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 Q. 洗礼を受けたいのですが、受けられません。どうしたらいいですか?
 以前からキリスト教に興味があり、何度か教会にも足を運び、クリスチャンになりたいな……と思うようになったのですが、私の家は寺の檀家の総代で、キリスト教に改宗するなんてことはとても言えない状況です。それに、家族の者も、宗教そのものに対する拒否感が強く、私が日曜日に教会に出かけるのも、あまりいい顔はしません。こんな風に、ちょっとクリスチャンになるには無理がある状態なのですが、一体こういう場合、どうしたらいいのでしょうか?

 キリスト教に関心があり、以前からインターネットではいろいろキリスト教について見てきたつもりですが、いざ教会に行こうとすると、主人が「せっかくの休みなのに、なぜ出かけるんだ」と怒るので、なかなか教会の礼拝に出席することもできません。でも、私は個人的にはできればキリスト教の洗礼を受けてみたいと思っています。こんな私ですが、これからどうしていったらよいでしょうか?

(2012年8月ごろ、メールで寄せられた複数のご相談より)

 A. 受けなくてはならないというわけでもないんですよ。
 日本人は日本国憲法によって信教の自由が保証されています。どの宗教に入信するかは個人の自由なはずです。
 でも、実際にはお寺の檀家であるとか、長男だから家のお墓を守っていかなくてはいけないからとか、教会に行ったり、クリスチャンになったりするのには様々なハードルがあるのが現実です。
 あるいは家族に宗教嫌いの人がいて、特定の宗教に入信したり、日曜日に教会に出かけるだけでも非常に嫌がられる場合もあります。

 しかし、別に仏教式のお墓を守ることになってもいいんじゃないでしょうか。洗礼を受けてクリスチャンになっても、やはりお寺にあるお墓をちゃんと守っていたり、家の仏壇に毎日お焼香したりする人は、実はたくさんいるのですよ。
 どうしても、家族の理解が得られないなら、家族に黙って洗礼を受けるということがあってもいいのではないでしょうか。
 また、そういう隠し事は嫌いだというのなら、洗礼を受けないままで教会での礼拝や奉仕に参加していてもいいのではないでしょうか。
 絶対に洗礼を受けなければ救われないというわけではないのですから、受けられないのなら受けられないままでも構わないのではないでしょうか。
 未成年の方は特に自己決定権が制限されていますから、成人よりも洗礼を受けるにはハードルが高いと言えるでしょう。その場合もあまり無理をしない方がいいと思います。
 無理に洗礼を受けることで、家族がよけいに宗教嫌いになってしまい、更にキリスト者の道から人を遠ざける結果になりかねません。家族の思いも大事にしてあげたほうがよい場合は多々あるのです。

 教会にもいろいろあり、洗礼こそが救いの唯一の入口だと教えている教会はあります。洗礼を受けなければ、この世でどんなに善行を積んでも、死んだ後に、悪魔の待つ地獄へと落ち、永遠に焼かれると教えている教会もあります(でも、逆にどんなに極悪人でも洗礼さえ受けていれば天国に行けるのですか? と聞いても、おそらく納得できる答が帰ってくる事はないと思いますが)。
 しかし、洗礼が救いへのパスポートであるとか、救いとは死後に天国に行くことだとか、そういう教えもどこまで妥当なのか、非常に疑わしいのです。
 大体、キリスト教が誕生してからたかだか2000年程度しか経っていないわけですが、ホモ・サピエンスの歴史は25万年近くも遡ることができます。そうすると、キリスト教誕生以前の人類には最初から救いは用意されていなかったのでしょうか?
 また、キリスト教はまずパレスティナ地方で生まれ、やがてローマ帝国に広がり、ヨーロッパに継承され……という歴史を辿っていますが、日本で最初の信者が誕生するまで、キリスト教の発生から1000年以上のタイムラグがあります。では、キリスト教伝来以前に生きていた日本人は、神は最初から救う気がなかったのでしょうか……などなど、神が「全知全能でありの、全ての人間の救い主」と言う割には、おかしな点が多々あります。
 それよりも、キリスト教だけが唯一の正しい宗教であるのではなく、人類はそれぞれの地域、それぞれの社会の中で、それぞれの救いの道を見出していったと考える方が穏当でないでしょうか。キリスト教の洗礼を受けることだけが救いの条件なのではなく、救いというものはそれ以外にももっと広い範囲で、様々な方法で人類は救いを求め、また救いを得ており、キリスト教の救いもそのうちのひとつであると考える方が、「全ての人の救い」ということを考えると腑に落ちるのではないでしょうか。
 キリスト教の洗礼を受けなくても神さまを信じている人、救われている人はいます。洗礼を受けていないから地獄に落ちるなどというのは、全くの誤解です。神さまが本当に全人類にとっての神さまなら、キリスト教という一つの宗教が伝播したところの人間しか救わない、などといった不合理なことをするでしょうか? キリスト教によって救われる人もたくさんいますが、キリスト教以外の宗教によって救われる人も、また宗教ではない方法で救われる人もいるのです。

 現代においては、洗礼を受けるというのは、他のキリスト者たちと協力し合って、「神を思う生き方」についてこの世に対して証言し、「神の愛を実践する者」として、この世とこの世に生きる人びとの人生を良いものにしてゆく働きに参加する意志を表明し、そういう生き方をすることを神と人との前で約束を交わす、象徴的な行為という意義が大きいのではないかと思います。
 洗礼(水を頭から注がれる、あるいは水の中に沈められ、引き上げられる)とは儀式であり、象徴的な行為です。洗礼という象徴的な行為そのものが尊いのではなく、洗礼の儀式によって示される、その人の「人生が変わった」ということを、その後の人生で実現してゆくことの方が尊いのです。
 大切なのは、その人の人生の中身が変わる事。また信頼できるキリスト者の仲間としてつながり合うことです。
 実際の生活においてはキリスト者の仲間として生きながら、洗礼を受けられずにいるということに物足りなさを感じる人もいるかも知れません。しかし、人生には色々な変化がありますから、いつかチャンスが来た時に洗礼を受けられたら、それでいいという程度に考えておいた方がよいと思います。洗礼が絶対的な救いの条件というわけではないからです。

 自分が死ぬ時に、もし意識がはっきりしていて人と言葉を交わせるならば、それは人生最後のわがままを言うチャンスかもしれません。そのとき、人生最後の願いのひとつとして洗礼を受けることを申し出ることができたら、それでもよいのではないでしょうか。その時くらいは家族も了承してくれるのではないでしょうか。
 人生の最後の瞬間に洗礼を受けることは、これまでのあなたの人生が何であったのかを示す最大の証になるでしょう。しかし、それでも洗礼を受けたいという願いがかなえられなかったからといっても、あなたの魂を神が拒むということはあり得ません。

 とにかく、洗礼は救いの条件ではありません。洗礼は人生を変える約束の象徴的な行為なのです。
 象徴が目的なのではありません。良い人生を生きることが目的なのです。
(2013年2月11日記)


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〔初版:2013年2月11日〕

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