、反論しなかったんでしょうね? 「ハハハ、バーカめ。それを言うなら『アヒメレク』だろーが。おまえこそ読んだことがあるのか!」とイエスを笑うこともできたでしょうに。
 それとも、安息日の話でもない、関係ない話を持ってきて煙に巻いたイエスの圧倒的開き直りのパワーに気押されて、あわわ……と何も言えなかったのでしょうか?

 とにかく、このマルコによる福音書を資料として使ったマタイは、この物語を引用するとき、「このままではマズい」と思ったのでしょうか、このアビアタルの名前の部分はカットしていますね。

 「ダビデが、自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか」(マタイによる福音書12章3−4節)

 ▼先人の著作を意図的に改ざんして書いている例……離縁の禁止の教え

 新約聖書のなかでも、マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書は、同じような観点から同じようなストーリーでイエスの生涯を描いているので、「共観福音書」と呼ばれているのは有名な話です。
 なかでも、もっとも古いものはマルコによる福音書で、マタイとルカは、かなりな部分マルコから引用することで基本的な筋書きを作っています。
 ところが、同じお話のはずなのに、この3つの福音書の著者が、それぞれかなり自分の主張をまじえて書き換えているところがあります。
 たとえば、離縁の禁止についてイエスが教えている、と言われているエピソード。イエスがいつものように教えていると、ファリサイ派に人たちが近寄ってきて「夫が妻を離縁するのは律法にかなっているか?」と質問したという話です。
 当時は、ユダヤ律法では、夫の都合で妻に離縁状を出せば離縁できることになっていました。妻の法的地位は非常に低かったのです。で、いつも弱い者の味方ぶっているイエスのことだから、答え方次第では「おまえは律法に違反している」と告発するくらいのつもりで近寄ってきたのでしょうか。イエスがもし、「夫の都合で妻を一方的に離縁するのはかわいそうだ」などと言ったら、「律法違反だ!」と告発できます。しかし、「律法は正しい」と言えば、「おまえはふだん女、子どもの味方ぶっているが、そんなかわいそうなことを言ってもいいのか」と揚げ足を取ることができるわけですね。
 さて、これに対するイエスの答えですが……  

 マルコによる福音書ではこうなっています。
 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通を犯すことになる。
 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(マルコによる福音書10章11−12節)

 これは、当時としてはかなり男女平等的なものの考え方に立った文書と言えるでしょう。当時は、妻のほうから夫を離縁するということはユダヤ教の法ではありえませんでしたから、後半部分の
「夫を離縁して……」の部分は、本当にファリサイ派とイエスとの間で交わされた会話かどうか疑わしいものです。
 しかし、著者のマルコとしては、女性の権利がユダヤ人の世界よりも強かったギリシア世界の読者層を意識しての作文かも知れません。
 また、あとから明らかになってくるように、
(神に対して、ではなく)妻に対して」姦通の罪を犯すのだ、という物言いも、マルコが女性の尊厳を、他の2つの福音書にくらべて最も重視していると言うことができます。ふつうは罪というものは「神に対して」犯すものですが、これを「妻に対して」とすることで、当時としては珍しいほどに人間を尊重している可能性があるのです。「妻」という具体的な人間を傷つけることが罪なんだ、という人間中心的な考え方です。

 これがルカによる福音書ではどうでしょう。
 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。
 離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(ルカによる福音書16章18節)

