「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. キリスト教は他の宗教を認めないんですよね?

  「教会に行ったら、信仰があれば、初詣などについていったり、いっしょに神社に入ったりしてはいけないって、牧師に言われました。でも、そういう態度をとろうとすると、友だちからすごく変な人を見るような目で見られるんです。どうしたらいいんでしょうか?」

  「亡くなった父のお墓参りに行きました。自分以外の親族がみんな線香をあげて手を合わせるので、自分だけしないわけにもいかず、やはり線香をあげて手を合わせました。手を合わせましたが、父の冥福を神さまにお祈りしました。これでもいいんでしょうか。やはり私は罪人なのでしょうか」

  「キリスト教の歴史って宗教戦争ばかりやってますよね。結局、一神教だから排他的で、他の宗教を認めないから、どこにいっても戦争になってしまうんでしょうね。その点、多神教の文化は、文化の多様性を認めるから、統一した宗教を求めて徹底的に戦うなんてことはないんです。やっぱり、これからは多神教の時代なんじゃないですかね」

(これまで何度もメールでこのような質問を受けてきました)

 A. 実はキリスト教徒どうしの抗争のほうが激しいのです。

唯一神教だから排他的とは限らない

  キリスト教は唯一神教だから、他の宗教を否定するのだ、と思っている人はたくさんいらっしゃると思います。神はただ1人しかいない。それは自分たちの信じている神だ。だから他の神を否定する。一神教とはそういう発想をするものだ、と考えておられる方は多いのではないでしょうか。
  しかし、神はただ1人だ、と思っているからこそ、他の宗教と争うことをしない、という発想も唯一神教から生まれてくることはあるのです。

  ちょっと難しい言葉を使いますが、一神教には
「排他的」な方向性と「包括的」な方向性という2種類の発想があるのです。
  
「排他的」な方向性というのは、これはみなさんが想像しがちなように、他の神や他の宗教の存在を否定しようとする考え方です。ですから、無理やり自分たちの宗教に改宗させようとしたり、自分たち以外の宗教団体は間違いであると論争を挑んだり、あるいは武力を用いてでも他の宗教の信者たちを攻撃したりという方向性のことをさします。
  ただし、排他的であったとしても、あえて他の宗教を攻撃しない、というやり方もあることはあります。攻撃するのではなく、見下すという方法です。キリスト教以外の宗教は間違った宗教であり、そこには神も仏も存在しないのであるから、とりたてて争う必要はない。存在するのはただ1人唯一の神のみであるから、他の人たちは虚しいものに依り頼んでいるかわいそうな人たちなのである、というわけです。しかし、これも基本的に他の宗教を認めていないという点では攻撃的な人たちと同じであり、いったん他宗教が自分たちの宗教の存続に危機感を与えるとなると、容易に攻撃に転じます。

  それに対して、
「包括的」な方向性というのは、神はすべての地上の宗教を超えた存在であるから、宗教の違いによって互いに争ったり、否定したりする必要はないのである、という考え方です。全ての宗教にはある程度の真理が含まれている反面、どの宗教も完璧ではない。宗教は人間が作った組織と教義の体系であり、神そのものではないという発想です。
  この方向性からいけば、自分が属している宗教を絶対化することがありませんし、他の宗教の存在を否定することもないので、他の宗教を攻撃する必要がなくなります。神こそが絶対的で完全な超越者であり、すべての宗教を超越していると信じるがゆえに、宗教間の争いはやめ、それぞれの宗教はお互いにいいところを認め合っていこう、と考えることもできるというわけです。

  もっとも、包括的であったとしても、唯一神を信じているという信仰そのものが、他の多神教信者や無神論者に共感してもらえるかどうかは別問題です。しかし、少なくとも唯一神教を信じていたとしても、他宗教を攻撃しない方向性がある。しかも唯一神の絶対性を徹底化して考えるからこそ、自分たちの宗教を相対化して考える。それによって寛容と平和を見出すという方向性があるということは事実なわけです。


カトリックの場合:第2バチカン公会議の影響

  もうちょっと具体的な教会の姿について見てみましょう。
  確かに、たとえばプロテスタントの教会に行くと(特に、いわゆる福音派と呼ばれる教会や、保守的傾向・右派的傾向の強い教会に行くと)、「神社に行くのはいけません」とか、「お寺のお墓に参るのは神への裏切りであり、罪です」とか、「本当の信仰があれば、そんなことはできないはずです」とか言われたりすることがあるようです。ですから、確かに他の宗教を否定するということをやるキリスト教会はあるのです。
  しかし、たとえばカトリック教会は、1962年から1965年にかけて
「第2バチカン公会議」という教会会議を行いました。
  カトリック教会は325年のニカイア公会議以来、現代に至るまで、22回の公会議(全教会規模の会議)を行ってきており、この第2バチカン公会議は現時点での最後の公会議です。この第2バチカン公会議では、公会議史上初めて世界5大陸から参加者が集まり、さまざまな教会刷新運動についての決議がなされました。

