「母親がクリスチャンなんですが、結婚相手はクリスチャンでないといけない、言ってゆずってくれません。クリスチャン以外の人との結婚は聖書が禁じている、というのですが、本当なんでしょうか。実は、お付き合いしている人がいるのですが、この人はクリスチャンではありません。彼がクリスチャンになってくれたら結婚を許してもらえるのかも知れませんが、そのために洗礼を受けるのもなんだかなぁ、という気がしています。どうしたらいいのでしょうか」
「3年間付き合った彼と結局別れてしまいました。最終的には宗教上の信仰の問題だと思います。彼は私に洗礼を受けて欲しかったのだと思います。しかし、私はどうしても最後のところで、決断に踏み切ることができませんでした。結果的に別れてしまったのですが、どこか割り切れない思いが残っています。キリスト教では信者ではない人間との結婚は許していないのでしょうか」
(たびたび受けるお問い合わせより再構成)
■聖書が禁じているわけではない
聖書のなかで、クリスチャンとクリスチャン以外の結婚について述べているのは、パウロによる手紙、コリントの信徒への手紙(一)7章12〜16節でしょう。
ただし、ここはクリスチャンとノンクリ(ノンクリスチャン:クリスチャン以外の人)の結婚がいいとか悪いとか述べているのではなく、すでにそういう結婚をしている人が離縁するのがいいか悪いかということを書いてあります。それはなぜかというと、パウロという人は、「もうすぐこの世の終わりがやってくる!」と真剣に信じていた人なので、これから結婚しようかという人たちのことは、あまり真剣に問題にしていないのです。むしろ「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」(同7節)というように、結婚そのものに否定的だったのです。
しかも、彼が生きていたのは、まだまだ誕生したばかりのキリスト教が広まっていく過程にあった時代です。だから彼がクリスチャンとノンクリの結婚について述べる場合は、すでに結婚している夫婦のうち、片方がキリスト教に改宗した、というようなパターンに限られているのです。
きっと伝道者パウロのところには、片方がキリスト教に改宗したけれども、もう片方がいっしょに改宗してくれない、こんな配偶者とは離縁するべきだろうか、などという相談が持ち込まれていたのでしょう。彼はこんな風に語るのです……
「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。
また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。
なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。
そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。
しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るに任せなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。
妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。
夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」(コリントの信徒への手紙(一)7章12〜16節)
……彼によれば、クリスチャンとノンクリは、別れる必要はない、むしろ一緒に生活したいと願うのなら、その願いのほうが大事だということなのです。
しかし、別れたほうがお互いに平和であるなら、別れてもいいのだ、ということなのです。
よくクリスチャンがノンクリと結婚するときにかけられるプレッシャーで、「がんばって、相手を教会に引き込んだらいいのよ」などというものがありますが、そういう「伝道心」にあふれたビジョンに対しても、パウロは冷ややかなようです。
「妻よ、あなたが夫を救えるかい? 夫よ、あなたが妻を救えるかい?」(16節)
しかし、まぁクリスチャンとノンクリの結婚を、聖書が禁じているというわけではなさそうです。大事なのは、「平和な生活を送るように」(同15節)ということであって、それ以外の問題(相手がクリスチャンであるかないか、など)ということには、こだわる必要はないようです。
■クリスチャンどうしなら幸せとは限らない
一般論的には、同じ信仰を持っているということは、夫婦の間でよく理解しあううえでは、大切なことだと言うことはできます。
