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 Q. クリスチャンってとっても偽善者っぽくないですか?

  キリスト教は嫌いです。なんだか偽善者っぽいというか。本気で神さまとか愛とか信じているんでしょうか?
  人間は結局自分のことしか考えていないんじゃないでしょうか。人を愛すると言ったって、結局は人間自分のことしか考えていないんじゃないでしょうか。結局自分が大事、それが人間です。本気で愛とか信じているなんて、そういう人間の実態がわかってない人の妄言だと思います。まぁ本人たちがそれで満足してやってるぶんには、本人たちの勝手だからいいとは思いますが……。

(いつでも事あるごとにぶつけられる質問より)

 A. 偽善者にさえなれない人よりはマシです。

「クリスチャン=偽善者」の固定観念


  日本では、クリスチャンはよく「偽善者」と呼ばれて軽蔑されます。
  これは日本特有の現象かも知れません。なぜなら、日本ではクリスチャンは圧倒的少数派であり、珍しい存在だからです。国民のほとんどがクリスチャンだという国でしたら、慈善団体に寄付したり、ボランティア活動をする人はもちろん、殺人犯や強盗でも、みなクリスチャンということになります。ですから「クリスチャン=偽善者」という図式は成り立たないのです。
  しかし、日本ではクリスチャンは圧倒的少数派です。クリスチャンがどういう人びとであるかということを、多くの人が知りません。その代わり、なんとなく清らかで、どこかお高くとまった、愛の宗教というイメージだけは広まっています。
  クリスチャンという世間では珍しい人たちは、どうやら「愛の宗教」を信じているらしい。フン、愛だ愛だといっていても、しょせんは人間のやることに純粋な他者への愛なんかあるものか。結局、本人たちも自己満足でやっているに違いない。自分に全く利益のない行為など人間ができるはずがないだろう。だからクリスチャンと呼ばれる連中はきっとそういう人間の実態がわかっていないノーテンキな偽善者に違いない……。
  そのようにして、日本では「クリスチャン=偽善者」という固定観念ができあがってしまっているのではないでしょうか。


人は誰でも偽善者になる

  クリスチャンであるかないかに限らず、「善人でありたい」と思う人は社会の中に一定数は存在します。
  「善人でありたい」というのは、他人から善人であると見られたいか、自分で自分のことを善人であると思いたいか、いずれの場合であれ(あるいは両方であれ)、善行をすることによって、自分が満足したい人間だということです。
  どんな善行をしたとしても、このような自己満足があるかぎり、純粋に他者のための愛ではなく自分への愛があるのですから、それは偽善的な行為であると言うことができます。
  この偽善的な自己満足の要素を全く抜いて何かをしようとすることは大変むずかしいことです。そんなことは無理かも知れません。
  おおかたの人間にとって、全く偽善的な要素を消し去って善行をするなどということは、不可能なのではないでしょうか。
  逆に言うと、クリスチャンに限らずどんな人間でも、「これは善いことだ」と思って何かをしたと同時に偽善者になってしまうのではないでしょうか。
  クリスチャンであるかないかに関わらず、「善行をする人=偽善者」、「善行=偽善」ということは言えるかも知れません。


「偽善者になりたくない」と言う人びと

  しかし、ことごとく人間の行う善行=偽善であったとしても、それのどこがいけないのでしょうか?
  「偽善者になりたくないから、自分は何もしない」というのは、欺瞞に満ちた幼稚な理屈です。
  聖書の中にも、イエスが偽善にまつわる欺瞞を暴いたエピソードが記されています。

  見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
  だからあなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイによる福音書6章1−4節)


  これを読むと、一見イエスは単純に偽善を嫌っているように思えます。
  しかし、偽善を嫌う人というのは、往々にして「だから自分はそういう善行はしない」という態度を決め込むものです。
  イエスの言葉は、そういう「善行をしないことの言い訳」として偽善者を引き合いに出す人びとにも向けられているのです。
  「そうでしょう、そうでしょう。偽善者にはなりたくないですね。偽善者にならないようにしましょう。偽善者にならないためには、人目につかない隠れたところで善行をしなさい」とイエスは言います。
  イエスは善行をしたり、貧しい者に施しをすること自体は否定していないのです。むしろ、「偽善者になりたくないから」と言ってそのような善行から逃げる人間に対しても、「どうぞおやりなさい、隠れたところで。そうすればあなたも偽善者にならずに済みますよ」と勧めているのです。
  このような問いかけをすることでイエスは、善行をしない理由として「偽善者になりたくない」と言う人びとの本性を暴いているとも言えます。「こうすれば偽善者にならずに善行ができますよ」と勧められたところで、このような人びとはおそらく善行はしないでしょう。「偽善者になりたくない」というのは、ただの言い訳であって、本当は面倒だから善行などしたくないからです。それくらいのことは見抜いてイエスは言葉を発していたでしょう。