 マルコによる福音書で書かれていた
「妻に対して」という言葉は削除されてしまいました。これで、マルコの人間中心的な斬新さは失われてしまいました。
 また
「夫を離縁して……」という部分も削除されてしまい、「離縁された女を妻にする者も……」という別の話に変えられてしまっています。
 こういう書き換えをしてしまうことで、ルカは、せっかくマルコが当時のユダヤ人の風習から飛び出て、男女平等的に語ろうとしたところから、ユダヤ教的の古い律法の価値観に逆戻りしてしまっています。
 というのも、ここでは「離縁する者」も、「離縁された女を妻にする者」も、男ですが、ユダヤの律法というのは、そもそも男のために作られた男の守るべき法律だからです。だから、女性も対象にしたマルコと違って、ルカは男の法律だけを書いたという意味で、ユダヤ的なものに逆戻りしています。
 また、ここで書かれている
「離縁された女を妻にする者」をとがめる発想は、旧約聖書にルーツがあって受けつがれているものです(エゼキエル書44章22節「彼らは寡婦や離婚された女を妻にめとってはならない」)。要は(非常に差別的な言い方になりますが、当時の男の論理から言えば)中古品を手にするな、という発想が、前々から伝わっていて、ルカもその影響の中に、マルコから逆戻りしてしまったということなのです。

 それではマタイによる福音書はどうでしょう。残念ながら、さらにひどくなります。
 
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。
 不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。
 離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(マタイによる福音書5章31−32節)

 ルカよりもさらに手が加えられています。
 まず、
「不法な結婚でもないのに」という一言が加えられています。他の福音書では単純に「離縁して再婚するものはだれでも罪人だ」と言っているのに、この一言が付け加わったために、条件つきで離縁を許可することになります。つまり意味が全く反対になってしまうのです。他の福音書は「離縁は無条件にダメだ」と言っているのに、マタイだけは「条件つきでOK」と言っていることになるのです。
 これでは、イエスに対して論争をふっかけたファリサイ派の人びとの発想と同じです。彼らは「どういう条件なら離縁してもいいのか」というようなことを日夜議論することを常としていたわけですから。
 ここで
「不法な結婚でもないのに」と訳されているのは、直訳すると、「淫らな理由以外で」となります。「淫らな理由」といっても、具体的にはよくわからないわけです。当時の律法学者たちのなかには、「夫以外の男と道で言葉を交わしただけでも離縁の理由になる」なんてことを論じていた者もいたぐらいですから、何が「淫らな理由」とされるかわからない。そういう意味で、非常に男に都合のよい理屈になっているわけです。
 さらには、他の福音書と違って
「その女に姦淫の罪を犯させることになる」などとマタイは書いています。他の福音書では一応男が罪を犯すことになっているのに、マタイでは女に罪を「犯させる」ことになるではないか、と書き換えているわけです。これはもう、ものすごい男中心の考えですね。男は罪を犯さない。
 そして後半の部分はルカと同じことを書いています。

 そういうわけで、マルコ→ルカ→マタイの順番に、女性を尊重し重視する立場から、女性よりも男性の都合で物を考える体質がどんどんキツくなっていっているのがおわかりになると思います。
 こういう書き換えを読み比べていると、一体、本当にイエスが言った言葉はなんだったんだろう? と頭を抱え込まざるを得ないのです。
 本当のイエスの言葉なんて、ちゃんと残っていなくて、ほとんど福音書の作者たちが自分の考えを盛り込んで書いちゃってるんじゃないか、とね。

 ▼明らかに文学として読むべき技巧が発見できる例……その1:ルカによる福音書の「飼い葉桶」

 次は、やや美しい話です。
 ルカによる福音書には、マリアが聖霊の力によって幼子を身ごもった、という処女降誕の話がおさめられています。
 そして、マリアとヨセフの夫婦が人口登録のために里帰りの旅をする途中、ベツレヘムという街で子どもを産んだ話が記されています。クリスマスのページェントなどで、何度となく上演される美しい場面です。

 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカによる福音書2章6−7節)

 ここで、イエスが生まれた場所は、馬小屋であるとか、洞窟であるとか、さまざまに言い伝えられていますが、要するに聖書には何も書いていません。
 ただ、その当時使われていた「飼い葉桶」というのは、石でできたものであったのは、確かなようです。浅い石臼のような形。大きな石の塊を彫って、浅いくぼみをつくり、そこに家畜のえさである干草などをボンと置いて、馬や羊や山羊などに食べさせていたわけです。
 そして、とにかくマリアとヨセフは、宿屋には泊まる部屋がなかったので、どこか家畜を飼っていた場所で泊まり、赤ん坊が生まれると、とりあえず布(つまりオムツ)にくるんで、石の臼のような桶にポンとのせて世話をしましたよ、というお話なのです。

