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 Q. クリスチャンは、占いなんかしちゃいけないんですよね?

A  「今日のわたしの運勢はベスト1らしいです。テレビで。私ヤギ座ですから。あ、でもクリスチャンって占いを信じちゃいけないんですよね? 神さまのことだけを信じるんであって、占いにはまったらダメだって教会で教えてもらいました」
B  「そうですよ。占いなんてものは悪魔のささやきに過ぎません。私たちは、ただ一人の御父なる神さまを信じて生きなければならないのです。ですから占いなどに心を支配されてはいけませんよっ!」
C  「いやあ、別にいいんじゃないですか? たかが占いでしょう? 遊び感覚でやるのだったら問題ないんじゃないですかねぇ」
B  「その遊びに心が支配されるから危険なんです。たかが占い、されど占いです」
C  「ハア、そうでしょうかねぇ」
A  「すいません私のことで。もう占いのことは忘れます。毎朝テレビに出てくるやつで、結構楽しみに見てたんですけどね……」

(常にときどき耳にする質問。上記の会話はフィクションです)

 A. いけなくはないけど、占いだけに頼ったり、のめりこむのはおすすめしません。

巷(ちまた)の占いは本気にしないほうがいいです


  もちろん世の中には、いい加減な占いコーナーや、どこまで信用していいのやらわからないような手相見や面相見がいます。
  テレビや雑誌で紹介されるような、星座による運勢ランキングや、血液型による性格診断とか、面白いけれど、どこまで本気であてにしてよいのやらわからないようなものばかりです。
  ですから、日ごろの話題に使うとか、自分で「今日はラッキーデイな気分♪」といったように気分転換に使ったりするのがよいのではないでしょうか。逆に「今日の運勢は最悪〜!」となってしまっても、たとえば何か本当にアンラッキーなことがあったとすれば、運が悪かったせいにしておけるし、その程度の便利な使い方であれば、巷の運勢占いは害がないのです。
  要するに、テレビや雑誌などに出てくるような、運勢占いや霊視とかスピリチュアルなんとかとか、そういうのは、適当に日ごろの話題程度に受け止めておけばいいのであって、本気で信じ込んでもなんにも得はない。むしろ害になるからやめておいたほうがいいでしょう。
  テレビというメディアに乗っているということだけで、「これはフィクションですよ」と言っているようなものです。本当に当たる本格的な運勢占いが出てきたらどうしますか? 本当に当たるのであれば、当たった事実に対して予言をした責任が生じてきます。霊視なども全部ウソです。本当の霊を取り扱うようなことになったら、テレビ局内部でも何が起こるかわかりませんし、そういうのはスタッフでも出演者でも誰でもコワイですから、「これはフィクションですよ」と確認できるものを放送しているのです。
  テレビや雑誌などに出てくる占いは、無責任であるというところが救いなのです。だから、受け取る側も、そう深刻に受け止めないで、軽い話題として流しておけばいいのです。そして、「昨日は最低だったけど、今日は最高だーっ!」と遊び感覚でおればよいのです。


