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 Q. 洗礼を受けたいのですが、教会には行きたくありません。
 イエス様のことが大好きで、神様も信じています。洗礼を受けて救われたいと思っています。けれども教会には行きたくなくて困っています。
教会というのはなんだか敷居が高くて、立派そうな人が多そうで、私のような人間は相応しくないんじゃないか、自分は罪深い人間だと言って責められそうな気がして、気がすすみません。
キリスト教の洗礼は、教会でしかやってないんですか? 洗礼を受けたら、必ず教会に入らないといけないんですか? 洗礼を受けても教会に行かない方法はありますか?

(2019年9月、メールで寄せられたご相談より)

 A. 洗礼を受けても教会員にならない方法はあります。
▼気持ちはわかります

 キリスト教の教会の敷居が高いというのは、よくわかります。すべての教会がそうだというわけではないのですが、確かになんとなく人生に成功した人の社交場といった雰囲気を醸し出している教会というのはたくさんありますね。そして、みんな品が良くて、ニコニコしてはいるけれども、ちょっと身なりが立派でなかったり、過去にちょっと悪いことをしていたような話をぽろっとしてしまったもんなら、眉をひそめて遠ざかってしまうみたいな、そんな様子がありありと目に浮かびます。
 また、教会も人間の集まりですから、当然人間関係というものがあります。人数が多くなればなるほど、その人間関係は複雑になり、もちろん相性が合う人もいれば、合わない人もいます。これももちろんすべての教会ではありませんが、表面的には仲良くしていても、心底ではドロドロとした感情が渦巻いているところも少なくありません。影に日向に人の陰口を言い合ったり、足を引っ張りあったりしているような教会は現実にあります。理想は「愛の共同体」であることは皆わかっているのですが、それがなかなか実現できなくて悩んでいる教会はたくさんあります。
 ですから、そういったキリスト教会の第一印象、あるいは教会の中をある程度知ったとしても、あまり喜ばしくない印象を持ってしまった場合、神様やイエス様は信じたいけど、教会はちょっと……という気持ちになるのもわかります。

▼個人主義的な洗礼

 そこで、教会に縛られることなく、個人主義的に自由に信仰していたい。教会とは関係なく洗礼を受けて救われたい、ということになるのですが、そんなことはできるのでしょうか。
 結論から言うと、それは可能です。
 教会には所属していない牧師から洗礼を授けてもらえば良いのです。
 もちろん、たいていのキリスト教会の規則では、洗礼と教会への入会は表裏一体のものと考えられています。洗礼とは教会への入会儀式ですから当然のことです。
 しかし、洗礼というのは単なる入会儀式であるだけでなく、それ自体が、神様の霊によってこれまでの罪に満ちた自分が洗い流され、新しい人生に向かって蘇るということを、水を使った儀式によって象徴するという独自の意味があります。
 ですから、教会には入会しないけれども、新しい人生への再生は行う、という洗礼式があったとしても、誰もそれは否定できないし、実際やっている牧師さんはいるのです。
 例えば有名な方では、アーサー・ホーランドさんという牧師さんがいらっしゃいます。
 アーサー・ホーランド公式サイト
 この方は、特定の教会に所属しないフリーの牧師です。この方から洗礼を授けられても、どこかの教会の信徒籍に入るということはありません。ですから、どこの教会にも属さないフリーのクリスチャンということになります。
 アーサー・ホーランドの洗礼なんか認めない、という教会もあるでしょうが、イエスは教会組織を創立したわけでもなく、「2人、3人が私の名によって集まるところに私もいる」とおっしゃったので、ホーランド牧師がイエスの名による集いを催し、そこでイエスの名によって洗礼を授けたのなら、その洗礼を無効だということはできないと私は思います。
 ですから、ホーランド牧師に洗礼を授けられた人は、紛れもなくクリスチャンです。ただし、どこの教会員でもありません。

▼それでも教会には行って欲しい

 ただ、これも正直な私の本音ですが、どちらかと言えば、いずれは教会に出席をして欲しい、という気持ちではいます。
 というのは、キリスト教というのは愛の宗教で、愛というのは相手がいて初めて成立する、つまり2人以上の人が存在するところで初めて実践できるものだからです。
 イエスは、
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)と言い残していますが、これはたとえ少人数であっても、複数の人がイエスの名によって集まることにイエスが大きな意味を見出しているということを示しているのであろうと思われます。
 愛というものはたとえ相手が1人でもいいから、実際に愛するという実践が伴った方が良いのです。そして、その愛の共同体が3人、4人あるいはそれ以上という集い(ギリシア語で
「エクレシア」といい、「教会」と訳されることが多いのですが、元の意味は「集い」です)になっていったものが、教会になっていったのです。つまり、教会というのは、愛を実践し合うためのグループです。
 もちろん、あなたが感じているように、それを実践できている教会は少ないかもしれません。いや、実際には愛の共同体を目指しているにも関わらず、何かがうまく行かなくなって、みんな悩んでいるのかもしれません。教会というのは、愛の共同体であろうとしつつ、まだ完成形には至っていない、発展途上の共同体なのかもしれません。