 ところが、これは実話と言うよりは、文学的技巧なのです。
 もちろん解釈の仕方にもよるでしょうが、同じルカによる福音書の23章50節以降、十字架にかけられて死んだイエスがお墓に葬られる場面を見てみましょう。

 「遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」(ルカによる福音書23章53節)
 「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油とを準備した」(同55−56節)


 ここでも、イエスは布にくるまれて、石の上に寝かされています。
 そして、イエスを見守る人びとの名前は、ヨセフであり、マリアです。ここではイエスの父ヨセフとは別人の「アリマタヤのヨセフ」という人であり、イエスの母マリアとは別人の「マグダラのマリア」であろうと思われるところが、いかにも技巧としてはニクいところです。
  
 このように、福音書のイエスの生涯の始まりの部分と、終わりの部分に、対応性をもたせていることが読み取れますので、わたしたちはこの物語は美しく鑑賞することができます。
 しかし、そのぶん、事実の記録という面は薄れてしまうと言わざるを得ないのです。

 ▼明らかに文学として読むべき技巧が発見できる例……その2:マルコによる福音書の神の子宣言と天が裂ける話

 同じように、マルコによる福音書にも、イエスの生涯の最初と最期を、対応する表現で描こうとする文学的意図が見られます。
 マルコ福音書でイエスが最初に登場する場面は、洗礼のシーンです。

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(マルコによる福音書1章9−11節)

 これに対して、イエスが十字架で最期を迎えるシーン。

 「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当にこの人は神の子だった」と言った」(マルコによる福音書15章37−39節)

 マルコによる福音書では、洗礼の場面がイエスの物語の始まりです。古い自分が死んで新しい自分に生まれ変わる儀礼が洗礼ですが、その新しいイエスの人生の始まりの瞬間に天が裂け、イエスが神の子であるという声が聞こえることと、イエスの人生の最期の瞬間に神殿の垂れ幕が裂け、イエスが神の子であるという言葉が再び語られることが、対になっているのです。
 これもまた、文学的には美しい表現といえますが、そうであるが故に、マルコの創作であり、事実の記録ではない可能性が高くなってしまうのです。

 ▼内容が食い違う写本が山ほどある現実

 初期の聖書は、写本という方法で、伝えられてゆきました。印刷技術がキリスト教の世界で実用化されるようになったのは15世紀になってからですから、1400年近くの間、ずっと聖書は手書きで伝えられていたわけです。
 人間による手書きですから、当然、書き間違いもあります。
 写本を書いた人が、写そうとしている原本の文字を読み間違えた結果、似たような違うアルファベットに変えられていたり、あるいは、前の写本家が欄外にメモのような形で書き加えたのであろう部分を、後の写本家が本文に加えて写してしまったとか、ということもあるそうです。
 かくして、世界には、何種類、何十種類、何百いや何千という写本があり、それぞれが少しずつ食い違っている、というのが現実なのです!!

 そして、聖書には、どの文書についても、ひとつとして「これが著者が書いたいちばん最初の原稿だ」というものは発掘されていません。日本で言えばイエスの時代でも弥生時代中期ですから、こういう事態は当たり前のことです。旧約聖書ともなると、イエスより500年前にはさかのぼります。夏目漱石の「我輩は猫である」のオリジナル原稿を発見しただけでも、大騒ぎするレベルですから、2000年近くも前の古代の書物のオリジナル原稿を発見するなど、とうてい不可能でしょう。

 そうなると、無数に食い違うおびただしい数の写本の中から、何を正しい、いや「おそらく正しいと思われる内容」として確定していくか、は、なかなか難しい作業になるのです。専門家の学者が、何十年もかけて研究した結果が、一応「原典」として印刷・出版されていますが(ちゃんと勉強した牧師ならみんな持ってるはずのヘブライ語(旧約)・ギリシア語(新約)の「原典」)、これも、脚注だらけの本で、「他にもこういう読み方の写本がある」というような記述が欄外にぎっしりつまっているような本なのです。しかも、何年に1回か、改訂されます。

