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 Q. キリスト教では妊娠中絶ってダメなんですよね?

  わたしは中絶の経験があります。キリスト教では中絶は本当はダメなんですよね? ですから、教会のひとには中絶のことは話していません
 本当のところ、中絶した人間は罪人なのでしょうか? 中絶をした女性は天国には入れませんか?
 中絶は子どもに対する殺人だと聞いたこともあります。私は人殺しをしたのでしょうか? わたしは悪い人間なのでしょうか? 赦されないのでしょうか?
 聞くのが怖い気もしますが、教えてください。


 A. ダメじゃないですよ。



▼あなたは悪くない

 まずは申し上げておきたいことがあります。
 もしあなたが堕胎(または中絶とも言いますが、正式には人工妊娠中絶と言います)の手術を受けた当事者だとしたら、まずは「あなたは悪くない」ということを伝えたいと思います。
 あなたはさまざまな事情や理由があって、その手術を受けたと思います。そしてその結果、あなたは傷つき、あなたの中にいた子どもの命も天に召されました。あなたは、自分はとても悪いことをしたと思っているかも知れません。
 けれども、あなたは悪くありません。
 もちろん決して良いことをしたのではありません。とても悲しい決断をしましたね。
 けれども、自分を責める必要はありません。あなたは悪くありません。
 そこだけはわかっていただきたいと私は思っています。

 ここからあとに書く理屈は、蛇足みたいなものですから、面倒でしたら読み飛ばしてくださって結構です。


▼プロライフとプロチョイスの論争

 医学的な話や法律的な話は置いておいて、このQ&Aではキリスト教のお話に絞りましょう。
 堕胎に賛成か反対かについては、よく「プロチョイス」と「プロライフ」という言葉が使われます。
 「プロチョイス(pro-choice)」とは、選択(choice)の自由を大事にする考え方で、要するに堕胎を容認する、堕胎する権利を認める、また求めるという立場です。それに対して、「プロライフ(pro-life)」とは、生命(life)を尊重するという考え方で、堕胎には反対し、認めない、あるいは禁じるという立場です。いずれも、堕胎が良いことであるという考えではありません。ただ容認するか、しないかという2つの立場に、大まかに言えば分かれているということです。
 キリスト教会の中でも、この「プロライフ」と「プロチョイス」の論争はあります。
 キリスト教会の中で論争があるということは、あなたがこうしてウェブで調べていても、各々のサイトで言っていることが違うということになります。そこで、時間の無駄を省くために申し上げておきますが、このサイトは「プロチョイス」の立場で書かれています。つまり、堕胎を容認し、選択の自由を尊重する立場で書かれていますので、プロライフの意見を聞きたいのだという方は、ここでどうぞ他のサイトへお移りくださって結構です。
 当サイトは、堕胎した方をキリスト教の立場から責めたり責任を問うことはありません。

▼聖書的な理由について

 聖書の中で、「堕胎をしてはならない」と書いてあるところはありません。その一方で「このような場合は、堕胎をしても良い」というようなことも書いてありません。つまり、堕胎について「聖書にこう書いてあるので……」というようなことは誰にも言えません。
 ただ、プロライフ派の考えの中心にあるのは、単に「堕胎に反対する」ということではなく、「生命を尊重する」という点です(もっとも、アメリカの中でも南部の「バイブル・ベルト」と呼ばれる地域などでは、人工妊娠中絶を実施している産婦人科の医院が、プロライフ派のクリスチャンたちによって爆破される事件も起こったことがありますから、一体プロライフ派の「生命を尊重する」というのは、誰の生命なのかというのは、論議の余地もありますが……)。
 創世記の最初に天地創造の物語があります。神様が天地を作り、生命を作り、人間も作ったと書いてあります。そして、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1章28節)というのは有名な言葉です。神様は人間に、まず最初に「子どもを作って、人口を増やしなさい」ということを命じた、と聖書には書かれているわけです。
 また、創世記17章には、旧約聖書を伝えたイスラエル民族の先祖であるアブラハムと神様が「契約」(「私を神として、私に従って歩むなら、あなたがたを祝福し、繁栄させますよ」という神とアブラハムの約束)を交わすシーンがありますが、ここでも神様はこんな風に言っています。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる」(創世記17章4節)。
 他にも、神様の祝福を受けると子どもができるはずがないと思っているところに子どもが産まれるといったようなお話が旧約聖書にはたくさんあり、旧約聖書全体を通して、なんとなく「子どもが産まれるのは神様の祝福だ」という物の考え方が一貫しているように感じるわけです。