しかし本物をあなどってはいけません


  ところが、それでは占いというのは、すべてがすべてインチキやまやかしかというと、そういうわけでもないのです。
  人間が今どういう状態にあるのか、そして将来はどうなるのか、神の意志はどこにあるのか、死んだ者の魂はどこでどうしているのか……そういったことを知る方法について、人類はさまざまな試行錯誤を繰り返しながら、いくつかの方法を編み出してきました。
  占いというものを考えるときに、心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875〜1961)がとなえた「同時性」(または「共時性」)という考え方が役にたちます。全てではないにしろ、いくつかの偶然の出来事のなかに、意味のある同時発生をするものがある、という考え方です。
  物事は原因があって初めて次の物事が起こる、というのが「因果性」というもので、こちらのほうが私たちの生活になじみがあるのですが、それとは別に、それぞれの出来事には何の因果もないのだけれども、同時に関係のある物事が起こる。そのような「意味のある偶然の一致」を「同時性」/「共時性」と呼んだのです。そして、物事と物事の同時性だけでなく、人の心のなかの出来事と外界の出来事の間にも同時性が起こりうると考えたのです。
  これを占いに応用して考えると、占いというのは、つまり、同時性の考えに従えば、単に、ある人がいま置かれている状況を、占いの結果という状況が、たまたま同時性によって同じ事を示している……というわけです。
  ですから、いま自分はどういう状況にいるのか、そしてこれからどのように歩んでゆくのか、深い問いを胸に抱いて、東洋では筮竹(ぜいちく)をしごいて一本取るというような方法をとったり、西洋ではタロットカードや占星術などが発展してきたのです。
  これらの方法を、キリスト教的ではないとか、唯一の神への信仰を妨げるものだ、とまで考える必要はありません。
  それらは、ただ同時性の性質によって、自分がいまどんな状態にあるのかを知るために使われるものです。同時性というこの世の不思議な法則をも神さまが創られたものだと思えば、恐れる必要はありません。
  ユングは中国の八卦をかなり深く研究していました。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の、あの八卦(はっけ)なのですが、自分の人生について深く問う者は深い答えを得、浅い問いを発した者は浅い答えを受け取るであろうとされました。また、自分の気にいるような結果がでるまで問い続けるような姿勢も、より答えからは遠ざかるものです。
  
  というわけで、伝統的な方法のなかには、それなりに説得力のあるものもあるのだということを忘れないでいたいものです。
  それは、自分がおかれている状況やこれからの可能性を知るための一つの方法に過ぎないのであって、「信仰の敵!」と目くじらを立てて抵抗すべきほどのものではありません。

  しかし、それでも心配だという人のために、聖書的な根拠も少しのぞいてみましょう。


聖書における占い

(1)原則的に占いは厳禁

  聖書によれば、占いはどのように取り扱われているでしょうか。
  旧約聖書では、「占い」は「ケセム」というヘブライ語で、旧約聖書の中に27回出てきます。
  その中には、たとえば……

   
■ヤコブのうちにまじないはなく
    イスラエルのうちに占いはない。(民数記23章23節)


 
  ■反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。(サムエル記15章23節)

   ■あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない。(エレミヤ書27章9節)


  などなど、いろいろ細かく文脈を読み込んでゆくと、その言葉だけを取り出して論議するのは問題があるような聖句もあるのですが、それにしても、これらの占いに関する言葉の大半は、占いを禁じたり、占い師にしたがわないように、と警告するものです。
  それらの中でも、特に次の言葉が、もっとも力強く占いなどの行いを禁じているまとまった聖句と言えるでしょう。

   ■あなたがあなたの神、主に与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋(たず)ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18章9−14節)

  これは、カナン地方(現在のパレスティナ地方)の先住民の間に広まっていた、イスラエル人の宗教とは違うさまざまな風習を、一切まねてはならない、という命令です。占いだけが悪いと言っているのではなく、占いを含む異邦人の全ての宗教的風習をまねてはならないと言っているのです。
  このことは、「ほら、だからイスラエルでは禁じられているだろう」といって片付けるられるほど簡単な事情ではありません。これだけしつこく「やめろ、やめろ」と言っているということは、イスラエルの中でも注意されてもされても占いの習慣がなくならなかったという事実を示しているとも読めるのです。


(2)だが、なにごとにも裏がある

  さて、原則的に占いなどは禁じられ、占い師や魔術師などは追放されたり処刑されたりしたのですが、それでも主なる神のご意志がわからなくなったとき、イスラエルの指導者の立場にありながら、つい占い師を頼ってしまったという場面も旧約聖書にはあります。たとえば、イスラエル王国初代の王、サウルがそうです。以下は、サウルが敵軍(ペリシテ人)と対決したときに、サウルが恐れをなしたという場面です。

