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 Q. 洗礼を受けたいのですが、どうしたらいいんですか?
 キリスト教の洗礼を受けてみたいと思っているんですが、何から始めていいのかわかりません。
 ふだんはインターネットでキリスト教についての情報を集めていて、「キリスト教っていいなあ」と思うのですが、実際にクリスチャンになるというと、何をどうすればいいのかさっぱりわかりません。
 とりあえず、何から始めたらいいですか?

(2012年9月、メールでのご相談より)

 A. まずは教会の日曜礼拝に参加してみましょう。

 ここではプロテスタントの教会で多く見られるパターンのお話をします(私がプロテスタントの教会に属する者なので。カトリックや正教会やアングリカン(聖公会)など、他の教会ではまた異なることをお含みおきください)。

 洗礼を受けるには、まず牧師に、「洗礼を受けたいのですが」と申し出ることが必要です。
 その場合、おそらくあなたがどれくらいの期間、教会の日曜日の礼拝に参加していたか、あるいは、ほんの数回来ただけか、それとも初めて教会に来ていきなり牧師に申し出たのかなどによって、牧師の対応が変わってくると思います。

 というのは、幼児洗礼や病床洗礼、あるいは知的障がい者の洗礼のように、本人ではなく、本人に近しい人が信仰を告白して授けられる場合は別として、多くの場合洗礼というのは、本人の信仰の告白が必要だとされるからです。
 そして、信仰を告白するためには、ある程度の期間教会に通って、専門的な知識までは必要ありませんが、おおまかに「キリスト教とはどのようなものか」、「キリスト教の神さまはどのような方か」、「信仰とはどのような生き方なのか」などといったことについて、あなたなりの理解をすることが必要でしょうから、そういう学びをしているかどうかで、ひょっとすると「もう少し時機を見ましょう」ということもあり得るからです。

 また、通常、教会で洗礼を受けると、残りの生涯をクリスチャンとして生きることが前提となります(教会によっては、信徒は将来この世に到来する神の国でよみがえり永遠の命を得ると信じているところもありますから、その場合は永遠にクリスチャンです)。
 もちろん実際には、例えば考え方が変わったり、信仰を失ったりして、教会から離れてしまい、実質的にクリスチャン的な生活を全然送らなくなってしまった、という人も少なくはありません。しかし、離婚することを前提に結婚する人はいないのと同じように、洗礼を受ける時には、「生涯クリスチャンとして生きます」と教会の人たちの前で約束できることが前提とされるのです。

 それから、もうひとつ忘れてはいけない大事なことは、大抵の教会では「洗礼を受ける」ということは、「教会員となる」という意味でもとらえられているということです。洗礼を受けて信徒になるということは、同時にその洗礼を授けられた教会の会員となるのです。
 ということは、例えば非常に下世話な話ですが、教会員は教会を維持し、伝道あるいは宣教のためにかかる費用を支出するために「献金」を行なうことを約束する事になります。
 「月定献金(もしくは同じような意味の名前がついた献金)」として、毎月定額の献金を所定の袋に入れて礼拝で捧げるということが求められます。この献金の金額はもちろん自由な所が多いですから、自分の生活において無理のないように自分で決めればよいのです。
 しかし、教会によっては、「収入の十分の一を捧げなさい」と教えている所もあります。生活の余裕がない世帯では、収入の十分の一を支出する事も非常に困難であるという事がありえます。ですから、こういう約束はできないと判断したら、早いうちにもっと自由な教会に移られた方がよいでしょう。
 また、洗礼を受ける前に、そのような信徒としての義務献金があるかどうか、牧師に確かめておかねばなりません。そして、もし事前に説明の無い献金を義務として要求されたら、その時はさっさとその教会を出てゆけばよいのです。逃げても追いかけてくるような教会は、そこが破壊的カルトではなく普通の教会なら、まずありません。せいぜい電話やハガキなどで「また、いらっしゃい」と呼びかけがある以上の追っかけはまずありませんから、日曜礼拝の出席をやめて、他の教会を探し求めればよいのです。

 教会によっては、義務としての献金ではなく、「自由献金」が奨励される教会もあります。これは例えば、「誕生日感謝」であるとか「クリスマス感謝」とか「結婚記念日感謝」など、要するに機会も金額も自由なのです。自由で自発的な献金を教会は受け容れています。
 そういう形で教会を支えてゆくための共同の責任を(自分に無理の無い範囲で)負う、ということが信徒として求められるわけです。
 神社やお寺では、「◯◯の祈願に◯千円」といった風に値段が決まっています。それを先払いでお願いするわけです。しかし教会では逆で、「◯◯に対する感謝」を自分で決めた額で後払いするのです。では金額をいくらにするのか、というのは、案外難しい問題で、金額が決まっていないからこそ、余計にしんどいという方もおられるでしょうね。それに、神社などでも自由献金は「お賽銭」という形で少額貨幣でも投げ込めば、誰にも自分の投げた金額はわかりませんが、教会の場合、所定の献金袋に「◯◯感謝、◯◯◯円」と書くようなところもありますから、会計係の信徒さんにも知られますし、そういうのが嫌な人もいるでしょう。
 もし、自由な献金として教会の活動に役立ててほしいと思うのなら、封筒に入れないで献金袋に入れるか、あるいは封筒に入れても無記名で、金額も書かずに捧げればよいのではないかと思います。
 お金というものは大切なもので、お金がなければ教会を維持したり、伝道や宣教を実施することもできないのですが、その献金は、とにかく自由で自発的なものでなくては意味がありません。無理や強制で献金はするものではありません。