  特にその中でも1965年10月15日に可決、承認された宣言
『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(略して「諸宗教宣言」と言われたり、もともとラテン語で表された題名の冒頭の言葉をとって『ノストラ・エターテ(Nostra Aetate)』あるいは頭文字でNAと呼ばれたりもします)は注目に値します。
  カトリック教会は、この宣言の中で、クリスチャンはユダヤ教およびユダヤ人との深いかかわりを確認し、イスラームやその他の諸宗教を信じる人びとを尊重することを確認しています。また、
「諸宗教の中に見出される真実で尊いものを何も退けない」「他の諸宗教の信奉者のもとに見出される精神的・道徳的富ならびに社会的・文化的価値を認め、保存し、さらに推進するよう勧告する」といった言葉が見られ、要するに、キリスト教以外の宗教にも真実で尊いものがあるんだよ、ということを公式に認めて、これを全世界のカトリック教会の意思として宣言したわけです。こうしてカトリック教会は、キリスト教以外の諸宗教との対話路線をスタートさせ、関係改善を始めたわけです。
  どちらかといえば、それまでの公会議というのは、「正統」か「異端」かを決めるための暗いイメージがつきまとっていたのですが、この第2バチカン公会議は、20世紀以降のカトリック教会に一大刷新を巻き起こしたと言われています。

  もちろん、キリスト教と一言に言ってもいろいろあります。同じキリスト教でも、プロテスタントには無数の教派が存在しますから、単純に言い切ることはできませんが、宗教間の対話とか、他宗教に対する寛容の態度といった問題に関しては、現時点ではカトリックのほうが、よりリベラルで開放的かつ包括的な道を進んでいると言えるでしょう。
  プロテスタントの人びとには一般にカトリックに対する偏見があることが多く、「カトリックが硬直化した形式主義で偏狭な宗教になりさがっていたから、我々プロテスタントが出てきたのだ」と言って、自分たちのほうが自由主義的なのだ、と勝手な思い込みを抱いている人が今でも相当いるのですが、残念ながら今は16世紀ではありません。21世紀のカトリック教会は、プロテスタントの一般的な教会よりもはるかに柔軟で自由主義的で包括的で開放的なのです。
  ことカトリックに関して言えば、キリスト教は、自分たち以外の宗教を否定したり、攻撃したりもしない、むしろさまざまな宗教の中にも真実なものがあるんだと公式に認める、と世界に対して宣言しているのです。


■もともとは拝一神教

  さて、まだ読む時間くらいはあるよ、という方のために、もう少し考察を進めてみましょう。今度は歴史的な観点からです。

  キリスト教はユダヤ教から分かれ出てきた一神教です。この一神教の文化をひとまとめにして「ユダヤ・キリスト教的伝統」と呼ぶこともあります。キリスト教が生まれてくる以前から、すでにユダヤ教は唯一神教だったわけですが、唯一神教としてのユダヤ教が生まれてくる以前に、
「拝一神教」の段階があったということが、かなり前から指摘されていました。
  
「拝一神教」というのは、要するに「たくさん神々がいることは認めるが、自分たちはこの1人の神を信じる」という宗教のタイプのことです。旧約聖書で、アブラハムやモーセなどユダヤ人の先祖たちが神を信じたやり方はこういう形です。「契約宗教」という発想もここから生まれてきます。「他にたくさん神はいるけれども、私たちは、特にあなたと契約を結びます。あなたは私たちの神となり、私たちはあなたの民となります」という契約を神と人が結ぶわけです。
  ですから、神と人との契約が結婚にたとえられ、神が夫でイスラエルの民は花嫁であるというような表現が旧約聖書に出てきたり、あるいは、他の神を拝んでしまったりすることを不倫や淫行にたとえたりするわけです。他に男がたくさんいるかも知れないけれど、おまえの夫、おまえの主人は1人しかいないのだよ、というたとえなわけです。