 そんな状況で、なにがどう「一点一画も間違いのない」聖書なのか、お話にならないというのが、事実なのであります。

 いちばんわかりやすい例だと思いますし、一般に販売されている新共同訳聖書にも、わかるように書いてありますので紹介しますが、
ヨハネによる福音書の7章53節〜8章11節、有名な「姦通の現場でつかまった女性」のお話です。石打ちの形に処されようとしているところを、イエスが助ける物語ですね。
 あの物語の前後、注意して見ると、新共同訳聖書では、
〔  〕でくくられております。
 これはなぜかというと、実は、この物語は、最古の、つまり最初のほうの写本では見られないものだからです。あとの時代のほうの写本におさめられているお話です。
 ということは、オリジナルのヨハネによる福音書には入ってなかったエピソードである可能性があるということなのですね。
 まぁそれでも、これはとてもイエスらしいエピソードだから、たぶん実際にあったであろうお話で、あとになって写本に加えられたからと言って、事実でないわけではないのだ、という説もあるようですが……。つまり、1つのエピソードが、別系統で伝えられてきて、あとから追いかけてきて福音書に追いつく、ということですね。まぁそういう可能性がないとは言えませんが……。

 ▼翻訳のしかたで、意味が変わってきてしまう例……その1:イエスは本当に神の子か?

 聖書の原典の言葉の読み方ひとつで、意味が違って解釈されてしまう場合もあります。
 これは、たとえば新約聖書の原語であるギリシア語のもともとの性質にも関係があるのですが、古代のギリシア語の書物というのは、いわゆる「分かち書き」(単語と単語を区切って書く)という習慣がありません。それはわたしたちがこうして使っている日本語も、句読点を除けばそうですね。(しかしまぁ、そう考えてみると、日本語を勉強する多くの外国人は、この単語ごとの分かち書きがないせいで、ずいぶん苦労しているでしょうね)
 それから、
「  」というような引用符(クオーテーション・マーク)や、「」といった疑問符(クエスチョン・マーク)もありません。
 ということは、新約聖書の原典ギリシャ語は、カッコも?もない、ただひたすらにアルファベットの羅列がズラズラズラーッと並ぶ文章なのです。
 そうなると、翻訳するときに、これは誰のセリフか? とか、質問文なのか肯定文なのか? ということも、翻訳する人の解釈にまかされてしまったりするのです。

 たとえば、さっき一度引用しましたが、
マルコによる福音書15章39節「本当に、この人は神の子だった」という百人隊長の言葉。これも、クエスチョン・マークがないからと言って、肯定文に訳さなければならないわけではないのであって、イエスのあまりの情けない死にざまに、ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だったのか」と訳しても、間違いではないということになるのです。
 (ただ、さっきも述べたように、マルコによる福音書には、イエスの生涯の最初と最期を対応させる文学的技巧があるようなので、そこから読み込むと、マルコは最初でも最期でも「この人は神の子ですよ」と言っているのだな、という解釈が成り立つわけです。逆に言うと、こういう文学的技巧がなかったら、やっぱり百人隊長が「こいつは本当に神の子なのか?」と言っていたほうが自然な物語の流れだと読めてしまうのではないでしょうか)

 〔参考文献……橋本滋男『ちんぷんかんぷん! It's Greek!』日本キリスト教団出版局〕

 ▼翻訳のしかたで、意味が変わってきてしまう例……その2:パウロの論敵の言葉?