 と、このように、「献金」という下世話なお話がずいぶん長くなりましたが、もっと広い視野で見ると、献金も、それから具体的に教会員として教会の運営や、社会に対する奉仕活動などに参加する事も含めて、信徒には「奉仕」が求められます。
 具体的には、礼拝の司会をしたり、楽器を演奏できる人は礼拝における奏楽の奉仕をしたり、教会学校などの子ども向けのプログラムのリーダーをしたり、パソコンができる人は週報を作ったり、教会の広報誌を編集したり、あるいは社会との関わりを積極的に持つ教会では、様々な社会活動に参加したり……アクティブに動きたいと思っている人には、いろいろな活躍の場があります。
 これも強制ではなく、無理なくできる範囲で、感謝のしるしとして参加することが大事です。自分に無理を課して奉仕しようとすると、どうしても疲れすぎたり、長続きしなかったりします。また、感謝ではなく、怒りや不満が起こって来る場合もあります。そうなると、本来喜んでするはずの奉仕が苦痛のもとになってしまいます。そうなってしまうと全く意味をなさないことになります。
 ですから、経済的にも体調的にも時間的にも無理のない形で、感謝の気持ちを表せる程度に、教会の奉仕に参加する事が望まれます。

 「教会員」になるということは、教会の構成メンバーとして、そういった教会の諸々の活動に関わっていくということを意味しています。
 もちろん、洗礼を受けても、教会が行なっている様々な奉仕に参加するというよりは、ただ静かに礼拝に参加し、安らかな気持ちで神を思う時が与えられれば、それでいいのだという方もいらっしゃるでしょう。それも大切なことです。
 「礼拝」は英語では「サーヴィス(service)」と言います。つまり「礼拝」はそのままで神への「奉仕」です。また,もう少し専門的な用語で「リタージー(liturgy)」=「典礼(礼拝で行なわれる儀式)」という言葉もあります。この言葉の語源は「民の行なう事」という意味です。やはり、神に捧げる人間の仕事という意味です。
 ですから、基本的にまず礼拝に参加するということが、神に仕える奉仕なのですから、そこが第一歩です。それから先の奉仕は、感謝を表すために自発的に参加できる範囲で責任を負えばよいのです。

 というわけで、教会で洗礼を受けるとなると、その前後にこれまで述べたような様々な変化を体験することになります。
 ごく簡単にまとめると、まず……
   (1)「キリスト教や神について、ある程度自分で納得する程度には学ぶこと」、またその学びに基づいて、
   (2)「神さまやイエスさまと共に今後の自分なりの人生を歩みたいと決心すること」、そして、
   (3)「教会員として(あるいは個人的にも)自分にできる範囲での奉仕をすること」。
 この3点を押さえたうえで、洗礼を受けていただきたいのです。
 この3点を抜きにすると、せっかく洗礼を受けても意味がなくなってしまいますし、教会に集う他の人たちの心も大きく傷つけてしまうことになります。

 どの宗教でもそうだと思いますが、自分を超えたもの(神でも、伝統でも)に対する真面目で敬虔な思いが抱けない人、長い時間をかけてゆっくりと学び、奉仕する気持ちの無い人には、洗礼はお勧めしません。
 別段、人間には洗礼を受ける義務などありませんし、教会員にならなくても、神を思い、神を信じて、救われて生きることは可能です。
 また、生涯をかけて関わるつもりはなく、軽い気持ちで一時的にお願い事をしてみました、という程度の思いでも、神さまはその一瞬の思いを愛して受け止めてくださるでしょう。
 ですから、洗礼をあえて受けなさいと言う必要を私は感じません。
 しかし、それでもあえて洗礼を受けて下さるなら、それは私たちキリスト者の仲間として、いや家族として、この世を愛し、この世に仕えて生きる人生を共にしようという意志表示になるわけですから、それは私たちにとってこの上なく嬉しいことです。

 洗礼は受けなければならないものではありません。
 でも、洗礼を受けて私たちと同じ神の家族となる方が現れることを、私たちは心待ちにしてもいます。
 まずは日曜日の教会で行われている礼拝への参加から、始めてみてください。
(2013年1月23日記)


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〔初版:2013年1月23日〕

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