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 Q. キリスト教ではオナニーってしちゃいけないんですよね?

 質問者 「オナニーは罪かどうかを探していたのですが、まだ工事中のようですね」
 30番地教会牧師 「すいません。ずいぶん前に質問してくれた方もいらっしゃいましたが、放ったらかしていました」

(2002年7月5日にメールでいただいた質問より)

 A. 誰にも迷惑をかけないように、してくださいね。

  「オナニー」。英語では「onanism」。すごいなぁ、「ism」ですよ。思わず「オナニー主義」と訳してしまいそうになりますが……(笑)。
  英語の辞書をひくと、@中絶性交/性交中断、A自慰行為(マスターベーション)、B自己満足(研究社『新英和大辞典』より)という意味が並んでいます。
  日本人が一般に「オナニー」と言う時、ダイレクトにはAの意味を指すことが多く、もののたとえでBの意味もよく使いますが、英語圏では@の使用例もあるんですね。『英辞郎』で調べると、もっといろんな用例が出てくるかもしれません。
  しかし、英語の辞書で筆頭に@があるのは納得がゆきます。というのは、元来「onanism」という言葉が生まれた根拠になっている旧約聖書の箇所では、まさに@が問題になっているからです。A、つまり男性のマスターベーションのことは、もともと問題にされていません。
  というわけで、おそらく「オナニーは罪か」と問われる方のほとんどが、おそらくAの意味で質問しておられると私は思いますが、もしそういう意味でしたら、もともと
マスターベーションは問題になっていませんので、どうぞご安心下さい

  ……というのが、取り急ぎの結論ですが、以下、もうすこし丁寧に考えてみましょう。


1.聖書より

  「オナニー/onanism」という言葉の起源にあたる聖書の箇所を、もう一度読んでみましょう。
  旧約聖書の
創世記38章1−11節です。ちょっと長くなりますが引用します。

  そのころ、ユダは兄弟たちと別れて、アドラム人のヒラという人の近くに天幕を張った。ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて(みそめて)結婚し、彼女のところに入った。彼女は身ごもり男の子を産んだ。ユダはその子をエルと名付けた。彼女はまた身ごもり男の子を産み、その子をオナンと名付けた。彼女は更にまた男の子を産み、その子をシェラと名付けた。彼女がシェラを産んだとき、ユダはケジブにいた。
  ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダは
オナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」
  
オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。
  ユダは嫁のタマルに言った。
  「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。」
  それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。


  ここに出てくるユダという人は、ヤコブの12人の息子の一人で、エジプトに奴隷として売られたが夢分析でエジプトの宰相にまで出世することになるヨセフ(創世記の後半4分の1の主人公)のお兄さんの一人です。
  この38章のエピソードを簡単にまとめると、ユダには、エル・オナン・シェラという3人の息子がいて、長男エルはタマルという嫁を迎えることになるのですが、間もなくエルは死ぬ。そこで次男のオナンが兄嫁と寝て子どもを作りなさいと言われる。それがイヤでオナンは、兄嫁と寝ることは寝るけれども、今風に言うと膣外射精、いわゆる「外出し」をくり返すわけです。それが主の意に反するので彼は殺された、と。
  ちなみに、このエピソードの続き、38章の後半(12−30節)ですが、3人目の息子まで死んではかなわんと思った親父のユダは、三男のシェラとタマルを再婚させるのはやめて、「シェラが成人するまで実家に帰れ」と命じます。ところが、そのままタマルは放置されてしまう。つまりタマルは、姑(しゅうと)のユダに騙され、棄てられたわけです。そこでタマルは、娼婦を装ってユダに近づきます。ユダは誘惑にひっかかり、嫁とは知らずにタマルと寝てしまう。そして3ヵ月後、タマルは自分がしゅうとによって妊娠させられたことを公表し、見事にユダの面目をつぶし、復讐を果たします。ユダは「私が彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」と認めます。タマルが産んだユダの子は、ペレツとゼラの双子であった……というお話です。

  オナニーに関して言えば、ですから、
ここで問題になっているのは、膣外射精/外出しです。マスターベーション/自慰ではありません。かりに女性の中で射精することこそが性交の「完了」と見なすのであれば、性交「中断」の一種とも言う言い方もできないことはないでしょう。


