質問者 「え? キリスト教の信者って、酒、のんでもいいの?」 わたし 「飲みますよ。ぼく、小学生のときからビール飲んでました」 質問者 「それはクリスチャンでなくてもあかんやろ。でも、それじゃ、ふつうの人間と同じじゃんか」 わたし 「だから、さっきから普通だって言ってるじゃないですか」 質問者 「タバコは?」 わたし 「ぼくは普段は吸わないけど、酒が入ると吸いたいときがありますね」 質問者 「ふつうじゃんか」 わたし 「だから普通ですって」 質問者 「いや、クリスチャンは違う。違ってないとあかん。おまえはそんなんではあかん。もっと清らかにならんとクリスチャンとは言えんぞ」 わたし 「なんでー?!」 |
(1987年ごろに受けた質問より)
日本のビールは軽すぎておいしくないですねー。お金ないから普段は発泡酒飲んでますけど、本当は麦芽が沈殿してて酵母がドロドロ、みたいな濃いドイツビールが好きなんです。ワインは今のところ研究中。ウィスキーはバーボンの方がいいなぁ。ウォッカ系はボトルにわらが一本入ったズブロッカが好みです。
「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため」(コヘレトの言葉10章19節)
日本酒も好きですねー。毎年仕事で信州に行くんですが、いつも寄る酒屋さんがあって、そこのお店で造ったその年の新酒をキンキンに冷やしてあるのをワイングラスで飲ませてくれます。米って本当は果物なんじゃないだろうかって思うくらい爽やかな日本酒の香りを口に含むとき、「神さま、こんなにすばらしい自然をこの世に造ってくださって、ありがとう!」と、思えるのです。
聖書の中には、「お酒はやめておきなさい」と言っているところと、「少々のお酒はよろしい」と言っているところがあります。
たとえば、旧約聖書では、聖なる場所に入るときや(レビ記10章9節)、特別な誓願をたてた献身者となるときには(民数記6章3節)、お酒は飲むな、と書いてあります。
新約聖書でも、パウロは酒におぼれる人の事を非難していますし(Tコリント5章11節、6章10節)、他にも「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」とエフェソの信徒への手紙にも書いてあります。
他にも、お酒についての戒めはたくさんありますが、一般人に「いっさい酒を飲むな」とは命じているわけではないようです。過度な飲酒を厳に戒めているわけです。
お酒を好意的に評価する聖書の言葉もあります。
最後の晩餐でもわかるように、聖書の時代にはふつうの食事でもぶどう酒は用いられたようですが、イエスは特に、
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」(ルカによる福音書7章34節)
……と、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちに陰口をたたかれることもあったようです。でも、これは逆に、イエスがどんなに親しく庶民的な人だったかを示す記事でもあります。
お酒を飲めない体質の人には申し訳ないですが、少量のお酒は健康を増進することもあります。赤ワインのポリフェノールは長生きにいいらしいですね。
その反面、アルコールには依存症の危険性も伴います。アルコール依存は人間を肉体的にも精神的にもボロボロにしてしまいます。本当に中毒になったら、まず突然死が近いと思っていいでしょう。
また、家庭内暴力などと結びついて、いっしょに暮らす人にも大きな危害が加わることが多い。さらには、依存症の親を持つ子が依存症の人を恋人に選ぶという、世代を超えた心の傷を産む原因にもなりがちなのです。
だから、お酒の取り扱いについては、本当は相当慎重であるべきで、コンビニで売ってるのは、ぼくらにとっては便利だけど、未成年が買うことについては断固とした対策をとらんといかんと思いますよ。
お酒のことを「スピリッツ」とも言います。「スピリット」とは、霊とか魂という意味ですが、まさにお酒は穀物や果物などの魂・霊を取り出したものであり、それを私たちは体内に入れる事で、高揚したり、落胆したりする。当然、他の霊を身体に入れるわけですから、入れすぎるとその霊に乗っ取られて、えらいことになってしまうわけです。しかし、そういう人間以外の霊を取り入れていろんな精神状態を作り出したり、調整したりする感覚を昔の人は持っていて、そういう効果を上手に暮らしに生かし、楽しんでいたのだろうと思います。