  イスラエル民族がカナンの地(現在のパレスティナ地方)において居住地を手に入れるために戦い、王国を建設して(紀元前1000年前後)、周囲の他の王国と戦火を交えるようになってからも、この
「拝一神教」の発想は変わりません。イスラエル民族の戦争はヤハウェ神の戦いであるとされ、あらゆる戦争は神と神の戦いだと考えられました。
  こういう「神と神の戦い」という発想は、特に珍しいものではありません。古代の日本でも、いくつもの小部族が互いに争っていたころは、それらの部族ごとの守護神が互いに戦っているものと考えられたようです。これらの部族を統一国家にまとめてゆくプロセスで、最終的に勝利をおさめた天照大神を奉る部族が、天照大神を最高神とし、全国の神々の序列化を行おうとした結果生まれてきたのが、古事記や日本書紀という文学であったとも考えられています。
  話をイスラエル民族の歴史に戻しますが、とにかくイスラエルは、もともと他の神の存在自体を否定していたのではなく、神々がたくさん存在している(それは古代人にとっては当たり前の状況でした)なかで、特にヤハウェ神と契約を結び、ヤハウェ神と共に、他の神々と戦いを交えていたわけです。
この
「拝一神教」が崩れるきっかけを与えたのは、イスラエル王国の滅亡です。


■敗北から生まれた唯一神教

  勝利を重ねて、王国を建設したまではよかったのです。「ヤハウェは勝利された。ヤハウェは敵を我らの手に渡された」と喜んでおればよかったのです。あるいは、勝利の時代が終わり、王国が南北に分裂しても(北王国イスラエルと南王国ユダ)、辛くも滅亡を逃れることができている間は、「ヤハウェは私たちを守ってくださる」と言っておれましたし、たとえ戦争に負ける事があっても、国が存続している間は「主よ、なぜですか。どうして私たちに苦しみを与えるのですか」と言っていたわけです。
  ところが、完全に彼らが敗北する日がやってきます(イスラエル王国の神殿を受け継いでいた南王国ユダの滅亡は紀元前587年)。そして、ユダのおもだった人たちは自分たちを滅ぼした国(新バビロニア帝国)へと強制連行されてゆきます(バビロン捕囚)。国土が奪われ、国家のシステムが破壊されただけではありません。民族の守り神である神の神殿が破壊され、燃やされました。見たところ、ヤハウェ神の完全なる敗北です。

  ユダの生き残りたちは、なぜこのようなことが起こったのだろうかと悩みました。ヤハウェが敗北するということは考えられないことでしたが、実際にイスラエルは敗北し、神殿は破壊されました。そうして悩むうち、ユダの生き残りたちの間には(その頃になると「ユダヤ人」と呼ばれるようになっていましたが)、「神が敗北したのではなく、私たちが神から罰せられたのだ」という考えが広まるようになりました。
  「私たちが不信仰であったがゆえに、神は私たちを敵の手に渡した」、「神は敵を用いてでも、私たちを罰そうとしたのだ」というこの発想が、「『私たち』の上にも『敵』の上にも力を振るう、超越的な神」という神観に発展し、敵の上にも味方の上にも君臨する唯一の神への信仰、つまり
「唯一神教」を生み出すきっかけとなったと考えられているわけです。

  ここで、
拝一神教から唯一神教に変わってくるプロセスで重要な役割を果たした歴史的要素は、実は戦争における「敗北」だったのだということを確認することは大切ではないかと思います。
  勝利するから「自分たちの神は絶対的だ」と信じ込み、また「自分たちの神は絶対的だから他の宗教や他の宗教を信じている民族を踏みにじってもいいのだ」ということから唯一神教が生まれてきたのではなかったのです。
  そうではなく、敗北したことを通して、「自分たちは決して絶対的な存在ではないのだ」、「神は自分たちだけの神ではないのだ」ということに気づかされていくのが、すべてを超越した「唯一の神」という発想が生まれるきっかけになったわけです。

  ですから、唯一神教のスタートラインというのは、
「自己絶対化」ではなく、「自己相対化」です。神を絶対者とするということと、自分たちの宗教を絶対化するということは違うのです。そうではなく、自分たちの宗教・民族・国家などを相対化することから、神の絶対性に思いを馳せるということが、唯一神教の原点となっている、ということ。神の絶対性への気づきと人間の相対性への気づきはワンセットだということなのです。
  そういうわけで、ここでも、先に述べたような「神を絶対化することによって、人間(と人間の生み出した宗教)が相対化される」ということが出てくるわけです。
ともすれば、自分たちの教会の信条や教義や職制を絶対化しがちなクリスチャンは、このあたりをしっかり反省する必要があるのではないでしょうか。