偽善者にさえなれないような人間にはなるな

  先ほども一度述べたように、「人は何か善行をするとき、すでに偽善者である」と言うことができます。
  人がどんなに他者のために働こうとしているつもりでも、そして、何らかの報酬や感謝を全く期待していなかったとしても、そのような自分の姿に対するナルシシズム的な自己満足は残るわけですから、最後まで人間は自己愛から解放されません。
  しかし、人間とはそういうものだ、と知るところから始めるのも悪くはありません。「偽善であってもいいではないか。人は偽善しかできないんだから」という考え方をしてもよいのではないでしょうか。

  イエスはこういう言葉も残しています。

  「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコによる福音書12章31節、ほか)
  「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節、ほか)


  人間が自分を愛するというのはごく当たり前のことです。そのように自分を愛することをイエスは否定しません。むしろそれを前提にして、「自分を愛するように、他の人も愛したらいいんだよ」と言っているわけです。
  他の人を愛することが、結局は自分を愛することにつながっていたとしても、そんなことはわかりきったことなのです。むしろ人間は、自分の喜びにつながっていないと、他者を愛することなどできないような生き物かもしれないのです。
  しかし、逆に言えば、たとえ自己愛や自己満足から出ることができなかったとしても、他者を大切にしたり、他者のために何かをする、ということが私たちにはできます。たとえ偽善でも、あなたが貧しい人や災害被災者のために寄付をすれば、あなたが偽善者であろうがなかろうが、そういうことに関係なく、あなたの募金は誰かの役に立ちます。たとえ偽善でも、あなたがお年寄りに席をゆずれば、あなたが偽善者であろうがなかろうが、そういうことに関係なく、助かるお年寄りがいます。
  人間のやることはことごとく偽善ですが、それでも、他者のためにわたしたちは何かをすることができます。動機が偽善でも、効果は同じなのです。
  「偽善者になりたくない」という言葉を隠れ蓑にして怠慢を決め込んでいる人は、「偽善者にさえなれない」のです。
  どこかのボランティア・サイトでは
「やらぬ善より、やる偽善」という言葉が流行していたそうです。まさに「やる偽善」のほうが、人の役に立つのです。


実は自己愛が大事

  加えて、善行というものは、「こうしなければならない」という義務感や使命感で無理なことをやるよりは、「これが自分のしたいことだから」という動機でやるほうがうまくいく、ということは言えると思います。
  昔からあることわざに、
「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けをかけることは、めぐりめぐって自分のためになることになって返って来る、という意味です。また、めぐりめぐってこなくても、「人のためにやっている」というよりは最初から「自分のためにやってます」と言う方がさわやかでいい場合が多いのです。
  ボランティアや慈善行為というものも、「あなたのために」とやられると、かえってイヤミになることがよくあります。むしろ、やる側が自分の利益や楽しみにつながるような形でやったほうが、気持ちがいいし、長続きもするのです。


  というわけで、クリスチャンを偽善者呼ばわりする人びとは、「クリスチャン=心底から人を愛そうとしているおバカな人びと」と誤解しているようなのですが、いやなに、クリスチャンでも結局は自己愛から行動しているのはわかりきった事実です。しかし、自分が偽善しかできないからと言って、悩んでも仕方がないから悩まないのです。クリスチャンであるかないかに関わらず、人間はなにか善を行えば必ず偽善者なんですから。
  むしろ、自分がそんな偽善者に過ぎないことを自覚して、「そんな偽善的行為でも誰かの役に立てばありがたい」と考えて生きるほうが、「偽善者になりたくないから」というつまらない理屈で善を行うことから逃げる怠慢な人びとよりマシです。また、「これは自分のためにやってますから」と言いつつ善行を行うほうが、善意を受ける側の人も気持ちが楽だし、努力が報われなかったときでも腹立たしく思わなくて済むのです。
  人間は偽善者でしかありえないし、偽善者でよいのです。人を偽善者呼ばわりする人は、そこまで深く考えていません。もしあなたが人から偽善者呼ばわりされても、「幼稚だな」と思って気にしないことです。

〔最終更新日:2005年12月30日〕

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