  ■「サウルは主に託宣を求めたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。サウルは家臣に命令した。「口寄せのできる女を探してくれ。その女のところに行って尋ねよう。」家臣は答えた。「エン・ドルに口寄せのできる女がいます。サウルは変装し、衣を替え、夜、二人の兵士を連れて女のもとに現れた。サウルは頼んだ。「口寄せの術で占ってほしい。あなたに告げる人を呼び起こしてくれ。」女は言った。「サウルのしたことをご存じでしょう。サウルは口寄せと魔術師をこの地から断ちました。なぜ、わたしの命を罠にかけ、わたしを殺そうとするのですか。」サウルは主にかけて女に誓った。「主は生きておられる。この事であなたが咎(とが)を負うことは決してない。」女は尋ねた。「誰を呼び起こしましょうか。」「サムエルを呼び起こしてもらいたい」と彼は頼んだ。……」(サムエル記上28章6−11節)

  そしてこの口寄せの女(霊媒ですね)は、サムエルの死霊を見事に呼び起こし、サムエルはサウルに、「おまえは主なる神に見放されたんだよ」と教えてくれるという場面に続きます。
  これは、表向きは占いや霊媒を頼ることは禁じていても、イスラエルの支配者自身がそれをやぶって、占いにたよることがあった、という証拠です。「サウルは主に滅ぼされたじゃあないか。だからやはりダメなのだ」なんて言わないでくださいよ。占いに頼る前からサウルの運命は主なる神によって決められていたのです。そのような神の意志を、サウルは夢からでも預言者からでもなく、他でもない口寄せの占いによって知ったわけです。この場合の占いは、預言者の言葉などよりも神さまのご意志を知るためには有効だったというわけです。物事にはなんでも裏があるというわけですね。
  また、上に引用した物語の一部のなかで、
「ウリムによっても」(6節)という一節がありますね。この「ウリム」というものについては、あらためて説明させていただきます。


(3)合法的にやっていた占い:ウリムとトンミム

  「ウリム」と「トンミム」というのは、主なる神のご意志がどこにあるのかを知るために、祭司だけが行うことを許された、あのー、そのぅ……まぁ……なんというか……「占い!」あるいは「くじ」です。
  祭司の祭服の胸当て(エフォドといいます。スターウォーズのダース・ヴェイダーのコスチュームで胸にチカチカ光るモジュールが見えますね。ああいった感じの胸当てで、布と宝石でできていました)の中に入っていて、主なる神のご意志を知るために、そのウリムとトンミムという石あるいは棒を投げるのです。このことによって祭司は、イエス・ノー、あるいは二者択一の答を得るために、ウリムやトンミムを投げた結果を解釈するのが仕事のひとつでした。
  モーセは、自分の後継者であるとしてイスラエルの指導者となるヨシュアに、祭司がウリムとトンミムで占った結果にしたがって民を導くように、と命じました。 
  ■彼(ヨシュア)は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために、主の御前でウリムによる判断を求めねばならない。ヨシュアとイスラエルのすべての人々、つまり共同体全体は、エルアザルの命令に従って出陣し、また引き揚げねばならない。」(民数記27章21節)

  また、モーセは自分が死ぬときにも、遺言として、祭司の仕事を司るレビの子孫のために、ウリムとトンミムによる占いをすることを指示しています。

  
■レビのために彼は言った。あなたのトンミムとウリムを、あなたの慈しみに生きる者に授けてください。(申命記33章8節)

  つまり、モーセの時代(BC1200年ごろ)からサウル王朝の時代(BC1000年ごろ)までの間は、ウリムとトンミムは主なる神の意志を占うための、祭司の必須アイテムだったというわけです。異教の占いは断じて禁ずるが(とは言っても、旧約聖書のあちこちに占い師が登場しますから、じっさいには完全にやめることができていなかったのでしょうが)、主なる神の意志を知るための占いやくじはOKだという時代があったわけです。

