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 Q. 教会を移りたいと言ったら「洗礼を取り消す」と言われました。そんなことできるんですか?
 これまで通っている教会の牧師先生の教えや説教の内容と自分の信仰が合わないと思うようになってきました。そして、より納得できる信仰の教会を見つけることができたので、いろいろ考えた後、そちらの教会に移りたいと思い、転会を願い出ました。牧師先生からなぜ転会したいのか理由を聞かれたので、信仰的に合わないと答えました。すると牧師先生は、「そういう信仰内容では『薦書』が書けない。転会を認めるわけにはいかない。どうしても出て行くと言うなら洗礼を取り消す」と言われてしまいました。本当に洗礼を取り消すなんてことはできるのでしょうか。それとも、私たちはクリスチャンではなくなってしまうのでしょうか。その場合は再度洗礼を受けることができるのでしょうか。

(いつぞやか、何人もの方から受けた質問より)

 A. できません。
▼取り消しはできません

 結論から申しますと、洗礼を取り消すことはできません。
 洗礼というのは、原則的には一生に一度のこととされていて、しかも1回で十分だとされています。ということは、その1回の洗礼が一生有効なので、取り消すということもできないし、もう一度洗礼を受け直すことも必要ないのです。
 もし、あなたが自分で自分の洗礼を「取り消したい」と望んでも、それも無理だということになっています。洗礼というのは神様の救いのわざという理解がされているので、人間側の都合では取り消せないということなんですね。けれども、もちろん自分が洗礼を受けたということを後悔するということは人生色々でありうるので、その場合は教会に行くのをやめてしまえばよいというだけのことです。教会の人は、「どうして来ないの?」、「またおいでよ」と声をかけてくるかもしれませんが、しばらく無視していたり、あるいは、「もう教会には行きません」とはっきり言えば、まずそんなにしつこくは追いかけてきません。
 けれども、そういう場合ではなく、今回おっしゃっているように、牧師が個人的判断で(あるいは教会の役員会なり長老会の判断であったとしても)、洗礼を取り消すということはできないのです。したがって、あなたの洗礼は取り消されません。

▼そもそも洗礼とは

 洗礼には2つの側面があります。
 1つは、キリスト教会の入会儀礼という面です。そもそも洗礼というのはイエスが始めた儀式ではありません。イエス自身はユダヤ教の1つの派であるバプテスマのヨハネという人の弟子になるときにヨハネの洗礼を受けましたが、やがてヨハネが投獄され殺害された後に、教団を離れて独自の活動を始めました。その時点では、イエスは自分の弟子になるときに洗礼を受けさせるということはしていません。そもそもの話をすると、イエスは教会というきちんとした組織も作っていません。彼は自分についてくる者はついてきなさい、ついてこない者はついてこなくてよろしいという態度だったようです。
 ところが、イエスが亡くなった後、弟子の集団を任されたペトロやヤコブ、ヨハネといった代表メンバーたちは、何とかしてイエスの教えや活動を受け継いでゆこうとして、この集団を組織化し、指導者とメンバーという身分の違いを取り入れたり、メンバーかメンバーでないかと区別する制度を作らざるを得なくなりました。これは、イエスを殺害したユダヤ人社会の人々に取り囲まれた状況で、誰が安心すべき入会者か、誰を警戒して入会を阻まなくてはならないかを区別しなければいけない必要に迫られた弟子集団としては、仕方のない選択だったでしょう。もし、イエスが死ねばそれで全部終わり、ということには彼らは耐えられなかったのです。
 そこで入会儀式として採用されたのが、バプテスマのヨハネも行っていた「洗礼」という儀式です。罪を洗い流し、新しい人生に生まれ直すという神との約束を、実際に水を使って神と人の前で示すという儀式をちゃんと通過できる人だけを、信用して正規のメンバーにするという方法がとられたのです。
 そういうわけで、洗礼というのは、そもそもイエスが始めたものではありませんが、キリスト教会が入会儀式のために始めたものなのです。そういう意味では、「洗礼を取り消す」ということは、何らかの必要があって、メンバーを除名する際には必要で有効な手段ではないかという考えもできます。

