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 Q. キリスト教に「おはらい」ってありましたっけ?

 同僚のAさん 「最近ねー、あたし、悪いこと続きなんですよー」
 私  「へえ、どんな?」
 A  「どんなって、まぁ本当にいろいろ、なんで私ばかりにこんなに不幸なことが、って感じで」
 私  「事故ったりとか?」
 A  「ああ、あたしまた事故ったんですよ!」
 私  「ええ?! また!」
 A  「そう。他にもいろいろ。それでねー、この休みにでもお祓いでもしてもらいに行こうかなーって思ってるんですよ」
 私  「いつも思うんだけど、そういう時って、どうしてみんなぼくに声をかけてくれないのかなー」
 A  「へ? キリスト教ってお祓い、あるんですか?」
 私  「あるよ(キッパリ。でもちょっとハッタリ)」

(2002年5月2日に職場の同僚と交わした会話より)


 もう一人の同僚Bさん 「ぼく、このズボン履いているとろくなことが無いんですよ」
 私  「へえ、お祓いでもやったげよか?」
 B  「え? やってもらえるんですか?」
 私  「やるよ、今日やろうか」
 B  「ありがとうございます。でも、キリスト教ってお祓いってやるんでしたっけ……」
 私  「まぁ正直言ってあんまりやってる教会ないけど」
 B  「ですよねぇ。いいんですか」
 私  「いいよ、やろうやろう。ぼくがやると言ったらやる。だってイエスだって毎日やってたんだよ」

(2002年5月29日に職場の同僚と交わした会話より)

 A. ありますよ。してあげましょうか?

本来どこの教会でもやっていておかしくない


  「お祓い(おはらい)」ねー。日本の教会ではやってるところを見つけるのはたいへんでしょうね。というか、世界中の教会でも、いまでは実際にやってるのを見つけるのは大変だと思います。
  でも、例えば、映画『エクソシスト』というのは、カトリックの司祭さんが悪魔を追い払おうと奮闘する話ですし、じっさい「エクソシスト」という言葉は「悪魔払い師」という意味です。司祭さんの仕事の中には、ちゃんと「悪魔払い」というのが含まれているんですね。
  (英語で「悪魔払い」は「エクソシズム」、それをやる人が「エクソシスト」ですね)
  イエスだって、何度も「お祓い」してますよ。
  マルコによる福音書では、イエスが一番最初に行う奇蹟が、汚れた霊に取りつかれた男をいやす行為でした(5章21-28節)。
  また、イエスの弟子の中でも、特に存在感が目立つ女性、マグダラのマリアも、イエスと出会ったときに「7つの悪霊」を追い出してもらい、どうもそれがきっかけでイエスの弟子になったようです(ルカによる福音書8章2節)。
  だから、イエスに従うキリスト教会がもっとひんぱんに病気治しや悪魔払いをやっていてもいいはずです。しかし実際には、一部のそういうことに熱心な教派はともかく、ほとんどの教会ではお祓いは行われていません。


信じる者が救われる?

  というのは、「悪魔」とか「悪霊」とか「厄」というものを、リアルに感じるムードが、私たちの時代、とくに文明国と呼ばれるエリアでは急速になくなってきてしまったからです。「悪魔」とか「悪霊」とか「厄」というものの現実味がなくなってきているから、それを「はらう」という感覚も薄れてきているのです。
  上田紀行さんの『スリランカの悪魔払い』という本が一番わかりやすいと思いますが、スリランカでは今でも地域によっては悪魔払いがじっさいに行われており、祈祷師も存在しています。そして、悪魔払いの儀礼を行う事で、本当に病気が癒され、治っています。それは癒す側にとっても癒される側にとっても、「悪霊」という存在がリアルな現実だからです。
  イエスの時代、つまり2000年前のユダヤ地方では、本当に病気が治ったはずです。なぜなら、患者も医者も、すべての人が今風の「たとえ」で言っているのではなく、本当に実在する本物の「悪霊」が取りついたと思っていて、医者は患者の中の悪霊と話し、儀礼を行い、交渉し、あるいは争って、最終的には患者から出て行ってもらう
。と、そういうことをリアルに感じながらやっていたわけですから。それは、そこにいる人たち全員にとって「現実」なのですから。ですから、確実にお払いは効きます。
  しかし、「悪魔」「悪霊」とか「厄」というものを本気で信じず、なにかのたとえであるとか象徴であるとか合理的に理解できるような説明をはじめると、もうこういう癒しの現象というのは起こらないんですよね。
  日本ではまだ「厄払い」というのは風習としては生きていますが、それでも効力が弱くなってきているように感じるのは、「しょせんは気休めかも知れないけど」という気持ちが強くなってきているからかも知れません。
  ましてや、「悪魔」なんて全然日本人には実感がないわけですから、払おうにも払う対象が感じられてないわけで。したがって日本のキリスト教会では悪魔払いのようなものをやれないわけです。悪魔を払うためには悪魔の存在を信じていないといけない。