▼あなたとわたしの人格的成長のために

 パウロも
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(フィリピの信徒への手紙3章12節)と言っているように、完全な人間というものは存在しません。そんな人間ですから、集まっても完璧な共同体など作ることはできません。しかし、神に導かれていることを信じながら、少しでも完全なものを目指して、成長しようと努力している教会もたくさんあるのです。
 成長しようとしている教会は、たとえ不完全な人間の集まりであり、失敗だらけであったとしても、お互いを愛し、教会の外の普段の生活でも、人を愛する人生を送ろうとトライすることをあきらめていません。そういう教会にいると、少しずつゆっくりではあったとしても、確実に人間として成熟に向かって成長します。それはお互いの愛が個々人を成長させ合うからです。はっきり言って教会に通う意義はそこにあると言っても良いくらいです。
 成長を志す人間は、不完全な人間からも大いに学ぶことができます。なぜなら愛というものの中身に「赦す」という要素があるからです。不完全で気の利かない愚かな人間の実態、それはあの人の愚かさであり、私自身の愚かさでもあります。それを互いに赦し合うことが、愛の基本です。赦し、赦されることは、不完全な人間の共同体の中でこそ、鍛えられてゆく力です。そのためにも、私たちは不完全な人間の集団の中である程度はもまれる必要があるのです。
 (これはあくまで「ある程度は」という話です。適度のストレスは人間を成長させますが、過度のストレスは人間を痛めつけてしまいます。既に人間との接触に傷つきすぎて、人と触れ合うと消耗してしまったり、病を発症してしまう人はこの限りではありません)。
 この不完全な人間たちの集団の中で、私たちは人格的に成長することができます。それは私たち自身の個々人の人生の味わいを深くし、喜びを与えてくれるものなのです。

▼受け取るだけではなく伝える

 そして、あなたに教会に行って欲しい理由はもう1つあります。
 それはイエスのメッセージを受け取るだけではなく、伝える仲間になっていただきたいからです。
 と言っても大層な奉仕をお願いしたいというわけではありません。ただ教会の仲間に参加していただくだけで良いのです。ただ、イエスのメッセージを学んで受け取り、思い起こす礼拝に出席し、共同体の一員として参加しているだけでいいのです。そうやって愛の共同体の一員として参加してくれているという、その存在が重要なのです。
 キリスト教会というのは、イエスが創立した組織ではなく、イエスの死後、イエスの思い出を語り合い、イエスの存在を実感を持って思い出そうとして儀式を始めた集いが原型です。イエスが主宰した交わりをできるだけ再現しようとして発足したものですが、もちろん不完全な人間の集団であり、歴史上数々の過ちを繰り返してきました。
 しかし、もしこのキリスト教会という組織がなかったら、イエスのことは誰も伝えることはできませんでした。イエスの死後、およそ2000年経ってしまった現在でも、イエスのことを責任を持って伝えることができているのは教会という組織だけです。キリスト教会というのは、確かに問題だらけの組織であり、たくさん悔い改めなくてはいけないことがあり、永遠に反省すべきこともありますが、その一方で、キリスト教会がなければ誰もイエスの言葉も行いも知ることができなかったし、イエスの言動を受け継ぐこともできなかったのです。そして、これからもおそらく、イエスのことを未来の世代にまで伝え、受け継いでゆくことを責任を持って引き受けることができるのはキリスト教会だけでしょう。
 あなたがキリスト教会の一員として加わってくださるだけで、1人分の力が教会に加わります。そして、あなたは礼拝に出席し、イエスの思いを共有しようとする生活を送るだけで、それが「今もイエスの思いは生きている」ということの証になるのです。
 目に見える奉仕というのは、やってみようという気になればそれば良いのであって、強制されるものではありません。まずは「そこにいる」ということが大切なのです。「教会に行っている」という姿を隠さないということ。それだけで、あなたはイエスの存在をこの世に対して証するという大きな奉仕をしているのです。ですから私は、もしあなたが洗礼を受けるのならば、教会に通うことにもぜひトライしてみて欲しいと思います。
 イエスも、自分が良いことだと思ったことを、自分だけの秘密にしておこうとしたのではなく、多くの人に宣べ伝えようとしたのですから、それにならって私たちもやってみようというわけです。

▼まとめ

 というわけで、ここまで述べてきたことをまとめます。
 (1)教会員にならずに洗礼を受けることができます。
 (2)けれども、私はあなたに教会員になって欲しい。
 (3)なぜなら、それがあなたの信仰を成長させ、イエスを伝えることになるから。
 以上です。これは1人の人間の考えですから、絶対に正しいとは言えないかもしれません。もっと上手にあなたを納得させることのできる人もいるでしょう。あくまで参考にしていただければ有り難く存じます。あるいは、更に疑問を深めてしまったかもしれませんが、そんな時は改めて質問をお送りくださっても構いませんし、他のサイトでも学んでみられることをお勧めします。
 それではご機嫌よう。
(2020年1月1日記)


〔初版:2020年1月1日〕


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