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 Q. クリスチャンって、ケンカしたり怒ったりしちゃいけないんですよね?


 教師 「こらっ! ええかげんにせえ!!」
 生徒 「うわっ! 先生キレた!」
 教師 「当たり前や!」
 生徒 「先生、クリスチャンやろ! クリスチャンが起こってもいいんか! それでも牧師か!」
 教師 「あほう! クリスチャンでも牧師でも、怒る時には怒るんじゃ! なんでクリスチャンが怒ったらあかんのじゃ!」
 生徒 「ええ? でも、クリスチャンとか牧師いうたら、いつでもニコニコしてそうなイメージあるんやけどなあ」
 教師 「残念でした」

(2000年9月ごろのやりとりを再現)

 A. 甘い甘い(笑)。ガンガン、イキまっせー。


 ガンガンいきまっせ、といっても、宗教戦争に発展するような憎しみのぶつけ合いの話ではありません。(もっとも、世の中のほとんどの宗教戦争は、宗教を大義としてかかげているだけであって、本音の部分では領土や経済の問題で戦争している、というのが本当のところだと思われますが……)
 クリスチャンだって、怒らなければいけないときはあるのです。

1.原則的には、腹を立てるな

 確かに、新約聖書には、イエスがこう語った、と書いてあります。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」(マタイによる福音書5章21−26節)
 「腹を立てるな」と書いてあります。「供え物よりも和解が先だ」とも書いてあります。つまり、礼拝よりも和解することの方が先だ、とまで言っているのです。


2.しかし、怒るときは怒るぞ

 その反面、イエスも激しく怒ることがありました。いちばん激しく怒った場面は、たぶん、エルサレムにやってきて間もなく、神殿から商人たちを追い出したときでしょう。
 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
  『わたしの家は、すべての国の人の
   祈りの家と呼ばれるべきである。
  ところが、あなたたちは
   おれを強盗の巣にしてしまった。』
  祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのように殺そうかと謀った。群集が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。(マルコによる福音書11章15−19節)
 怒ってます。しかも、かなり暴力的ですね。イエスだって怒らないといけないときには怒ったのです。

 なんでこのとき、イエスはこんなに激しく怒ったのか。
 彼が熱心な信仰者で、神殿の境内で商売をしているのを見て、「清めよう」とした、という考えがあります。そういう面もあるかも知れません。
 それ以上に、商人たちの背後にいる者。神殿を中心とする金集めの構造によって、巨万の富を抱えていた、当時の宗教貴族たちの腐敗しきった体質を、非難したとも考えられます。
 神殿には、ユダヤ地方在住であるかないかに関わらず、すべてのユダヤ人の成人から取り立てる神殿税が集められていました。
 加えて、神殿では、供え物(いけにえに使う)の動物を売る商人たちに対して、所場代を払うように要求していました。要はテナント料です。そして、いったんいけにえに使われた動物の肉は、今度は食用として肉屋に払い下げられたりするので、神殿にはいけにえだけでも二重の入金ルートがあるのでした。
 また、神殿の中でしか通用しない通貨というものも定められていて、境内では両替屋も繁盛していました。この両替業者からの上納金もあります。
 
加えて、当時の祭司長や、最高法院のメンバーだった上級の祭司たちは、たいていガリラヤなどの田舎に土地をもつ大地主で、もともと小作人たちからの上納金でうるおっていました。
 というわけで、イエスの怒りは、神殿に巣食うとんでもない利権集団に対する怒りだったのです。
 それは彼が育ったガリラヤの民衆の暮らしから見れば、まさに「とんでもない税金泥棒集団」だったのです。そういう事態に対して、イエスは「腹を立ててはならないからねぇ」などと、エヘラエヘラ笑っているような人物ではなかったということです。
 商売の台をひっくり返された商人たちに対しても、「あんたらがそんなことやってるから、おれたちの宗教はどんどんダメになっていくんだ」という怒りもあった事でしょう。しかし、それ以上に、イエスのような田舎教師には、直接対面することのできないような位の高い祭司たちに、はっきりわかるように挑戦状を叩きつけるには、こういうやり方しかなかったのです。