■実は近親憎悪のほうが激しい

  しっかり反省する必要といえば、実はキリスト教というのは、その始まりの時期のことを言えば、キリスト教以外の宗教に対する迫害ではなく、同じキリスト教内部の他者に対する弾圧のほうがよほど残酷で徹底していた宗教なのです。
  イエスの死後まもなくして発生した最も初期のキリスト教は(1世紀〜3世紀ごろ)、たいへん多様性に富んだ、さまざまな信仰や教義や活動が、多くの異なるグループによって展開されていた、エネルギーにあふれた宗教運動でした。イエスという人物をどうとらえるのか、神はどういうお方か、イエスをキリストと信じて生きてゆくとはどういうことであるのか。それらについて、多様な考え方がこの新しい宗教の中には混在しており、さまざまな書物が著されました。
  しかし、ローマ帝国に広がり、勢力を拡大したキリスト教は、やがてローマ帝国の権力者に、国家を統治するのに有用な宗教として取り込まれることになります(313年「ミラノ勅令」、392「異教禁止令」)。このとき、すでにキリスト教にはさまざまな分派が成立していたのですが、国家によって公認化され、国教に採用されてゆく過程で、「正統」と「異端」を区別しようという動きが起こってきます。

  それまでにも、同じキリスト教を信じるセクトの間でも、互いに批判をしたり非難をしたりということはあったのです。しかし、国家によって公認化されるまでは、キリスト教は一様に国家から迫害されていて、その迫害に耐えていかに生きてゆくかということのほうが大きな問題でした。
  しかし、国家に公認化されてゆくようになったことで、セクト間の争いが、「多数決による政治力の争奪戦」に変わっていきました。多数決を制したものが、国家権力と結びつくことができるのです。こうして教会会議(公会議)が行われ、そこで
「正統」「異端」の審議が行われ、多数決で勝った者たちが「正統」を名乗り、たとえ僅差ではあったとしても数の上で負けた者が「異端」とされ、キリスト教会から追放されてゆきました。正統派を正統派たらしめるのは、数の論理で勝利したという力関係に過ぎません。誰が「正統」であるかを決めるのは、政治なのです。異端排撃の弾圧は、キリスト教がかつてローマ帝国から受けた弾圧よりも、はるかに激しいものだといわれています。

  その後、古代〜中世〜近代にいたるまで、いわゆる世界史といわれている領域をざっと眺めれば、十字軍と大航海時代を除いて、宗教がからんだ戦争は、異端審問、魔女狩り、相互破門、教会分裂、宗教改革などなど……そのほとんどがキリスト教内部の争いだといえるのではないでしょうか。
  また、宗教改革以降のプロテスタントの歴史は、無数に教派を細分化してゆく歩みとなったわけですが、教派が細分化したぶん、自らを
「正統」と名乗るグループを多数生み出すことになり、それに伴って争いの数も増えていったと思われます。

  もちろんプロテスタントには、教会の合同(いくつかの教派が合併してひとまとまりの大きな教会を作る)ということも起こっているのですが、たとえば日本最大のプロテスタント教会組織で合同教会の日本基督教団では、現在も旧教派のセクトによる勢力争いに血眼になっている人たちがうようよいる有様です。
  そもそも日本の住民の中でクリスチャンの人口が1パーセントにも満たないような状況であるのに、そんな少人数の集団の中でも、
「正統」「異端」争いの真似事のようなことが行われているのは、99パーセント以上を占めるクリスチャン以外の人がもし知ることとなれば、冷笑にしか値しないようなことであるか、あるいはどうでもいいようなことでしょうが。


■キリスト教の不幸:政治と常に結びついてきた歴史

  そのようなわけで、クリスチャンというのは、国家権力と結びついて勢力の拡大を図るために改宗を迫るにせよ、異端を排撃して正統派の地歩を固めるにせよ、多数派であるときも、少数派になってさえも、基本的に自分たちのことしか見えていない傾向が強い人たちだということはいえると思います。
  そうなってしまったのも、キリスト教という
唯一神教が、ローマ帝国という国家および帝国主義と結びついてしまったことに不幸の最大の原因があるように、私には感じられます。

  
唯一神教と帝国主義および国家主義は、たいへん相性のいいもの同士ではないかと思います。唯一神教は、唯一絶対の神を頂点とし、その神につながる聖職者を頂点とした中央集権的な身分構造(ヒエラルキー)を作りやすいので、そのような宗教を民衆に信じさせることによって、民衆を支配するのに都合のよい中央集権的な社会を作るのに役立つのです。
  宗教家は政治家に、その権力が神によって与えられ、神に保証されたもの、つまり絶対的な権力であるというお墨付きを与えますし、政治家は宗教家に神の代理人として敬意をはらい、特別な恩恵を与えます。そうやって政治と宗教が手を組み、互いに利用しあうことによって、民衆支配を実現してゆきます(これをおそらく真似ようとしたのが、明治以降の近代天皇制と大日本帝国の関係です)。