特に日本のように、クリスチャンの人口が圧倒的に少ない国では、クリスチャンであるということだけでも、じゅうぶん「変わった人」扱いを受けます。なかなか自分の信仰を理解してくれる人に出会うことは簡単なことではありません。ですから、同じキリスト教を信じるクリスチャンと出会い、その人と結婚できたならば、クリスチャン以外の人と結婚するよりも、お互いに「自分のことをよく理解してくれる人」といっしょに暮らすことができるわけですから、それがいちばん望ましい……と一般論的には言えるでしょう。また、実際にそうやって幸せに暮らしておられる方もおられるのでしょう。
しかし、一般論はあくまで一般論であって、例外は常に存在します。というより、現実の暮らしというものは、例外だらけなのです。
クリスチャン同志の結婚であればいつも幸せでいられるかというと、そうでもありません。
たとえば、同じ教会に通うクリスチャンどうしだった場合、お互いに若いうちはそれほどでもなくても、だんだん歳をとってくると、教会の中でも責任のあるポジションを占めるようになってきたりします。
すると、教会にとってある重要な意思決定のときに、夫婦の意見が食い違うなんてこともありえます。
職場の人間関係なら、職場での対立は、職場を出ればとりあえず逃げることも忘れることもできますが、夫婦で教会など通っていて、その教会で意見が対立したりなんかすると、その対立は家庭の中にまで持ち込まれてしまうことになります。すると、家庭がやすらぎと癒しの場所になるどころか、全く逆に緊張と対立の場所になってしまうのです。
だからダメになるというものでもないとは思います。しかし、「二人で祈って、ハイ、教会での対立は、家では忘れましょう」とキレイに精神衛生の管理ができるほど大人であれば、問題ないでしょうけれど、誰もがそう大人でもないでしょうから。
でも、もっと悲惨なのは、家庭で起こった夫婦げんかが、日曜の朝までに収まらなかった場合ですよね。
そもそも結婚と言うのは、新婚当初のスタートラインが最もテンションが上がりきっているのであって、そこからはだんだんと下がってくるテンションをいかに維持するかしかないのです。
教会生活、信仰生活に関することでなくても、経済的なこと、お互いの仕事のこと、お互いの結婚外の人づきあいの仕方、子どもの育て方、余暇の過ごし方、老後の迎え方、などなど……あらゆる局面で意見が食い違ったり対立したりするようになるものなのです。違う人間が寄り添って暮らしているのだから、もうそれは仕方のないことなのです。
この食い違いを、妥協するか、勝負するかして、なんとかやりすごして、現実の夫婦というものは年数を重ねてゆくものなのです。どうしても、対立点で妥協が見いだせなければ、死ぬまでケンカするか、離婚するかしかありません。しかし、たいていの夫婦は、うまく妥協点を見つける、あるいは「これ以上言っても仕方がないね」とあきらめるなりして、いっしょに暮らしているわけなのです。
教会生活に関することでも、他のことでも、お互い妥協点を見つけていかないと、いっしょに生きてゆくのは困難です。
やがて、二人は適度な距離を保ちながら生きてゆくということになります。
同じ教会に行っていたとしても、礼拝では別々の席に座ったり、あるいは教会に行くために家を出る時間までまちまちだったり。まぁだいたいそうやって適当に離れているクリスチャン夫婦はよく見られます。
■「同じであること」より、「違いを認め合うこと」を
内面的な信仰のあり方についても、最初は「同じクリスチャンだ」と思って喜んで結婚しても、長年生きているうちに、互いの内面も変化したり、成長したりしますから、細かい部分で次第に違いが生じてきてしまったとしても、それは不思議なことではないのです。
ということは、スタートラインで、あまりに「同じであること」に喜びすぎると、歳をとるにつれて次第に変化し、食い違いが生じてくるお互いの姿に、失望や挫折ばかり感じるようになってしまうのです。
事柄が「唯一絶対の神さま」への信仰という問題ですから、その信仰の仕方がズレている、ということは、「同じであること」にこだわる人にとっては、大変ツライことになってしまいます。「同じ神を信じているはずなのに、どうして、君とぼくはこんなに理解し合えないんだろう」と悩み苦しんでしまうことになるでしょう。
とにかく、「同じ神さまを信じていたとしても、神さまへのアプローチは人それぞれ」ということを認識しておかないといけません。
神さまというお方は、人間ひとりがとらえきれるような小さな存在ではありません。また神さまはどこにでも、あらゆる形に姿を変えて存在される方です。だとすれば、ひとりの人間に把握できることなど、神さまのほんの一部分でしかありません。ですから、ひとりひとりの人間がとらえた神さまのイメージが食い違っていても、それは当然なことなのです。