▼聖書には書かれていないことも多い

 ところが、聖書とはいっても、地球上の万物について完全に網羅した書物ではありません。例えばこれまでいくつかの記事をご紹介した旧約聖書も、古代イスラエル民族(現在のユダヤ人の遠い遠い先祖)の神話や歴史、そして掟(「律法」とも呼ばれます)が書かれた、イスラエル民族の聖典であった書物であって、イスラエル民族以外の人間には元々は関係がなかった本です。
 この本には、古代のイスラエル民族にとって大切な昔話や決まり事が書かれていますが、イスラエル以外の人には関係はなかったし、イスラエルの価値観が非常の強く反映されています。そして、逆にイスラエルにとってあまり関心のないことは書いていないのです。またそれだけではなく、古代の書物ですから、何千年も後の現代の私たちの置かれている状況を予想して書かれているわけでもありません。
 ですから、旧約聖書に書かれている価値観を、そのまま現代の我々が共有しなければいけない、ということはないのです。ちょっとその辺り、「聖書」という書物との心理的距離を保った方が良いでしょう。
 「旧約聖書は子どもが産まれることが神の祝福のしるしだという価値観で書かれている」と先ほど言いましたが、それは古代のイスラエルの民がそういう価値観を持っていて、それに基づいて本を書いたということに過ぎないのであって、あなたがその価値観で生きなくてはならないわけではないのです。
 今とは違って、古代人にとってはこの世は危険に満ちていて、新生児救急治療室もありませんし、子どもが猛獣に食われることもあったでしょうし、当時は地球上の人口も少なかったですから地上は広々としていましたし、人数の多さが民族の強さとつながり、戦争にも勝たないといけなかったので、人口を増やすことは民の最大の課題と言っても良かったでしょう。ですから、古代人にとって子どもを産み、人口を増やすことが一番大事なことだったとしても不思議ではありません。
 けれども、今は違います。現代に生きる私たちにとっても最も大切な課題は、人口を増やすことではありません。古代人たちが大事にしていたことを、私たちは参考にしても良いとは思いますが、同じ価値観で生きなくてはならないわけではないのです。
 聖書はあなたの置かれた個別の状況を想定して書かれたものではありません。要するに「気にすることはない」のです。

▼イエスは何と言うだろうか?

 さて、旧約聖書に書いてあることを「参考にしてもいい」、けれども「気にすることはない」と言いました。それでは新約聖書はどうでしょうか。
 新約聖書にも、堕胎についてどうこう規定した記事はありません。それに、新約聖書の多くの文書は、ほぼ全ておよそ2000年前に書かれました。やはり古代人の著作です。ですから、書かれている価値観としては、旧約聖書と同じように、あなたは「参考にするのは良いけれど、あまり深く気にすることはない」のです。
 キリスト教は、イエス・キリストという人物をきっかけにできましたが、新約聖書を読む限り、イエスが堕胎を禁止したとも容認したとも書いてありません。
 聖書以外では、イエスが生きていた時代のローマ帝国では、堕胎や新生児の遺棄などは当たり前のように行われていたという証言があります。意図しなかった妊娠の場合、余分な子どもとして、生まれた直後に路傍に捨てたり、埋めたりすることにも、ローマ人は罪悪感を感じていなかったようです。
 そのような子どもの命の尊厳や人権など微塵も考えていないような世の中で、イエスが子どもたちが自分のところに寄ってくるのを妨げず、子どもを抱き上げて「神の国はこのような者たちのものだ」と言ったという物語(マルコ10章13-16節)をローマ人の社会で刊行したのは、かなり画期的なことであったと言えるでしょう。
 子どもの命などほとんど顧みられない社会の中で、イエスは子どもの存在がとても大切なのだと宣言した、とキリスト教会はローマ帝国の社会の中で主張したわけです。
 ですから、基本的には子どもの命というのは大切なのだという姿勢は、旧約聖書の時代から変わらず、新約聖書にも受け継がれていると考えてよいでしょう。

▼イエスの誕生物語

 イエスという歴史的人物の実際の出生を記録したものではなく、むしろ聖人伝として作られた物語と捉えられるイエスの生誕物語ですが、これも赤ん坊の命をどう捉えるかについて考える上で参考にはなりません。
 マタイによる福音書によれば、マリアが結婚する前に妊娠したことを知った婚約者のヨセフは、自分には身に覚えがなかったので、密かに離縁しようとしたと書いてあります(マタイ1章18-21節)。
 離縁すると、マリアのお腹の子は大きくなって、いつかは婚外の関係による妊娠であると発覚してしまい、マリアは姦淫(結婚相手や婚約者とは別の人と性行為をした)の罪を犯したとみなされます。ユダヤの掟(律法)では姦淫した女性は死刑と決められていたので、ヨセフがマリアを見棄てるということは、マリアと彼女のお腹の赤ん坊が死んでもかまわないと考えたことになります。
 ところがある夜、ヨセフの夢の中に天使が出てきて「マリアと結婚し、子どもをイエスと名付けなさい」と告げました。そこでヨセフは生まれてきた子どもの父親となったというお話です。
 この物語から、「だから彼女が妊娠した場合、自分の身に覚えがなくても、出産させなさい」という教訓を引き出したい人もいるかもしれませんが、おそらく十中八九この物語を書いた著者はそんなことは考えていません。ヨセフは、マリアのお腹の子が神の子だと知らされたから離縁しなかったのであって、そうでなければ離縁し、マリアとその子が殺されようが路頭に迷おうが、知ったことではないのです。
 ですから、この婚外の妊娠を認めた物語も、イエスだから特別だと言っているだけなのであって、これを一般化してプロライフの根拠にするというわけにはいきません。かといって、プロチョイスの根拠にもなりません。
 そういうわけで、最初から直接この問題に関して、何らかの意見の根拠を見つけるのは、非常に難しいのです。

