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 Q. なんでクリスチャンになんかなったんですか?

Q  「ひとつ聴いてですか?」
A1 「いいですよ」
Q  「いったい、どういうめぐり合わせでキリスト教の洗礼なんか受けたんですか?」
A1 「それは……一言では言えないなぁ。話せば長くなりますが」
A2 「要するにそれは神さまの導きですね。一言で言うと」
Q  「『導き』ってなんですか?」
A2 「『導き』は『導き』です」
A1 「それじゃあ答えになってないでしょ」
A2 「じゃあ、あなたは『導き』なしにあなたが受洗まで導かれたっていうんですか?!」
A1 「ぼくにからまないでくださいよ」
Q  「『じゅせん』ってなんですか?」
A1 「ほら言葉が通じてない」
A3 「あのー、ぼくは物心つく前に洗礼受けてたみたいだから、よくわからない」
A1 「そういう人もいるよね」

(ごくたまに耳にする質問。上記の会話はフィクションです)

 A. わかりません。人それぞれですよ。

  人がキリスト教の洗礼にいたるまで、実にさまざまな経緯があります。決まったコースはありません。本当に人それぞれだとしか言いようがありません。はい終わり……。
  というわけにはいきませんかね、Q&Aとしてはなんらかのご回答をしなければ。
  こういう回答は、しつこいようですが、やはり人それぞれなので、回答者はそれぞれ自分自身が洗礼を受ける(「受洗(じゅせん)」といいます。逆に牧師から授ける場合「授洗」(じゅせん)」といいます)にいたったまでの経緯を話すということが多いようです。

  まずはおおざっぱに分けて、洗礼を受けた人というのは、

   @親がクリスチャンで、幼児洗礼を授けられていて、気がついてみたら自分はクリスチャンだった。
   A親がクリスチャンだが、幼児洗礼は受けてない。しかし、親の感化で結果的に洗礼を受ける決心をした。
   B親はクリスチャンではないが、いろいろ偶然の出来事のつながりの中から、教会に通うこととなり、一定期間を経て洗礼を受ける決心をした。

  ……という分類ができると思います。


親がクリスチャンの場合

  このうち、@とAは親がクリスチャンであるということで、いい意味でも悪い意味でも、親の影響でクリスチャンになったと言えます。もっとも、この背後には、親がクリスチャンなので、キリスト教が嫌になって離れていった、とか、親はなんら子どもにクリスチャンとしての影響を与えていない、というパターンもたくさんありますが、まぁここでは洗礼を受けたパターンのみにしぼってお話しましょう。

  @の場合、教会によっては、物心ついてから、「信仰告白(自分の言葉で「私は神さまを信じて生きています」と教会のなかで宣言すること)」ということをして、「堅信礼(けんしんれい)」という儀式を受けて、初めて一人前のクリスチャンとして認められる、というところもあります。そういう場合は、@はまだ半分くらいクリスチャン、というか、いわゆる
「ハンクリ」というやつです。(クリスチャンが、クリスチャンでない人のことを呼ぶとき、「ノンクリ」と表現する場合もあります)

  親がクリスチャンであっても、必ずしも幼児洗礼をさずけるとは限らないのです。親戚のノンクリの人たちがいっせいに反対を唱えたりする場合がありますし、あるいは、ポリシーをもって「宗教の選択は個人の自由の問題」として、わざと幼児洗礼を受けさせないクリスチャンの親もいます。もちろんその場合でも、「できれば子どももクリスチャンになって欲しい。自分の意志でキリスト教を選択してほしいと、内心では願っている場合も少なくはありません。
  また、単純に影響を受けたというのではなく、最初は反抗していたが、歳をとってから、だんだんと親の言っていたことがわかるようになり、ある程度年齢を経てから洗礼を希望するという場合もあります。

  親がクリスチャンだから、と言ってもなかなか単純には整理できません。やはり人はさまざまなのです。
 

親がクリスチャンではない場合

  Bの親がクリスチャンではない場合、キリスト教会の門をくぐる人というのは、日本では圧倒的に少数派です。実に珍しい人と言えるでしょう。
  親がクリスチャンでない場合、その人が親の反対なしにキリスト教の信徒になるということは、珍しいでしょう。
  日本の圧倒的多数の人が、キリスト教は悪いことをするところだとは思っていない、むしろいいこともあるのだろうが、本気で信じて洗礼を受けるようなものではない、宗教に入信するなんてとんでもない、と考えていますから、親の反対抜きにキリスト者(クリスチャンのこと)になるというのは、実に珍しいラッキーな(ラッキーなのかな? クリスチャンになるって)パターンですね。
  親の反対を受けなくても、なんでも自分で決断できる年齢になったとしても、たとえば結婚相手が反対するという場合もありますから、なかなかむずかしいものです。