  もっともサウルのあとを継いだダビデ王朝以降は、預言者の言葉によって王さまも意思決定するようになってゆくので、次第に祭司がウリムとトンミムを使う場面はなくなってゆき、バビロン捕囚などで国家が解体してしまってから、特に預言者によって神の言葉が語られるようになってゆくと、ウリムとトンミムは異教的なものの類だと見なされて排除されるようになっていったそうです。
  結果オーライで「ほら、最後は結局廃止されたんじゃないか」と言うのは簡単ですが、約200年近くという一定期間の間、合法的に祭司が占いで政策に関するご託宣を政治的指導者にアドバイスしていたというのは事実だし、それが使われていた間は、それが主なる神さまのご意志を知る正式な方法だと公的に認められていたことは無視できません。「モーセやヨシュアがやっていたことは実は異教的なものだった」などと、結果からさかのぼって言うのはおかしなことです。
  そうではなくて、「占いが必要とされた時代があれば、必要とされなくなった時代もあった」という風に理解したほうがよいでしょう。


(3)占いの霊にとりつかれる場合

  新約聖書のほうも見てみましょう。新約聖書では、占いに関しては一箇所だけ出てくるようです。

  ■わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女はパウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場に引き立てて行った。(使徒言行録16章16−19節)

  ここでも、結果論から言えば、占いはやめさせられています。
  ところが、無視できない事実がいくつかあります。まず、ここに登場する女奴隷の占いはよく当たっていたのだ、ということです。ハズレばかりの占いなら話になりませんが、この女性の占いはよく同時性をつかんで的中していたのです。そして、彼女が「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」(17節)とパウロたちのことを言い当てているのも、当たっているわけです。
  もうひとつ大事なことは、パウロは占いの霊に取り付かれた人を見るなり、すぐには霊を追い払ってはいないということです。言っていることは当たっているのだし、自分たちに悪い評判を立てているわけでもないし(パウロはもともとすごいキリスト教迫害者で〜とか、そういう都合悪いことは言ってない)。
  ただ、パウロはあまりに彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて(18節)占いの霊を追い出してしまったわけです。要するに、何日も何日もついてきて、わーわーうるさいから、「もういい、いいかげんにしろ!」というわけで、それだけの理由で霊を祓(はら)ったわけです。

  ここから学べることは、パウロたち初期のキリスト者たちも、占いだからいけないんだ、という風には対応していないということです。
  ただ、占いの霊にとりつかれて、毎日毎日そのことでいっぱいになり、占いのことばかりうるさく話して止まらないような状況になると、人に迷惑をかけることになるし、自分も不健康な状態になりますよ、ということもわかります。
  事実、占いにとりつかれてしまって、占いが当たるのはいいけれど、その代わりに自分の心のすべてがまるで占いの霊にふりまわされてしまったようになり、自分の生活をメチャメチャにしてしまう人も、現在の世の中でもおられるようです。
  そういう事態に陥ってしまったときに、イエスやパウロのように、霊を祓う力が強い人がすぐそばにいればいいですが、そうでなかったら、病院に行ったほうがいい、ということになります。
  占いをするときには、自分の理性がちゃんと働いている状態で占いに接し、その道のプロになるつもりでもないのであれば、深入りはしないほうがよい、ということになるのでしょう。

  
(4)聖書における占い(まとめ)

  というわけで、これまで聖書の中の占いを、ざっと概観してきました。
  聖書によれば、サラリと簡単に読み下すと、まるで占いをしてはいけないように感じてしまいがちですが、実際にはそう単純なものではありませんでした。
  むしろ、旧約聖書では、神の意志を知るために合法的に占いをやっていた時代があったこと、また法的に禁じられてからでも、どうしようもないときには占いに頼った事例があったこともわかりました。また新約聖書では、占い自体が悪いのではないけれど、理性を失うほどに深入りしてしまうことがあるから気をつけなさいよ、ということを読み取ることができました。

  というわけで、占いはクリスチャンにとって、一方的に悪いもので罪深いものだという思い込みはやめてもいいようです。
  ただ、何事もほどほどにしましょう、ということで。

〔最終更新日:2006年6月2日〕

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