▼あなたが悪くない理由

 ただ、私が「堕胎することを決めたあなたは悪くない」と断言する理由は、新約聖書に描かれたイエスの言動を全般的に見て、堕胎した女性をイエスなら絶対に責めたりはしないだろうと考えるからです。
 たとえば、ヨハネによる福音書にはこんな物語があります。
 姦淫の現場で逮捕された女性がイエスのところに連れて来られます。先程も申し上げたように、姦淫は死罪に当たるとされています。ところがイエスは普段から「罪人」とされている人びとに「あなたは赦された」と宣言して回っていたので、イエスの敵たちは、イエスが「赦す」と言えば「律法違反だ」と告発し、逆に「罪だ」と言えば「普段と言っていることが逆だ」とネガティブ・キャンペーンを張ろうと企んでいたわけです。
 イエスはこのような敵たちに「あなたがたの中で罪のない者がこの女に石を投げればいい」と返答しました。それを聞いて、敵たちは年長者からその場を去っていったといいます。そうやってイエスは彼女の命を救いました(ヨハネ8章1-11節)。
 ここから、イエスは一般的に罪だとされている性的な行為について、それを良いことだとは言いませんが、「それは罪だ」と言って責めもしない、むしろ責める人たちをたしなめる人だったということがわかります。
 加えて言えば、ここで姦淫の当事者として女性だけが連れて来られたということにもイエスは違和感を覚えていたのでしょう。なぜイエスの敵たちは女性だけ連れてきたのでしょうか。そうやって女性を辱め、それにイエスがどう対応するかを見せ物にしようという、非常に女性蔑視的な姿勢が透けて見えます。
 それに対してイエスは、自分が「姦淫を犯した者を庇った」と汚名を着せられることを承知の上で、この女性を守ったのでした。
 これによって、イエスが様々な事情があるにせよ、女性の方が不利で不当な扱いを受ける世の中に対して、体を張って対抗したと見ることもできます。

▼あなたを守らない世の中

 イエスの時代もさることながら、現代においても、性に関する事柄は圧倒的に女性の方が被害を受け、損をすることが多いのが現実です。
 妊娠して子どもを産むことに決めたにしても、身体に負担を抱え、出産の苦しみと危険を引き受けるのは女性です。堕胎するとなれば、なおさら身体に大きな傷を負い、生命の危険と健康への被害のリスクを負うのは女性です(ちなみに、日本においては、産婦人科で実施されている堕胎の方法は、いまだにほとんどの場合が掻破しか行われておらず、もっと安全で苦痛の少ない方法(内服薬など)を取らないことが重大な人権侵害であると指摘する声もあります)。
 堕胎を認めない社会は、女性を守らない社会です。例えば、妊婦が何らかの病気を発生した場合、あるいは胎児に何らかの異状が発生し、健康に妊娠を続けられなくなった場合でも、法律が堕胎を認めていないと、妊婦も胎児もそれこそ苦しみぬいたうえで命を失ってしまいます。
 また、社会が堕胎を認めていないと、多くの人が妊娠の事実を隠したり、ひそかに自己流の堕胎をしてしまい、結果的に死亡したり、病気や障がいを身に負ってしまうケースが広がるというデータも見られます。逆に、堕胎する権利を法律が認め、性教育にもきちんと力を入れていると、堕胎が減るということも実例が出ているそうです。
 交際相手の男性は、堕胎される子が自分の子であることを認めない場合もありますし、雲隠れしてしまうこともできます。その結果、女性が完全に孤立してしまうことにもなりかねません。
 そのようなケースに直面した時、もしイエスがそこにいたなら、何と言ったでしょうか。
 もちろんイエスは女性ではありませんから、「あなたの苦しみはわかるよ」と言っても何の意味も無いことはご存知でしょう。
 それでもイエスなら、少なくとも「私もあなたを罪に定めない」と言ってくれるのではないでしょうか。イエスはあなたを責めません。イエスにならう者は、このような場合女性を責めてはならないと私は思います。あなたは悪くありません。
 イエスは、一方的に苦痛や負担を強いられる女性を責めたりはしないし、責める人から女性を守りたいと願う人なのです。

