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 Q. キリスト教では結婚相手以外にエッチしちゃいけないんですか?

 質問者 「結婚前にセックスをしてもよい、とおっしゃっておられましたが、結婚外についてはどのようにお考えでしょうか。したかったらしてもよいとお考えでしょうか」

 質問者 「イエスは確かに姦通の罪を犯した女性を赦されました(ヨハネによる福音書8章1−11節)。でも、最後に「これからは、もう罪を犯してはならない」とも言っておられます。やはり、結婚外のセックスは罪なのではないでしょうか」

 三十番地教会の牧師 「してもよい、とまでは言うつもりはありません。でも、する人を止めることはできないでしょうね。する人はするのです。そして、した人を一概に裁くことも意味がないと思います。お怒りを承知で申し上げますが」

(2001年10月にメールでいただいた質問より)

 A. おすすめはしません。でも裁くことはできません。

  結婚相手以外の人と性的な関係を結ぶことを「姦淫」または「姦通」と言います。
  
この「下世話なQ&Aコーナ」の、他の項目をごらんになっている方は、「この三十番地教会の牧師だったら姦淫もOKだろう」と予想されるかも知れませんが、この問題に関しては「しないに越したことはありません」というのがお答えです。
  ただし、すでに婚外の交渉を経験した人に「それは罪なのだ」と声を荒げるつもりもありません。

(1)なぜ、おすすめしないのか。

  結婚というのは、ロング・ライフ・パートナーになる、つまり、永い人生を一緒に生きていこうとお互いに約束することです。
  
姦淫/姦通は、この関係を破壊する可能性が高い。あるいは関係そのものの崩壊のしるしです。ですから、姦淫はおすすめできません。
  相手にバレなければよいではないか、と言う人もいるでしょう。しかし、バレる、バレないに関わらず、相手を裏切る行為をしていることは事実ですから、表面的にはともかくその結婚相手との
関係の内実は崩壊していることになります。バレないようにするということはウソをついているわけですから、二重に崩壊しているとも言えるかも知れませんね。そしてウソをつくということは、自分の中に秘密と矛盾を抱え込む事ですから、あまり健康な精神状態でもありません。
  もっとも、結婚外のセックスをお互いにオープンに容認し合う、あるいはパートナーが自分以外の人とセックスをしても、ぜんぜん傷つかないし、気にもならないわ、という考えの間柄ならば、婚外の性交渉があったからといっても裏切りにはなりませんね。その場合は問題ないんでしょう、きっと。
  しかし、じっさいにはそういう人はまだ少ないと思います。人によって程度の差はあれ、セックスというものは、格別に親密な関係を結ぶことだという感覚をお持ちの方が多いのではないでしょうか。自分の結婚相手が別の人と性的な関係を結ぶということに深く傷つく人は多いと思います。そのように相手を深く傷つける行為を積極的におすすめしたいとは思いません。


(2)なぜ、裁かないのか。

  ただ、まだしたことのない人には「やめておきなさい」と言う事ができますが、既に行なってしまった人に「それは罪だ」とか「裁きを受けるぞ」とか言ったところで、何の意味もありません。裁く側が「私は正しいことを言っている」と自己満足するだけのことです。
  
また、たとえば夫婦のどちらか一方が姦淫をしたとして、その「実行犯」である一人を一方的に責めても仕方がありません。もともと本質的に崩壊してしまっている愛情関係に耐えられなくなって、姦淫におよんでしまったという場合も考えられます。その場合、姦淫という具体的な行為は、単なる目に見える結果に過ぎません。もっと目に見えないところで、夫婦関係の破綻の原因がある可能性もあります。目に見える結果的な行為だけをとり上げて、片方だけの責任であるとは言い難い場合も多いのではないでしょうか。
  目に見える形で何が罪であるかを判定することにとらわれると、そのような目に見えない本質的な部分を見失うのです。
  ですから、より大切なことは、夫婦生活を営んでいる者ひとりひとりが、
「私の愛は本物といえるだろうか」「私たちは本当に心から偽りなく愛し合っているだろうか」と、自問することの方ではないかと思うのです。



