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 Q. 恋人とつきあうために洗礼を受けるってありですか?
  ぼくが好きな人はクリスチャンです。お互いにお付き合いをしたいと思っているんですが、彼女のお母さんが、「クリスチャンでないと付き合ってはいけません。結婚もいけません」と言っています。
 それで彼女も「洗礼を受けてくれたら、つきあうことができるんだけど」と言ってくれています。
 けれどもキリスト教では、彼女とつきあうために洗礼を受けるなんて許されるんでしょうか? 教えていただければありがたいです。

(2014年某日、メールでお問い合わせを受けた質問より)

 A. あとあとしんどくなりますよ。



▼きっかけとしてはよいのではないでしょうか

 まず私の個人的な見解を述べておきたいと思います。
 洗礼を受けること自体は、私はかまわないと思います。
 恋人とつきあうことがきっかけであったとしても、洗礼を受けてクリスチャンになってくださるということだけで、私は嬉しいと思います。そして、それからだんだんとキリスト教の深くて面白いところを知っていただければ嬉しいなと思うのです。
 洗礼を受けるときにキリスト教の全てを知ってから、という人はまずいませんから。キリスト教なんてクリスチャンでも、聖職者でもその全てを把握するなんて無理なくらい大きな世界ですから、全てをわかってから洗礼を受けるというのは無理なんです。ですから、「きっかけ」として洗礼を受けて、キリスト教の世界に入って行く。単に入り口に過ぎないんです。ですから、私は硬いことは言いたくないと思います。

 そういうことを嫌がる牧師さんはいらっしゃいます。特にプロテスタントの教会は「信仰告白」、つまり「あなたはどういう経緯で、どのように神さまを信じるようになりましたか?」ということを、教会の人たちの前ではっきり表明させられりするところもあったりします。「本気で信じていますか?!」ということを、問われてしまうのです。
 そういうときに、「本気で」信じてないのに、「信じています」とか言ったり、質疑応答に答えたりするのも大変でしょう? そんな嘘をつき通すのは並大抵の根性ではできません。ですから、大抵の教会では「恋人と付き合うためだけに洗礼を受けたいです」なんて言うと、牧師に嫌な顔をされるだけでしょう。

 また、そのことで相手の方と恋人関係になることができたとしても、その場合、おそらく相手の方も相手のご家族も、次の段階として、あなたが相手の方と一緒に教会に通うことを望まれるでしょう。
 洗礼を受けたら、次は毎週教会に通い、良き信徒として教会と神さまに仕える、ということが望まれると思います。
 洗礼を受けたらそれで終わりという風にはならないんですよね。そのあたりは覚悟しておいたほうがよいと思います。
 もし、教会に通うことをやめてしまうならば、やがて相手の方の親御さんから「なぜ教会に行かないのか」とクレームがつき、やがて「形だけの洗礼なんて意味がありません」などといった批判を受け、相手の方とは別れるように言われてしまうでしょう。
 ですから、きっかけとしては良いと思いますし、そのことがあなたのクリスチャンとしての生活の始まりになるなら喜ばしいことだと思いますが、きっかけだけで終わってしまったら、あなたの恋愛も終わってしまう可能性が高いので、そのあたりは慎重に考えたほうがいいのではないかと思います。

 まあしかし、教会というのも、もちろん個々の教会にもよりますが、なかなか楽しいところです。基本的に悪い人が集まっているところではありませんし、みんな親切ですし、一緒に食事をしたり、イベントをやったりするなかで、様々な世代の人たちと触れ合って、人間として得るものは大きいです。
 ですから、いまひとつ神さまというのがよくわからないままでも、それを問われるのは洗礼の時だけで、あとは黙っていれば誰にもわかりません。また、意外に神さまのことはよくわからないままクリスチャンをやっている人ってのも多いんですよ。だから何も心配することはありません。
 恋人と一緒になるべく週に一回、都合のつく日曜日に極力行くという程度でもいいですから、一緒に通ってみて、「今日はいい話を聞いたな」とか「今日は面白いイベントがあったな」とか思って幸せに過ごすことを考えていれば、たぶんきっとうまくいくでしょう。

▼むしろ親御さんに言いたいこと

 さて、むしろ私は「クリスチャンでないとお付き合いしてはいけません」と言うような親御さんには、「そういうしょうもないことを言うのはやめておいたほうがいいですよ」と言いたいです。
 そういうことを言っていると、お子さんが恋愛をしたり交際をしたり結婚をする可能性が異常に低くなります。日本ではの話ですが、クリスチャンは人口の0.8パーセント程度しかいません。そのため、「クリスチャンとしか付き合ってはダメ」などと言うと、出会いの可能性が非常に狭められてしまいます。

 むしろ、お子さんがいろいろな出会いをするなかで、自分がお付き合いしたり、一緒に暮らすのに向いている人を見つけ、その人がキリスト教信仰に対して寛容で、理解のある人であれば良しと考えるのがよいのではないでしょうか。
 そして、その方が将来的にお子さんを通して、キリスト教信仰やその信仰に裏付けられた生活から感化されて、キリスト教や教会に関心を持ってくれるならば、そのほうがよほど家庭伝道としては望ましいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 もっと厳しいことを言うと、クリスチャンであれば良い人であるとは限りません。日本ではともかく世界では人口の3分の1近くがクリスチャンです。ということは、日本の仏教徒と同じように、特に普段自覚的に神さまを意識していなくても、形だけクリスチャンという人も意外に多いのです。また、たとえ人柄が良い人であっても、結婚そのものに向いていない人というのもいるものです。

 ですから、交際や結婚の相手を、クリスチャンであるかないかを基準にするよりは、実際の人間性をもとに判断することのほうがはるかに安全であると思います。まずは自分が幸福だと思える人を選んで、それからその人をキリスト教に導くことが可能であるならば、新しいクリスチャンをこの世にもう一人誕生させることができるわけですし、そのほうがはるかに理想的ではないかと思うのですがいかがでしょうか。

 残酷なことを言うならば、周囲を見渡してください。
 クリスチャンであれば幸福な結婚が約束されているかというと、そうでもない夫婦が多いのが現実だとは思いませんか? クリスチャンでも離婚は増えているし、離婚はしないまでも、不幸を隠して無理をして結婚生活を続けている人もたくさんいるのが現実というものではないでしょうか。
 ですから、単純にクリスチャンであるかないかということで、人間を判断するのはやめておいたほうが良いのです。
 人間性を見ましょう。定まった信仰のあるなしに関わらず、人間的に素晴らしい人というのはいるものです。また、そういう人が実はキリスト教の本当の良い部分のエッセンスを理解し、受け入れる可能性もあるのではないでしょうか。
 クリスチャンであるかないかという形式的な基準で人間を観察すると、どんでもない失敗を犯すことになりますよ。ご注意ください。

(2015年3月31日記)

〔最終更新日:2015年3月31日〕

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