▼子どもの命の行方

 ここで気になるのは、堕胎され、失われてしまう子どもの命のことです。いくら社会的に罪ではないと認められたとしても、子どもの命を奪ってしまった、奪う決断をしてしまったという意味では、罪悪感を持ってしまってもおかしくありません。「罪悪感を持つな」と周囲の人が言っても、それを止めることは無理でしょう。
 けれども、あなたがそのような罪悪感を持っているということは、あなたが子どもの命を大切な者ものだと感じているということですから、あなたが悪い人ではないという証拠でもあるのです。
 お子さんの命がこの世で生きるチャンスを失ったことはとても残念なことです。
 しかし、命というものは、神から与えられたもので、神からこの世に送り込まれ、この世で死ねばまた神のもとに帰ってゆきます。
 イエスも「人は死ねば天使のようになる」と言っていますが、要するにこの世で生きている姿とは全く違うものになり、神に直接仕える者になるのだと彼は考えていたということです。
 私も、少なくともお子さんは今は安らかな気持ちで神さまのそばにいるものと思います。私たちのほとんどの苦痛は肉体や脳に根差すもので、肉体から解放された者は、そのような苦痛からも解放されているからです。
 堕胎された時、お子さんはとてもとても苦しい思いをされたと思いますが、天に召された今は、神さまのもとで安らいでいるのです。
 そして、いつかはあなた自身もこの世を去る時が来ますが、その際にはあなたのお子さんにも再会できるでしょう。その時、どうかつらい思いをしたお子さんを抱きしめて愛してあげてください。
 お子さんに再会するために早く神のもとに行こうと思う必要はありません。そのようなことをお子さんが願っているでしょうか。自分が生きたいと思っていたぶん、お母さんには生きて欲しいと願うものなのではないでしょうか。

▼あなたの生きる意味

 あなたはこのようなつらい経験を抱えて生きていくのは困難だと感じているかもしれません。しかし、そのようなつらい経験をした人にお願いしたいことがあります。
 それは、世の中にはつらい経験を抱え、生きるのが困難だと感じている人がたくさんいるので、そのような人の気持ちのわかる人になっていただきたいのです。
 全く同じ経験ではなくても、生きるのがつらいと思ったあなたは、生きるのがつらいと思っている他の人の気持ちに寄り添って共感することができるはずです。それを是非おこなう人になっていただきたいのです。
 イエスは、徹底的に人の痛みや苦しみ、悩みに共感し、寄り添おうとした人でした。彼は男性ですから、女性特有の体や心の痛みは経験できません。しかし、自分の肉体において極限の苦痛を味わい、精神的にも恥と侮辱の限りをぶつけられて、そのあまりに死んでしまうという最期を選びました。それはあなたの苦しみをわかりたい、一緒に苦しみたいという願いがあったからです。
 ですから、できればあなたも、あなた以外にも色々な理由で生きづらさを覚えている人のそばに寄り添う人になってください。そうすれば、苦しんで亡くなったお子さんの魂も浮かばれますし、神さまも喜んでくださるでしょう。

▼男性の方へ

 最後に補足として、男性の方にお伝えしたいことがあります。
 再三申し上げていますように、男性には女性特有の痛みはわかりませんし、特に堕胎の肉体的・精神的苦痛など理解できるはずがありません。そこは謙虚になるべきでしょう。さらには、これも既に申し上げた通り、相変わらず今の世の中でも、女性の方が損をするようにできています。
 したがって、あなたが関係している女性に予期せぬ妊娠があった時、あなたは堕胎に関しては一切それを示唆したり、ましてや強制したりはしないでください。また「産んでくれ」と頼むこともやめてください。あくまで決定権は女性にあるのだということを尊重してください。
 ただし、それは「自分には関係ない」と放置することではありません。相手の方が孤立しないようにしっかり寄り添ってください。彼女が望むのなら、できるだけそばにいてください。そばにいてほしくないと言われた場合でも、いつでも連絡は取れるようにしておいてください。
 そして、彼女から何か助言なり意見を求められたら、「どうすれば彼女を大切にし、安心してもらうことができるか」ということを最優先にしつつ、かといって自分にできないことは約束せず、よく悩んで判断したことを話してください。
 ただ心情的に寄り添うだけではなく、経済的な面でのサポートも大切です。堕胎にも費用がかかります。それをどのように負担するかも、きちんと考えておいた方がよいでしょう。
 人生、何が正解ということはありませんが、いざという時に責任ある対応ができない人が、安全ではないセックスをする権利は無いのではないでしょうか。


〔第1版:2019年10月5日〕
〔第2版:2019年10月7日〕

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