プラシーボ効果

  ただの塩を錠剤の形に固めたものを、診断結果に応じた効能をきちんと説明して飲ませると、その錠剤が効能を発揮することがある、という実験結果があります。有名な話なのでご存知の方も多いと思いますが、これを「プラシーボ効果」と言うそうです。
  薬は、「これは薬だ」と処方する方も飲む方も思っているから、効く。少なくとも飲む方が「効く」と信じてくれていれば、効く。しかし「これはしょせん塩の固まりだ」と知ってしまうと効かない。人の心とはかくも不思議なものです。
  現代人は、「悪魔」や「悪霊」、また「神」「奇蹟」を信じられなくなった代わりに、「医学」を信仰するようになった、とも言うことができるわけです。
  とすると、なんでも科学的に暴露すりゃあいいってもんでもない、ということも言えます。「知らぬが仏」ではないが、知らないで悪魔を信じていた方が、病気が本当に治るのなら、スリランカで悪魔払いを続けている人たちにとってはそのほうがいいではないか、と考える事もできるわけです。
  そして逆に、たとえば今の日本のように、医療の世界に対する不信感が広がっている状況では、逆に科学的には効くはずの薬が、患者側の心理状態によっては効かないというケースも出てきても不思議ではありません。


あなたの信仰があなたを救う

  だから、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」(マタイによる福音書9章22節他)と言ったのは、実はたいへん的を射ているのです。神も悪魔も、癒しのパワーも、信じることができない人には何の効き目もないからです。
  マタイによる福音書では、物語の構成が活動内容別にわりあい整理されているので、悪魔払いや病気治しの活動がまとめて列挙されていてわかりやすいのですが、たとえば
8章から9章の一連の癒し物語を順番に見ても……

  
8章2節では、患者はイエスに対して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、まず信頼がある。
  
8章10節では、百人隊長をイエスが「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とほめている。そして、「あなたが信じたとおりになるように」(13節)と帰している。
  
8章29節では、悪霊にとりつかれたガダラの人が、「神の子よ、かまわないでくれ」と叫んでいるが、こういうことはイエスが神の子だと信じているから言える。
  
9章1−8節の中風の人を癒す話では、並行記事のマルコによる福音書2章5節に、「イエスはその人たち(中風の人を屋根からつり下ろした人たち)の信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」とある。
  
9章22節では、イエスがある指導者の娘を癒す際に、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言っている。
  
9章28節では、二人の盲人を癒す際に、イエスが「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった」とある。

  ……というわけで、信じる・信じられるという関係があってこその、癒しのわざであるということがおわかりいただけるでしょうか。
  そして、「信じる」ことが癒しの効果を引き出すというのは、対象が奇蹟の治癒を行う聖者でも、新開発の特効薬であったとしても、同じ事なのです。もっとも薬の方が物理的・強制的に影響をおよぼすわけですから、その効果は目立つでしょうけれどね。

  
マルコによる福音書1章34節の報告も興味深いです。
  
「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」
  いかに古代の人々が、そしてこれを書いている著者自身が、悪霊の実在と言うものをリアルに感じていたか、伺えるでしょう?
  しかし、たとえば人々がイエスに対して信頼感を持っていないところでは、彼は奇蹟を行えないのです。
  
「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6章5−6節)
  ……やはり、信じる心がないところには奇蹟は起こらないのです。
  ですから、
「奇蹟を見てから信じよう」というのは絶対にありえないのです。「信じているから奇蹟が起こる」のですから。「奇蹟を見たら信じてもいいんだが」と思っている人は、絶対に奇蹟を見ることはできないのです。


おはらいのおすすめ

  ですから、私はいつでもあなたのためにおはらいの祈りをあげてあげますよ。
  あなたが、心から神さまに助けていただきたいと願い、そして神さまに取り次ぐ私を信頼してくれるならね。

  ちなみにこのコーナーの冒頭の質問者であるBさんのために、本当に私の職場の学校の小チャペルで、「おはらい小礼拝」を行いました(2002年5月29日)。当日は、ひょっとしたら、ぼくとBさんのふたりっきりになっちまうんじゃないかと思ってたんですが、たまたま私のオフィスに遊びに来ていた中学生や高校生が有志で参加してくれて、オルガンまで弾いてくれて、総勢10名くらいの、なかなか可愛らしい、しかし雰囲気のいい礼拝を守ることが出来ました。
  下にその礼拝式次第をご紹介しておきます。即席で作ったので、まだまだ改良の余地がありますが、日本人の宗教的ニーズというのはこういうものなのですから、これに応えてゆくのも、日本の宗教者の責任ではないか、と思いますよ。


【おはらい小礼拝】 2002年5月29日
 趣旨……履くと不吉なことが起こるというズボンにおはらいを行い、不幸を遠ざけ、幸福を呼び寄せる心が得られるよう祈願する。

〔式次第〕
黙祷
讃美歌 312番
聖書   詩編91編1−16節
主の祈り
聖書   ヨハネによる福音書8章31−32節
おはらい祈祷
   主よ、感謝いたします。
   今日いのちが与えられ、生きていることを感謝いたします。
   私たちに与えられている恵みを感謝いたします。
   私たちが受けている試みを感謝いたします。
   主よ、○○○○の心を解き放ってください。このズボンにとらわれている心を自由に解き放ってください。
   このズボンに不幸を見いだしてしまう彼の心を、目覚めさせてください。
   主よ、○○○○の心に、不幸を遠ざけ、幸福を呼び寄せる力を宿らせてください。
   主よ、彼に明るく強靭な光のような心を与えてください。
   ○○○○の毎日のくらしを守り導いてください。
   彼がいま抱いている企てを、御心にかないましたら、かなえてくださいますように。
   この感謝と願いを、イエス・キリストの御名によってお献げいたします。
   アーメン。

宣言
   もうこのズボンには呪いがかかっておりません。
   この二度とこのズボンを見てと不幸を見いだすことがありませんように。
   アーメン。

聖書   マタイによる福音書7章7−11節
頌栄  541番
祝祷
黙祷(後奏でもよい)
  

〔最終更新日:2002年5月30日〕

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