▼入会儀礼だけではない洗礼

 ところが洗礼にはもう1つの側面があります。先ほども申し上げたように、洗礼というのは水を使って、罪の洗い流しと新しい命への生まれ変わりを表す儀式です。
 このとき、水というのは「神の活きている水」(「活水」ともいいます。学校の名前にも使われていますね)とされ、それは神の活きている霊を象徴しています。「象徴」というのはちょっと説明が難しいのですが、本来見ることも触れることもできないもの(例えば神の霊など)を、見えるもの・触れることのできるもので表す・見なすことを指します。例えば、この洗礼式で使う水は、別に川や湖の水でも、海の水でも水道水でもよいのですが、洗礼式で使うにあたって、「この水を聖別(神によって特別なものとして取り分ける)してください」と願いの祈りを捧げます。そのことによって、「これは神の活きている水である」と見なすわけです。宗教というのは、このような「象徴」のシステムとして出来上がっているものなんですね。
 さあ、それでその神によって聖別された、神の霊そのものである(とされた)水を使って、頭から滴をたらすとか(滴礼式)、全身を水に浸からせるとか(浸礼式または全身礼)、いろいろな方法がありますが、要するにあなたのこれまでの罪に汚れてしまった人生を洗い流していただくわけです。
 もちろん、水で洗って過去に行ってきた悪いことが全部無くなるなんてことは、現実的に考えればナンセンスなことです。しかし、これは宗教における象徴的な行為ですから、そういう意味があるのだと理解することが大事です。そして、「今これから私は新しい人生を始めるのだ」という気持ちをしっかり心に刻むことが大事です。
 浸礼式の場合、特にはっきりと体で表すことになりますが、この洗礼には「古い自分に死んで、新しい自分に蘇る」という意味もあります。全身が水に沈められてしまうことで死を象徴し、水から引き揚げられることで再生を象徴します。実際に死んで生き返るわけではありませんが、象徴的に新しい人生を始めることを、神と人との前で約束し、それを体で表すのです。滴礼式の洗礼の場合、そこまで派手に全身で死と再生を演じるわけではありませんが、頭から水を注がれることで、古い自分が洗い流されて、新しい自分に生まれ変わるということを象徴しています。

▼牧師はただの仲介者

 このような意味のある洗礼を受けるとき、洗礼を授ける牧師や洗礼の場所を提供する教会は、神の活きている水による洗礼の仲介者とみなされます。つまり人間としての牧師や、人間の集団であり、建物である教会は、神の道具に過ぎないということです。洗礼の主体は神自身であって、牧師などはその手段に過ぎないという考え方なのです。
 実は洗礼というのは、牧師などの聖職者しか授けてはいけないというのも誤解であって、牧師でなくても洗礼を授けることがありうるというのは、アウグスティヌスなどの古代の神学者も述べていることなのです(アウグスティヌスの言うことが全て正しいと言うわけではありませんが)。
 ですから、よく牧師さんが「私がこの人に洗礼を授けたのだ」とか「私は何人の人に授けた」とか自慢そうにおっしゃっている場面に出くわす時がありますが、ああいうこともあまり意味がありません。牧師は仲介者(メディア)に過ぎないのであって、あくまで人間を洗い流して生まれ変わらせる主体は神だからです。
そして、同じ理由から、牧師や教会が独断で、神が行ったはずの洗礼を取り消すということもありえません。それは人間に過ぎない牧師たちの越権行為となるのです。ですから、あなたの洗礼は取り消されません。
一度受けた洗礼は、原則的にはどこの教会に行っても有効とされ、他の教会に移りたい場合も、もう一度洗礼を受け直すということはなく、転入会式をすれば十分です。神が一度洗ったのだから、もう洗う必要が無いというわけです。
(もっともバプテストのように、それでも自らの教会で再洗礼を施すという教団もありますが)。

▼再び洗礼を受けたい場合

ただ、牧師が取り消すとは言わなかった場合でも、「あの牧師、あの教会で受けた洗礼を、なんとかして無かったことにしたい」という気持ちを持つ方もおられます。
例えば、元々属していた教団がキリスト教会からカルトとして認定されている場合など。マインドコントロール的なプロセスで受けさせられた洗礼だったと、今から振り返って思うものなど。
あるいは、教団としてはまともかもしれないけれど、その牧師が何らかのハラスメントや性犯罪などの加害者であったり、特にあなた自身がその被害者であったりすると、その人を通して授けられた洗礼は、いくら理屈では神が主体だとわかっていても、気持ちとしては到底受け入れられない、汚らわしくて気持ち悪くて、振り払うことができれば振り払ってしまいたいと思うのは当然です。
そのような過去も洗い流し、新しく生まれ直したいという決意を込めて、敢えて原則を曲げて再度洗礼を受けるということはあり得ると思います。その場合は、新しい教会において、個別に承認してもらえばいいのではないでしょうか。もし、どうしても承認してもらえないというのであれば、また私にご相談くださいね。

▼まとめ

というわけで、ここでひとまずまとめます。
(1)洗礼の取り消しということはありえません。
(2)一度受けた洗礼は一生有効です。
(3)けれども、どうしても洗礼を受け直したい場合は、個別相談となります。
いかがでしょうか。さらに疑問がある場合はどうぞご遠慮なくお寄せください。


〔初版:2020年1月18日〕

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