3.叱るときにも叱るぞ

 他にも、イエスが弟子たちに対して、教育者として、厳しく叱る場面があります。
 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、ペトロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコによる福音書8章31−33節)
 「サタン」というのは、よく「悪魔」という意味にも取られますが、もともと「反対する者・敵」という意味のヘブライ語で、ここで使われているように、人間に対して罵倒の言葉として用いられました。じっさいの会話では「馬鹿者!」と言うくらいの意味でしょうか。
 だから、ここでペトロは、わけのわからんことをごちゃごちゃ言って、師匠のイエスに「馬鹿者! どっか行け!!」と怒鳴られてしまったというわけです。厳しいねー。言葉もきついです。

4.まとめ

 (1)愛ゆえの怒り
 そういうわけで、友人同士では、腹を立てないほうがいい。先にも引用したように、供え物を献げに行くのをあとにしてでも(
マタイ5章21節以降)、つまり礼拝よりも和解のほうが大切なくらいなのです。これは友人同士だけではなく、あらゆる対等な社会人の関係、あるいは社会と社会、国や民族にも当てはまることかもしれません。
 それと同時に、「どんなときでも」怒ってはならない、とイエスが言っていた訳でもない。
 イエスは、貧困や不平等、不正などの社会矛盾の元凶を目の当たりにした時には、遠慮なく怒り、そしてそれをあらわにしました。また、弟子を叱らなくてならないときには、厳しく叱ることもあったのです。
 何を基準にイエスが怒っていたのかは、はっきりしていますね。イエスの怒りの根本にあるのは、愛です。弱い立場に置かれた者の側に立つ愛、教え子を叱咤激励する愛が根本にあり、その愛をどう表現するかはケースバイケースだったのでした。
 マーティン・ルーサー・キング牧師も、非暴力による抵抗を実践しましたが、それは「怒らない」ということではないのです。差別や不公正に怒りを抱くからこそ、そして暴力的な抵抗よりも、もっと有効な手段として非暴力の方法、「愛という方法」を取ったのでした。
 だから、「牧師のクセに」と言うなかれ。
 むしろ、場合によっては「牧師だから」「クリスチャンだから」怒るのです。
 そして、問題は「怒るか怒らないか」ではなく、「どういう立場に立ち」、「何に対して」、「何を基準に」、「どのように」怒るのか、ということなのです。もちろん感情の高ぶるままに八つ当たりするなどもっての他です。しかし、笑顔であったとしても、あるいはおだやかな口調であったとしても、伝えなければならない怒りというものはあるのです。

 (2)赦しと両立する怒り
 それでも、「キリスト教は『ゆるし』の宗教であり、『裁き』の宗教ではない、と言う方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、同じ「ゆるし」でも、「許し」と「赦し」。前者は「許可」の「許」。「〜してもいいよ」という「ゆるし」です。後者は、「あなたが罰を受けることはない」という意味の「ゆるし」です。キリスト教の「ゆるし」は後者の「赦し」なのです。本来、厳しい罰を受けてしかるべきものを、あえてその罰は与えませんよ、という「赦し」なのです。
 だから、罰はありません。わたしたちは、罰によって脅され、強制的に言動をコントロールされることはありません。わたしたちは自由です。自由な中で、あえて自分の良心に従った言動をとる道を選ぶことに、値打ちがあるのです。
 しかし、本人が悪い事をしたとも思っていないことをも、あえて「赦す」必要があるでしょうか? 何がいけなかったのか、気づかせるための怒りは正当なのではないでしょうか。
 そして、いかに自分が罪深かったか、いかに自分が他者を傷つけ、おとしめていたか、いかに身勝手であったかを、ちゃんと自分で気づいた人は、「赦される」べきなのではないでしょうか。
 そういう意味では、「赦す」過程にまで行く以前に、そして「赦す」ということを本当に意義あるものにするためにも、まずは「怒り」が必要だということもありうるのではないでしょうか。


 だから、なんでもエヘラエヘラ笑って済ませているのがクリスチャンではありません。もしそんなクリスチャンがいるとしたら、そのクリスチャンは、世の中の悪意や怠慢や甘ったれや狡猾や不公正や差別や暴力や権威主義や全体主義や国家主義や戦争や貧困や飢餓や……その他あらゆる人間のマイナス面を放置するという罪を犯しているのです。
 クリスチャンは怒ります。牧師も怒ります。怒らなくてはならないときには。

〔最終更新日:2002年11月16日〕

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