 他にも、引用の
「  」がないために、翻訳するときの解釈で、意味が変わってしまう場合があります。
 たとえば、こんな例があります。
 パウロがコリントの教会の人たちにあてた手紙で、何が罪で何が罪でないかについて論争を展開している場面があります。ここでは新共同訳聖書で引用してみます。

 「わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。わたしには、すべてのことが許されている。しかし、わたしは何事にも支配されはしない」(コリントの信徒への手紙(一)6章12節)

 ここで
「  」でくくってある部分は、実は、もとのギリシア語の文章では、「  」など無いところです。ギリシア語にはそういう記号はないのです。
 ということは、ここは、翻訳した人が自分の判断で、
「  」をつけたということになります。
 なんで
「  」をつけたのかというと、「この部分は、パウロと論争をしているコリントの人たちの言葉だろう」と考えたからです。
 コリントの人たちは「すべてのことが許されている」と言っている。しかし、私パウロは言う「すべてのことが益になるわけではないぞ」と。そういう解釈です。
 でも、もとのギリシア語には、
「  」はありません。だから、考え方によっては、パウロ自身が「すべてのことが許されている」と言っているという解釈もできるわけです。しかし、「  」をつけてしまうことで、パウロ自身は必ずしも「すべてのことが許されている」とは考えていない、というニュアンスに変化します。
 パウロほどの存在感のある宣教者が、「すべてのことは許されている」と考えているか、そう考えてはいないか、というのは、けっこうキリスト教にとっては、大きな影響を与える問題じゃないでしょうか。
 しかし、どちらが正しい翻訳かということは、誰にも最終決着をつけることはできないのです。「こういう風に考えれば、こういう風に言える」ということが言えるだけ。いろんな考え方があることを認めざるをえないのです。

 〔参考文献……橋本滋男『ちんぷんかんぷん! It's Greek!』日本キリスト教団出版局〕

■おわりに……「聖書は人間が書いた書物です」

 このような、いわゆる「アラ」というのでしょうか、聖書のなかの「ほころび」とでも申しましょうか、矛盾点や問題点は、他にもさがせばたくさん見つかります。
 そういうわけで、聖書は、その成り立ちから言っても、いくつかある文書の間の関係から言っても、あるいは写本というものの実際の姿から見ても、あるいは翻訳にまつわる問題から見ても、「一点一画、一言一句間違いのない神の言葉」とは、とうてい言えないのです。
 少なくとも、自分が読める母国語に翻訳された聖書を手にとって、「これは一点一画間違いのない、完全な神の言葉です」ということを言っておられる方は、「そのように言うこと自体が間違いである」、とはっきり申し上げておきます。
 聖書は、徹頭徹尾、「人間の手になる書物」であります。

 聖書自身が、聖書を過大評価することを避けるように言っています

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネによる福音書5章39−40節)

 聖書という本そのものが神の手になる特殊な性質をおびたもののようにあつかうのは間違いで、あくまで聖書は人間が書いた、神さまやイエスについて
「証しをするもの」つまり証言をしているものだ、ということなのです。
 つまり、神の言葉として大事なのではなく、神さまやイエスについて証言している書物として大事だということなのです。
 ですから、これまでいろいろ言ってきましたけど、やっぱりわたしは、聖書はすばらしい本であると感じているし、聖書の言葉を愛して暮らしているのです。

 と、ここまで書いても、このQ&Aの結論だけ見て、「あなたは間違っている」とか「地獄に落ちますよ」とかメールを送ってくる人もいるかも知れません。いや、きっといるでしょう。でも、そんなことをしているあなたは、単にここに書いてあることを読んで理解することができなかっただけです。あるいは聖書そのものを実はちゃんと読んでいないのでしょう。人に「地獄へ落ちるぞ」などと言っているヒマがあったら、もっと聖書を研究しなさい。

 聖書は人間が書いた書物です。
 しかし、人間が書いた書物のなかでは、超一級品の価値を持つ古典です。
 そして聖書は、「古代から現在まで生き残ってきた、人間にとって普遍的価値を持ちうる素晴らしい知恵がたくさんおさめられた、宝物のような書物」と言えるのです。
 それでじゅうぶんなのではないでしょうか。  


〔最終更新日:2005年5月20日〕

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