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 Q. 洗礼って全てがわかってからでないと受けてはいけないんですか?
 キリスト教の洗礼を受けられたらいいなあと思っているのですが、キリスト教ってちょっと難しそうで、簡単に洗礼を受けられないような気がします。
 また、正直言って、洗礼を受けてしまって、後で「こんなはずじゃななかった」と後悔するかもしれないと思うと、あまり簡単に受けないほうがいいかなあとも思います。
 私はあまり勉強は得意なほうではありませんので、たくさんおぼえることがあるのなら、自分には無理かもしれません。
 教会に来ている人はみんな頭が良さそうな人が多いような気がします。
 みんな洗礼を受けるためにどれくらい勉強したんでしょうか。私みたいな者でも洗礼って受けさせてもらえるんでしょうか?

(2012年10月、メールでのご相談より)

 A. そんな人はおりません。
「全て」をわかった人なんていません

 ご安心ください。「キリスト教の全て」を理解している人は恐らくこの世にはいないと思います。これまでもいなかったし、これからも現れないでしょう。
 ということは、全てを知らなくてもクリスチャンとして生きてゆくには特に問題が無いのです。
 キリスト教の全てを知る/わかるというのは、恐らく不可能です。
 キリスト教の世界が広く奥深いということはもちろんですが、とにかく規模が大き過ぎますし、歴史の積み重ねもかなりのものです。
 現時点で、世界中の人口約70億人のおよそ3分の1がキリスト教の信者だと言われています。ということは20億人以上のクリスチャンがこの世界に生きていることになります。そして、その20億人がそれぞれのキリスト教への関わり方や信じ方、生き方を実践しているわけです。キリスト教の「全て」を理解するというのは、例えばその20億以上の人たちの心と考えと生き方を知って理解するということになりますが、そんな事が人間にできるはずはありません。人間は自分のことさえもよくわかっていないことがあるのですから。
 キリスト教は世界中のあちこちに広がっており、どの大陸にもクリスチャンはいますが、大まかに考えるだけでも、そのクリスチャンたちが住んでいる地域の特質や民族性や文化などと互いに影響し合い、驚くほど多様な異なる種類のキリスト教が存在しています。そして、同じキリスト教と呼ばれている宗教であったとしても、その種類が違えば、恐らく相互理解は不可能、場合によっては殺し合いにさえ発展しかねないくらい、互いに違いは激しいのです。
 「キリスト教の全て」というより、「全てがキリスト教の中にある」と言う言葉を使う人もいるくらいで、実にキリスト教は、思想や哲学、儀式の種類や方法、信仰理解、生き方の流儀,習慣、社会活動などにおいて、その内容も強調点も特徴も、あらゆる種類に分化し、発展してきました。
 しかも、分化し、発展してきた様々な種類のキリスト教は、それぞれそれなりに長い歴史を経ています。1000年以上の歴史を経験し、伝統を保持している流れもそう珍しくはありませんし、今なお新しい動きも発生しつつあります。
 ですから、そういった互いに矛盾したり対立したりするような要素も、「キリスト教」と呼ばれる宗教どうしで存在しているのですから、「全てを理解する」ということは不可能です。規模的にも立場的にも無理です。ある立場のキリスト教に立つということは、他の立場とは異なるということになりますから。全てを理解し、把握し、自分の中に取り入れるということは不可能なのです。

いろんなキリスト教がある

 というわけで、私たちがキリスト教を信じる、あるいはクリスチャンになるということは、多種多様なキリスト教の流れの中の、どこか一つの中に入る、あるいは関わりを持つということになります。そうすることしか不可能です。
 しかしその際、自分が関わっているこの教会/教団もキリスト教だけれども、他の種類のキリスト教もあるのだということを、ちゃんと理解しておくのはとても良いことだと思います。
 というのは、キリスト教の中には、これまでも今もそうですが、「正統である」つまり、「自分たちの所が由緒正しき本家本元であるぞ」という事に、異様にこだわる人たちがいるのです(キリスト教だけに限ったことではないでしょうが)。そういう人たちによって、キリスト教内部で壮絶な争いと憎み合い、そして殺し合いがなされてきた歴史があります。
 そういう人たちは、「自分たちだけが正統な神の僕(しもべ)であり、神の意志をこの世で代行しているのだ」と思い込んでいます。どんなに非情な暴力を振るい、残虐な殺戮を繰り返しても、「これは聖なる戦いだ」と思っているので、手がつけられません。
 ですから、そういう歴史の負の部分から学んで、私たちは「自分たちだけが正しい」とか「我々が正統だ」という意識は捨て去った方が良いでしょう。
 「いろいろなキリスト教がある」ということは、色々な種類の考え方や生き方の実践に触れて、自分の視野を広めることができるという楽しい面もあります。ですから、そのあたりはゆったり大きく構えているのが良いと思います。