  ちょっと三十番地キリスト教会の牧師のプライベートなお話をさせていただければ、今考えれば、私が高校生時代に教会に行きはじめたには、2つの理由があります。
  ひとつは、学校で仲のよかった友だちが教会に通っていて、その子と日曜日の朝からいっしょに遊びたい、と言ったら、「じゃあ教会においでよ、そしたら朝からいっしょに遊べるよ」と言われて、まんまと教会にはまったということ。(このパターンは私の場合多くて、例えば大学生になって「かわいいな」と思った人に「もっと会いたいよ」と言ったら、その子のいたクラブに勧誘されてしまったとか。実はカルトなどに引っかかりやすい危ない若者だったのかも知れない)
  もうひとつは、私はたいへん親に対して反抗的であったので、できるだけ家に帰りたくない、家にいたくなかった。その上、家の人たちは宗教が嫌いだった。だから逆に反抗して宗教の世界に入ってやれと思った、というわけです。
  ですから、親がクリスチャンでない場合、親に反抗して教会に行き始めたような事例もあるということです。
  もっときれいな言い方に表現を変えるなら、家庭では満たせない世界を垣間見せてくれる「教会」という世界に魅入られていった、とも言えます。
  しかしまぁ、いざ洗礼を受けて本当にクリスチャンになってしまう時点では、やはり親に対する反抗心や対抗心が無かったといえば、やはりあったと思います。親の一番嫌がる、一番親の世界からかけ離れた世界に入ってやる、という気持ちがあったと思いますね。
  果たして私の親への反抗攻撃は見事に功を奏して、母親は顔を覆って泣き出すわ、父親は机を叩いて烈火のごとく怒り出すわ、「やったぜざまーみろ」というようなもんです。母親は「あなたは私たちと同じお墓に入らないのね!」と号泣。(その母親が20年後には「あんなオッサン(私の父のこと、彼女の夫)と同じ墓になんか入ってやるか! クソ!」と悪態をつくようになっていたりするので、本当に人生というのは予想がつかない(笑))

  さて、そんな若者が、気がついたら牧師になっていて、しかも教会ではなく学校で働く牧師になっていて、一部の生徒からは「偽善者」とか「学校で浮いてる」とか言われながら(なんでキリスト教の学校でキリスト者が浮くんだろうと思うけど、じっさい浮いてるんじゃないかな)教師をやって(絶対に教師になんかなるはずがない、と思っていたのに、なぜかいま教壇に立っている。不思議だ。教師になんか向いてないのに)、おまけにインターネットの上でもヴァーチャル教会やってるなんて、20年前、いや10年前でも思いもよらなかったです。

  もっと思いもよらなかったと言えば、私が最初に「聖書」というものに出会ったのは、実は「エホバの証人」からだった。
  小学校のころ、一家そろってエホバの証人の熱心な家庭の子と仲良しになり、その子が「いっしょに聖書の勉強をしましょう」と、友だちなのに敬語で誘ってくれた。まぁそういう不思議な人がいると、ついつい惹かれてしまう子どもだったのかも知れない。
  ちょうどそのころ、小学校3年生だったぼくは、なぜか(変わっているかも知れないけれど)死ぬことが怖くて怖くて、小学生なりに、死の恐怖から、あるいは死そのものから救われる方法を探していたのだ。そのニーズにエホバはピッタリはまった。もうすぐハルマゲドンが来て、そのあとパラダイスが来て、永遠に生きることができるというのだから……。
  しかし、私が中学受験であるキリスト教学校を目指していると聞いて、そのエホバの友だちは悲しそうな顔をした。私が「君も勉強していっしょにあの学校に行こうよ。あの学校では聖書を勉強するらしいよ!」と言っても、彼は悲しそうに目をふせるだけだったが、要するに私のほうが何もわかってなかったのである。エホバとキリスト教の違いも。
  申しそえておくと、あれだけ反抗的な息子であった私が、なぜ親の言いなりに受験を志したかというと、地元の公立中学に進学すると頭を坊主に刈り込まなくてはいけなかったからだ。ボウズはいやだ、あれだけは勘弁してくれ、オレは頭の形がヘンだから。だから同じキリスト教の学校でもボウズにするところは器用に避けて受験したわけですね。

  ちょっと例に出すだけのつもりが、こんなに話が長くなるとは思ってなかったけど、そのように、ひねくれた経緯をたどって、なぜか今クリスチャンということを公言してはばからない人間になっている。実に不思議。でも、結果的にはクリスチャンになってよかったな、クリスチャンにならなかったら、もっとつまんなかっただろうな、と思っていたりもするのです。
  そこで、このような不思議としか言いようのない人生行路のことを、「神さまが導いた人生」と言う。神がいろんな引っ張り方をするから、こんなにわけのわからない一筋ではいかない人生になってしまう。
  いや、じっさい神などいないかも知れなくても、やっぱり、自分の思っていたとおりの人生にはならなかった。思ったとおりでなくて、意外なことばかりが起こる人生だから、人間は自分の人生を完全にコントロールできるわけでもない。それが現実だとしたら、「神さまのイタズラでこうなりました」とまとめる方が、すっきりしていて簡単だと思ったりする。そこで、やはり言うわけです、こんな風に。

  「神さまの不思議な導きですね、たぶん……」

〔最終更新日:2006年6月2日〕

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