(3)聖書によれば

 @相手が一人とは限らない。


  キリスト教では、結婚は一種の「契約」である、とよく言われます。契約を交わしていない人と、特別な関係を結ぶことは、厳しく戒められます。
  誤解のないように言っておきますが、聖書の結婚観は「一生一人の人としか寝てはいけない」という
純潔主義とは関係ありません。なぜなら聖書が書かれた時代は一夫多妻の世の中だったので、正式な結婚契約を交わしていれば、複数の相手と寝ることはありえました。
  ある方にこんなメールをいただいたことがあります。
  「おまえはQ&Aで、『セックスにも相性がある』などと言っているが(婚前交渉の項目での回答)、そんなことは結婚してから一人の人とだけ関係していれば、わからないはずだ」と。
  しかし、聖書の時代は一夫多妻です。結婚した後しか性経験のない男性でも、経験を積むほどに、セックスにも相性があるんだなぁと気づいた男は多かったでしょう。そんなことは承知の上で聖書は書かれているのです。3人の妻がいれば、3人の女性と関係しているのです。ただし4人目に関係したのが、結婚契約外の女性だったら、これは契約違反で罪となります。
  ちなみに女性は違います。セックスとはこんなものだとあきらめて受け入れるしかない。不公平な時代です。妻に対して一方的に「オレとしかやってないんだから、セックスに相性があるなんて、おまえは知らないはずだ」と思っていた男は多かったでしょう。

  ついでに言うと、一夫多妻の世の中だったから、聖書を書いた人々は、夫と妻の関係を神と人の関係になぞらえるという発想が自然になじんでいたんじゃないかな、と私は推測しています(
エフェソの信徒への手紙5章22−23節「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです」など)。
  夫一人に対して妻多数。神一人に対して民多数。だから、夫婦の契約は、神と人の契約のようだ、と考えるのは自然だったんじゃないですかね。あくまで推測ですが。
  しかし、こういう考え方も、最近では「男尊女卑」の根拠になるという理由で、考え直そうじゃないかという動きがキリスト教会の中でも始まっています。もともと人間社会の現象で神のことを表現するということ自体に限界があるのですから、私も見直したほうがいいと思います。

 
A旧約聖書……不平等な掟

  話を戻します。
  姦淫の禁止は、いちばん基本の律法である「十戒」にも明記されています(
出エジプト記20章14節「姦淫してはならない」)。
  もっとも旧約、つまりユダヤ教の律法は、
女性は男性の私有財産であると見なす考えが根底にあると言われています。結婚する前は父親の管理下にあり、結婚後は夫の所有物です。だから、旧約聖書において姦淫」とは、男が他の男の所有物を奪う行為なのです。
  だから、おなじ十戒にも
「隣人の妻……など隣人のものを一切欲してはならない」(17節)と書いてあります。隣人の妻は隣人の持ち物なのですね。

  十戒以外では、
たとえば申命記22章22−29節が有名です。これは男性に対して、たがいに私有財産を侵害しないように、と戒める法律です。
   「結婚している女性と関係したら、その男も女も死刑」(22節)……他人の財産を侵害する犯罪行為。
   「婚約している娘と街中で関係したら、その男も女も死刑」。(23−24節)……助けを呼べたはずだから。
   「婚約している娘を助けの来ない野原でレイプしたら、男だけが死刑」(25−27節)……助けを呼べないから。
   「まだ婚約していない娘と寝たら、男は女を買う」(28−29節)……傷物にしたら、金品を支払って、自分の所有とする。
  婚約している娘と寝ることは隣人の妻と寝ることと等しい(24節)、という見解とも照らし合わせれば、女性は男性の私有財産であるという発想がご理解いただけると思います。レイプであったとしても、被害者の彼女が婚約してなかったら、まだ売約済ではないわけですから、買えば責任が取れるわけです。
  というわけで、ここには男性の財産権は問題にされていますが、女性の尊厳の侵害については問題になっていません。
  また、この法令では男性側が結婚しているかいないかということは問題になっていません。つまり、夫の妻に対する裏切りという観点もありません。

  それでは、女性に対してはどういう法律があるのかというと、例えば、
民数記5章11−31節に、姦淫の疑惑を持たれた妻の判決法というのがあります。
  長い文章ですが、要するに、「土器を容疑者の女性に持たせ、これに聖水を入れ、その中に床の塵を取って入れ、それから呪いの言葉を巻物に書いたその墨か何かを水の中に洗い落とし、その苦い水を飲ませる」。そういうことをさせて、「もし、女が身を汚し、夫を欺いておれば、呪いを下す水は彼女の体内に入って苦くなり、腹を膨らませ、腰を衰えさせる」(27節)……。
  つまり、拷問ですね。ゴミとか墨とか入った水をゴボゴボ飲ませて、立っておれたら無罪、よろけたら有罪……? なんだか魔女狩りと似ています。
  この法令の末尾の言葉は、象徴的です。
  