一生楽しめるコンテンツ

 さて、私たちがキリスト教に触れ、関わりを持つとき、それは多種多様なキリスト教の中の、ほんの一部に触れているに過ぎないのですが、そのようなほんの一部でしかない一つの群れであったとしても、それなりに長い歴史の積み重ねによって出来上がってきた伝統的な信じ方や慣習や活動を保持している場合が多いです。それをまた一人の人が「全て」を理解し、把握するというのも、非常に難しいことでしょう。
 最初はほんの小さなとっかかりから始めて、やがてだんだんと理解が深まってゆくことでしょうが、完璧ということは人間にはありませんから、完全に全てを知るということは多分一生かかっても無理でしょう。
 しかし、逆に考えると、一生かかっても学びきれないほどのコンテンツがあり、生きている限りどこまでも新しい発見があるという風に考えれば、それも楽しく意義深いのではないでしょうか。
 キリスト教には(人生の何についても言えることかも知れませんが)、「ここまで来ればゴール」「ここまでやれば完成」というものが無いのです。どこまでも生きている限り、学びと悟りの連続です。また、キリスト教の教えの内容や思想だけでなく、キリスト教芸術(絵画、彫刻、音楽、文芸、建築、工芸品などなど)の世界に足を踏み入れてみると、それはそれは豊かで荘厳で華やかな世界が広がり、きっとあなたを魅了するでしょう。
 そういうわけで、楽しみはそう簡単には終わりません。自分の満足したところでやめて安心するもよし。一生かけて深みを探求するも良し。ゲームオーバーの無いゲームのようなものですから、楽しめるだけ楽しめばよいのだと思います。

最低限必要なもの

 それでは、結局クリスチャンになるには、何が最低限必要なのでしょうか。
 私は、それは「神を思う心を持つ」ということ、そして、それが「イエスの生涯と死によって明らかにされたということを信じる」こと、それだけで十分だと思います。
 もちろん、教会によって、またその教会にいる牧師さんや神父さんによって、様々に「こういう事が必要です」という事は言われるかもしれません。でも、最低限必要なことは今あげた2点だと思います。
 そして、教会によっては、「信仰告白(自分の今までの人生をふりかえって、どのような神さまの導きを感じ、神さまを思うようになったのか、を言葉にしたもの)」を用意してくださいと求められる場合もありますし、教理問答書のいくつかの項目に「はい」「信じます」と応答してくださいと求められる場合もあります。
 細かいことは色々教会によって違いますが、根本的には「神を思う心」があることが必要です。
 それは、「100%の確信をもって神の存在を信じ込んでいる」ということを必ずしも意味しません。疑いながらであってもいいのです。疑うというのも、何かを求めている一つの姿勢です。相手は見えず、触れず、存在を証明する事などできない神さまなのですから、それを信じていいのか、信じるに値しないのか、それを吟味しながら進むというのは、100%鵜呑みで妄信するよりも、よほど健全な態度だと言えます。99%の疑いがあっても、1%の希望が感じられれば、そしてとりあえず長い期間キリスト教と関わる事になりそうだと思えれば、スタートラインとしての洗礼というものはあり得ると思います。

洗礼はスタートに過ぎない

 洗礼というのは、ゴールではなくスタートに過ぎません。それは結婚のようなものです。結婚してから初めて分かることが結婚には多いように、洗礼を受けて教会の人になってから初めて分かる事も多いのです。
 色々なことがだんだん分かってきて、より一層キリスト教の魅力があなたにとって深まってくるかも知れませんし、ひょっとすると幻滅を感じるかもしれません。
 しかし、もし幻滅を感じても、完全に失望する事はありません。なぜなら、先ほどからも述べていますように、キリスト教にもいろいろな種類のものがありますから、違う教会に行けば、雰囲気、教えや活動の内容、牧師や神父や信徒さんがたのキャラクターなど、全く異なるものがそこに存在しています。
 ですから、ひとつふたつの教会に触れただけで、「キリスト教とはこういうものだ」と判断しなくても良いのです。「いろいろある」のがキリスト教のあり方で、あなたはそれをチョイスすればよいのです。
 キリスト教の世界に入るのに、「全てをわかる」必要はありません。むしろ、「自分に合うキリスト教があるかどうか」を探すくらいの気持ちでちょうどよいのではないかと思います。
 洋服屋さんにかかっている全ての洋服が自分に合うとは限りません。その中で自分に似合うものは,ごく限られたものかも知れません。それでも1着か2着あなたのお気に入りがそのお店で見つかれば、あなたはそのお店をお気に入りに登録できるのではないでしょうか。
 同じように宗教も、その宗教に触れた時に、何か自分の心に印象深く訴えかけるものを感じ、日々の暮らしにとって良いものを得られるようであれば、それで十分なのです。どうぞ気持ちを楽にして、キリスト教に触れてみてください。
(2013年1月23日記)


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〔初版:2013年1月23日〕

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