  さすがに現代世界では、宗教者が政治権力と直接結びつくという例は、表向きはほぼ無くなりましたが(それでもアメリカなどでは、ビリー・グラハム牧師などと大統領との関係のように、けっこう政治と宗教がおおっぴらに結びついていたりもするようですが)、それでも世界人口の圧倒的多数派を占めるクリスチャン(世界人口のおよそ3分の1)および教会組織が、政治に与える影響は非常に大きなものです。
  クリスチャンたちが自分たち以外の宗教とその信者に無関心であったり、時として、他の宗教や自分たちと同じ宗教の少数派に対して排他的で独善的な態度を取れるのは、常に政治権力と結びついてきた宗教であるという歴史から離れては考えられないのではないかと思います。


■唯一神信仰を徹底化することで寛容になれる

  私はここで
唯一神教の悪口をさんざん並べ立てているようですが、だからといって多神教的宗教観のほうが一神教的宗教観より優れているというようなことを言いたいわけではないのです。ただ、私自身がプロテスタント・キリスト教の世界に身を置いてみて感じる事を、率直に言っているだけです。唯一神教には今述べたような大変危険な問題点がありますが、それと同時に大きな可能性も持っていると思っています。
  それは最初にも述べたように、「唯一の神はこの世のすべてを超越した絶対者であると信ずるならば、この世のすべてのものは相対化して考える事ができる」という点です。ここで大切なのは、「自分が属している宗教さえも必ず相対化する」ということです。

  たとえ絶対者を信仰することで成立している宗教であったとしても、その宗教の教義や信条が人間の言葉で作られ、その宗教を運営しているのが人間であるかぎり、それらはすべて相対的なものです。絶対者を信じているからといって、信じている自分のやることまで絶対化してはいけないのです。
  神は絶対者であり、超越者であり、無限なるものだからこそ、有限な人間には神を完全に把握することはできません。神のみが絶対者であり、人間は誰ひとり神を完全に知ることはできないということを徹底的に認識することによって、人間は自らが有限で相対的な者であることを徹底的に認識させられなければならないのだろうと思います。

  そして、自分や自分の信じている宗教を徹底的に相対化することによってこそ、他の宗教を信じる人たちとも仲良くやっていけるというものだろう、と思います。
  絶対的なもの、正統的なもの、唯一正しいもの、永遠なるもの、そういうものにあこがれる人の気持ちもわからないではありません。しかし、そういう一見「確かなもの」に依存して自分を保っている人というのは、ひとたび権力を握ってしまうと、他の宗教に対しても、自分の宗教内部の少数者に対しても、とんでもない暴虐を働いてしまうということがあるのです。だから
「絶対性」「正統性」「真理性」「永遠性」などといったものに価値を見出す人は基本的に危険だと私は思っています。

  「自分は何かわからないものを信じている。信じているんだけど、信じている相手のことはよくわからない。こういうのはどうも頼りないし、つまらない」と思う人もクリスチャンの中にはおられることでしょう。しかし、人間同士の関係でも、人のことは完全に理解することなどできないし、しょっちゅう誤解しているのに、神さまのことなどほんの一部でもきちんと理解しているなんて思わないほうがいいのです。
  「これが正しい」と確信した瞬間、「この基準に当てはまらないものは間違いである」と言って人を裁くことになります。かくして、本人としては正しいことを主張しているだけのつもりが、相手にとってはただひたすらケンカを売られているだけという、悲惨な状況が出現します。客観的に見れば人の生き方やものの考え方にさんざんケチをつけてこきおろしているだけのくせに、本人の意識としては良いことをしているつもりであるという、とんでもない勘違いも起こります。というのも、宗教的確信というものは自己絶対化に直結しているからです。「あやまりなき規範」がこの世に見える形で存在する、という発想はたいへん危険なのです。

  
「私がどの宗教のどの教派に属していようと、あの人がどの宗教のどの宗派に属していようとも、あるいは何の宗教も信じていなくとも、すべての人びとに神さまは変わりなく愛をくださるのであり、神さまにとって宗教や教派や思想信条の違いや有無など、まるで問題ではありません。
  あの人が間違っている可能性があるのと同じくらいの可能性で自分も間違っているのかも知れません。ですから、私は人を裁いたり否定したりしないと同時に、私自身が裁かれず否定もされないことを望みます……」
と、唯一神教の信者ならそれくらいのことは言ってみてはどうかと思うのですが、いかがでしょうか。

〔最終更新日:2007年3月22日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる

 教会の玄関へ戻る