クリスチャンどうしの結婚というのは、「信仰が同じ」という思い込みから始まるだけに、その後の変化においてかえってリスクが高いと言えるかも知れません。クリスチャンどうしの結婚で大事なことは、「同じ神さまを信じているのだけれど、それぞれの信仰のしかた」があることを、互いに認め合うことなのではないでしょうか。
結婚とは「違う人間がいっしょに暮らす」という行為なのですから、大切なのは「同じであること」よりも(それが大事ではないとは言いませんが、それよりも大事なのは)、「違いを認め合うこと」なのです。まぁ、これは誰と接するときでも同じことなのかも知れませんが、しかし、結婚というのは、他の人間関係とは違って、ものすごい「至近距離」で他人と生活する行為なのですから、なおさら「違いを認め合うこと」が大事なのです。
お互いがいかに違うことか、と笑い合えるようになれば、それが一番平和で喜ばしい夫婦の姿であると言えるかも知れません。
■ノンクリと結婚してつらいこと
クリスチャンでない人と結婚して、つらいことと言えば、よくあるのは、クリスチャン女性が夫や夫の家族から「せっかくの休日なのに、家を放り出して出て行くのか」と拘束されて、教会に行きにくくなる場合です。そのような危険性を避けるためだけにでも「クリスチャンと結婚したほうがいい」と勧めてくださる方もおられるでしょう。
そのような相手と結婚しなければならなくなった場合、あるいは、結婚してから拘束されることに気づいた場合、教会に行きたいけれども、なかなか行けないという状況が起こることは考えられます。
それは、結婚してからクリスチャンになった女性の場合も同じです。夫が自分の妻の変化についていけない場合があったりするのです。
この場合も、「違いを認め合う」ということを、いかに夫婦の間で実現してゆくかということに尽きるのでしょうが、「違いを認めなさい」と力んで迫ると、かえって険悪なムードになってしまって、家庭の平和が失われてしまうことも考えられます。
こういう場合は、持久戦しかありません。ゆっくりと時間をかけて、夫の自由を認めてあげる代わりに、自分の自由な時間を確保するという風に、駆け引きを少しずつ進めてゆくしかないでしょう。
若いころはベッタリでも、歳をとればそうベタベタといっしょにいることが好きなダンナも少なくなるだろうから、だんだんと自由な時間も増えるものです。子どもも大きくなれば手が離れてくるし、体力を温存して、歳をとってから自分の自由を謳歌することを、図太く腰をすえて計画したほうがいいのではないでしょうか。
■相手がクリスチャンでなくても全然かまわない
ホンネを言ってしまえば、「相手がクリスチャンでないから助かってるよ」という人もいるのです。
「教会でせっかくお友だちと楽しくやっているのに、そんなところにノコノコとダンナが顔を出しに来て欲しくないわよ」、と言うクリスチャン女性を知ってます。
あるいは5人家族全員がクリスチャンだけど、「みんなバラバラの教会に行っているよ」、と言う知人のクリスチャン男性もいます。
結婚して何十年と言うベテランになってくると、夫婦の間でも、それぞれの活動範囲がはっきりしていて、お互いにそれを尊重し合ってそれぞれの楽しみを持っている場合がよくあるものです。それが教会である場合もあるわけで、せっかく自分にとって居心地のいい人間関係などの環境を作り上げてきたのに、そこには干渉しないでね、というくらい精神的に独立している夫婦もあるわけです。それはそれでいいことではないでしょうか。
……というわけで、課題は結婚という相互束縛のなかで、いかに個人の自由を勝ち取るか、いかに互いに相手の自由を認めるか、という話になってしまいますね。
最初から「違う人間である」ということを認めさせるという意味では、ノンクリと結婚するほうがよかったりする場合もあるのですよ。人生はいろいろですね。「こうでなくてはいけない」なんてことはないのです。
もう一度、パウロ先生のお言葉を引用しましょうか。
「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。
夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」
(コリントの信徒への手紙(一)7章16節)
〔最終更新日:2005年10月7日〕
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