「男は罪を負わない。妻は犯した罪を負う」(民数記5章31節)

  そういうわけで、旧約聖書が姦淫を禁じている理由は、純潔とか純愛とは関係なく、
男性社会の中でいかに女性を管理し、社会秩序を保つかということにある、その一端をご理解いただけたと思います。
  これを字句どおりに実行しようとする事が、現代の私たちの生き方に、何らかの参考になりえると言えるでしょうか? 
  (いや、もっとも時代と関係なく、真理は常に妥当であるというお考えの方もいらっしゃいますので、そういう方はどうぞご遠慮なく、聖書の言葉どおり、女性に泥水を飲ませる拷問を実行してください。律法ではなく、現代の刑法で裁かれるかもしれませんが)

 B新約聖書……

  では、新約聖書は何と言っているでしょうか。
  姦淫という事で有名なのは、やはり
ヨハネによる福音書8章1−11節でしょう。イエスのもとに姦通の現場で捕えられた女性が連れてこられますが、イエスが「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と一同に告げます。すると年寄りから順にその場からみんな立ち去ってしまい、最後に残ったこの女性に「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)とイエスが告げたという物語です。
  「石打ち」をするかどうかが問題になっていますが、これはこの女性が婚約中に別の男性と関係を持ったことを示しています。というのは、当時の姦淫罪は、たとえば婚約中とか結婚後であるとかによって、石打ちであるとか絞首刑であるとか罪の重さのランク付けがされ、石打ち刑は婚約中の娘の場合に適用されたからだそうです(前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社、2001、p.182−184)。婚約中の娘が他の男と関係を持つ……イエスの母マリアが、婚前に妊娠していたことを夫ヨセフ以外の人に知られていたら、この姦淫の女性と同じ罪で告発されていたはずです。
  人びとは、
「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」(5節)と、イエスにからかい半分の質問を投げつける。
  イエスは長い間、地面に何を書いていたのか、考えた末に、告げます。
  
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」(7節)
  イエスには、質問にまともに答えることに意味がないことがわかっていました。当時のユダヤの裁判では死刑判決はそう乱発はされなかったそうですから、ひさびさの石打りの刑を目の当たりにできる期待感で興奮した群集に対して、イエスは冷や水をあびせたわけです。「罪のない人はどなたですか? どうぞお先に」(同書、p.186参照)
  
「正義漢ぶって他者の目に見える罪を告発する前に、ひとりひとり自分の目に見えない罪を問いなさい」それがイエスの応答の本質的な意図だったのではないでしょうか。これを受けた人々は、年寄りから順番にその場を立ち去っていったと記されています。
  イエスは最後に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と女性に告げます。
  これは「私もあなたを裁かないよ。もう次からはしないようにね」という優しい言葉です。これを「もう罪は犯すな、と言ったのだから、やはりイエスも罪だと言っているのだ!」と読むようでは、イエスの意図が理解できていないと言わざるをえない。イエスに意地悪な質問を投げつけた人びとと同じレベルに逆戻りしてしまうのです。
  
  イエスが姦淫について語ったところでは、他に、マタイによる福音書5章27−28節があります。
  
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」
  異性愛の男性で、他人の妻をみだらな思いで見たことが一回もないという人がいたらお目にかかりたいものです。イエスのこの言葉の基準でいけば、姦淫を犯していない男性はいない。「男は全員、姦淫罪だ」ということになります。
  つまり、ここでもイエスが問題にしているのは、目に見える行為で何が罪かを定義する事でなく、目に見えない内面・内実のありようなのです。
  
目に見える行為のみを取り上げて「あれは罪だ」「これは罪だ」と裁く人の心には、「そういう行為を行っていない自分は罪人ではない」と確認したがる姑息な意図が隠れています。他人を裁くことで、自分の正当化を主張しようとする意図。それもまた人間の罪深さです。
  だから、私も「姦淫を犯した人間を責めることに、一体どんな益があるのだろうか?」と疑問に思うのです。他人の姦淫を裁くことに意味はありません。