体質・体調さえゆるせば、乗っ取られないよう上手に、いろんな種類のスピリットを流し込み、神さまが与えてくれた自然の恵みを腹の内側から感じ、喜ぶことができるというのは、とても幸せなことではないかと思います。
結局、「酒は飲んでも飲まれるな」ということに尽きますか。「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため」(コヘレトの言葉10章19節)
日本のビールは軽すぎておいしくないですねー。お金ないから普段は発泡酒飲んでますけど、本当は麦芽が沈殿してて酵母がドロドロ、みたいな濃いドイツビールが好きなんです。ワインは今のところ研究中。ウィスキーはバーボンの方がいいなぁ。ウォッカ系はボトルにわらが一本入ったズブロッカが好みです。
日本酒も好きですねー。毎年仕事で信州に行くんですが、いつも寄る酒屋さんがあって、そこのお店で造ったその年の新酒をキンキンに冷やしてあるのをワイングラスで飲ませてくれます。米って本当は果物なんじゃないだろうかって思うくらい爽やかな日本酒の香りを口に含むとき、「神さま、こんなにすばらしい自然をこの世に造ってくださって、ありがとう!」と、思えるのです。
聖書の中には、「お酒はやめておきなさい」と言っているところと、「少々のお酒はよろしい」と言っているところがあります。
たとえば、旧約聖書では、聖なる場所に入るときや(レビ記10章9節)、特別な誓願をたてた献身者となるときには(民数記6章3節)、お酒は飲むな、と書いてあります。
新約聖書でも、パウロは酒におぼれる人の事を非難していますし(Tコリント5章11節、6章10節)、他にも「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」とエフェソの信徒への手紙にも書いてあります。
他にも、お酒についての戒めはたくさんありますが、一般人に「いっさい酒を飲むな」とは命じているわけではないようです。過度な飲酒を厳に戒めているわけです。
お酒を好意的に評価する聖書の言葉もあります。
最後の晩餐でもわかるように、聖書の時代にはふつうの食事でもぶどう酒は用いられたようですが、イエスは特に、
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」(ルカによる福音書7章34節)
……と、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちに陰口をたたかれることもあったようです。でも、これは逆に、イエスがどんなに親しく庶民的な人だったかを示す記事でもあります。
お酒を飲めない体質の人には申し訳ないですが、少量のお酒は健康を増進することもあります。赤ワインのポリフェノールは長生きにいいらしいですね。
その反面、アルコールには依存症の危険性も伴います。アルコール依存は人間を肉体的にも精神的にもボロボロにしてしまいます。本当に中毒になったら、まず突然死が近いと思っていいでしょう。
また、家庭内暴力などと結びついて、いっしょに暮らす人にも大きな危害が加わることが多い。さらには、依存症の親を持つ子が依存症の人を恋人に選ぶという、世代を超えた心の傷を産む原因にもなりがちなのです。
だから、お酒の取り扱いについては、本当は相当慎重であるべきで、コンビニで売ってるのは、ぼくらにとっては便利だけど、未成年が買うことについては断固とした対策をとらんといかんと思いますよ。
お酒のことを「スピリッツ」とも言います。「スピリット」とは、霊とか魂という意味ですが、まさにお酒は穀物や果物などの魂・霊を取り出したものであり、それを私たちは体内に入れる事で、高揚したり、落胆したりする。当然、他の霊を身体に入れるわけですから、入れすぎるとその霊に乗っ取られて、えらいことになってしまうわけです。しかし、そういう人間以外の霊を取り入れていろんな精神状態を作り出したり、調整したりする感覚を昔の人は持っていて、そういう効果を上手に暮らしに生かし、楽しんでいたのだろうと思います。
体質・体調さえゆるせば、乗っ取られないよう上手に、いろんな種類のスピリットを流し込み、神さまが与えてくれた自然の恵みを腹の内側から感じ、喜ぶことができるというのは、とても幸せなことではないかと思います。
結局、「酒は飲んでも飲まれるな」ということに尽きますか。
〔最終更新日:2001年5月16日〕
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