  イエスは「姦淫は罪か」という問いに答えませんでした。また、「男は誰でも姦淫を犯している」とも言いました。
  「あれはしてもいいか」「これをしたらいけないか」という論議ではなく、何がイエスにとって罪深いことだったのか、とよく考えてみないといけません。
  もう一度、
マタイによる福音書5章27−28節「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」
  また、
マルコによる福音書10章11節には、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる」という言葉もあります。
  イエスは決して姦淫を積極的に評価しているわけではありません。それどころか、ちょっといやらしい目で他人の妻を見ただけでも「姦淫だ」と言うし、当時の法律に照らして合法的な離縁であったとしても、「そんなものは姦淫と同じだ」と男を責めるのです。
  イエスはたいへん潔癖です。夫婦の関係の純粋さという面から見ると、イエスはたいへん厳しいことを要求しているといえるかも知れません。しかし、こういうイエスの言葉の端々に、イエスがとても
純粋な、そして永続的な愛を求めていたことがわかるような気がします。
  イエスは姦淫を行った人を裁きません。しかし、偽りのない愛が永く、できれば一生続くことを切望していたように私には思えます。


(4)そして私たちは

  ここでもう一度、現実の私たちの結婚について考えてみましょう。
  形の上で結婚関係が続いているからと言って、その愛が内実のともなったものであるかどうかは別問題です。
  例えばの話ですが、形の上で結婚が続いていても、愛は崩壊してしまっている仮面夫婦のような状況で暮らしているカップルもあります。また、近年よく聞くようになった言葉に「DV(ドメスティック・バイオレンス:家庭内暴力)」がありますが、殴る、蹴る、あるいは言葉による虐待など、比較的わかりやすい暴力以外に、相手を監視する、心理的に拘束したり支配したりする、あるいは相手と心の交流をゆるさず、孤立感を与える……などといった、他人にはたいへん説明しにくい、理解されにくい虐待というものもじっさいに存在します。
  第三者から見るとまったく問題がないように見えても、本人にとって、相手との行き詰まった関係の中で、将来の人生に対して絶望しか見いだせない、しかも誰に苦しみを訴えても、「あなたが甘えているのではないか」とか、「夫婦の問題は夫婦で解決して」などと言われてしまい、誰にも理解してもらえない。そういうことは往々にしてあるのです。
  そんな時、本当の関係を持てる可能性のある、他の人との出会いが与えられたならば、その人との関係がどこまで許されるのか……。これは一概には言えません。
  やはり現在の結婚生活を尊重してがまんするのか。それとも、自分の幸福を求めて行動するか。子どもがいる場合といない場合では、その悩みの深さも違うでしょう。しかし、どのような選択をとったとしても、その人が真剣に悩んで選択した結果であるならば、その悩みは耳を傾けられるべき価値があるのではないかと思います。

  離婚の自由が認められない社会ほど、不倫は増えると言います。当然の事です。やりなおしがきくという安心感があれば、別れてから再婚するという方法もあるわけですから。
  また、離婚する自由が認められていたとしても、経済的な理由で不可能であったり、子どもを育てなければならない真面目な責任感から、とても離婚を考えることはできないという場合もあります。
  人間には失敗ということがあります。結婚した人の誰もが、真実な心の結びつきに成功するわけではありません。そして失敗したと感じていても離婚できない状況にある人もいます。別れることはできないという状況で、それでも自分を受け入れてくれる人がほしい、愛してくれる人がほしい、いま自分にはそのような人がいないのだ、と感じて孤独に悩み苦しむ人間の思いを責めることはできるでしょうか。
そして、そのような孤独を癒すために、別の関係の可能性を求めてしまう人の思いを一概に否定する事ができるでしょうか。
  悩んだ結果、それをしない人はしないで済んだのであり、せずにおれない人はたとえ地獄に落ちることを覚悟してでもしてしまう。止めることは不可能です。人間とはそういうものです。
  裏切りを続けるくらいなら離婚した方がましだと私も思います。しかし、離婚が出来ない場合には、姦淫を続ける人もいるでしょう。いずれにしろそうなってしまうのは、結婚した二人の関係の内実が壊れているからです。

  ですから、結婚している夫婦が本当に問わなければならないのは、
   「私たちは真実に心をつなぎあっているだろうか」
   「私たちは心から信じあい、愛し合う関係を作っているだろうか」

  ということなのです。
  そもそもそれが満たされていれば、他の人との関係をじっさいに求めようとする必要なんて感じないはずだと思うのですが、いかがでしょうか。

〔最終更新日:2002年5月20日〕

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