2.「子種」にこだわるセックス観とそれに対する反乱の物語

  なんで膣外射精が主の意に反すると解されたのか。
  それは「子孫を残し、家系を存続させてゆく」ということが、何よりもまず性の目的であるという価値観が、この物語を語り継いだ人々の間に根付いているからです。
  長男が死んだら次男が嫁と再婚し、次男が死んだら三男が嫁と再婚する。そういう結婚の風習を
「レビラート婚」と言います。旧約聖書の時代ではそれが常識でしたし、新約聖書のイエスの時代でもそうでした。例えば、マルコによる福音書12章18−27節他でイエスは、七人の兄弟が長男から順番に死んで、結局七人全員の妻になってしまった女性のことで、難題をふっかけられていたりします。
  結婚とか性というものは、まず何よりも、子づくりのためである。子孫を残すことが性の唯一にして全ての目的であり、個々人の感情とか、性による男女間のコミュニケーションとか、そういう考えは存在しない時代だったのです。

  この「性は子孫をつくるためにあるもの」、というのは、実は男性優位社会が作り上げてきた建前です。
  要するに「オレがセックスをしたいのは、子孫繁栄という『本能』なんだ」みたいな理屈を、男性は昔も今も進歩なく使いつづけているということに過ぎないのですが……。本当はいろいろたくさんセックスがしたいのですが、そうも言えず、その欲求を正当化するために「子孫繁栄」とか「本能」とかいう理屈が用いられているわけです。
  結婚して子どもを作るという社会システムは、元来この「性は子孫繁栄のため」という建前を形にしたものです。しかしやっぱりセックスへの要求が結婚の枠内におさまらない時がある。そういう時
「隣人の妻」を欲したりする、つまり不倫したりすると、他人の「所有物」を奪うことになり、社会秩序が崩壊します(「十戒」の第10戒:出エジプト記20章17節)。そこで利用されるのが売春です。つまり、男性の本音の欲求のはけ口となりつつ、一見、結婚制度と相反するように見えて、実は男性の欲望を吸収してしまう事で、結婚という社会システムを維持するために利用されているのです。
  男性優位社会と呼ばれるところはどこでも伝統的に、男はそうやって、「建前」としての性と、「本音」の部分である快楽の性を使い分けてきたのです。
  そしてその使い分けさえもシステム化してしまったのが「公娼」、つまり社会的にも認知された、合法的な売春婦の存在です。
  先に引用した旧約聖書・創世記38章の物語では、ユダは(結果的には変装していた嫁と寝てしまうのですが、彼の意志としては)「神殿娼婦」と寝ようとしたわけです。神殿娼婦というのは、町で密かにやってる売春宿とはわけが違う。公的売春婦、すなわち公娼です。
  創世記38章は、そこまで男の本音が丸出しの時代・社会の話であり、登場人物のユダはその時代の典型的なオヤジであった、ということを、私たちは少し冷静な目で認識しておかないといけません。

 しかし、われわれ現代人の目で見ると、なかなかこの物語はおもしろいです。
 
  第一に、まず
オナンは、そういうレビラート婚に反抗したということ。
  もちろん、彼は「オレ自身の子孫が欲しいんだ」というこだわりを持っていたわけですから、そういう意味では「性=家系の存続」という発想から自由だったわけではありません。そこは彼も時代の子です。
  しかし、「兄貴の子孫でなく、親父の子孫というわけでもなく、オレの子孫がほしい」。だから
「その子孫が自分のものとならないのを知っていたので」(創世記38章9節)膣外射精したという彼は、家系のために、あるいは親父のために利用されるだけの顔のない種馬としてではなく、個人としての自我を主張したわけです。この彼の態度は、いまから2000年以上も前の、旧約聖書の著者たちの時代には受け入れ難かったかもしれないけれど、むしろ現代の我々には納得がゆくものです。

  第二に、
タマルは、レビラート婚によって都合よく利用されたり棄てられたりする自分の地位に甘んじていない、ということ。
  もちろんタマルは、「私こそがユダの家系の子孫を産む女なのだ」と返り咲きを主張したわけで、そういう意味では、彼女も「子どもを産まない女性は生きている価値がない」という当時の価値観から自由になってはいません。タマルもやはり時代の子です。しかし、彼女のユダへの復讐は痛快です。
  姑ユダがタマルを三男に結婚させずに棄てたのは、聖書には
「それはシェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった」(創世記38章11節)とありますが、要するに、三男のシェラもオナンのように膣外射精をするかも知れない、と危惧したからでしょう。ユダは、レビラート婚の限界をオナンによって思い知らされたわけです。そういう意味ではユダの死は無駄ではない。そこで今度は、適当な理由をつけてタマルを遠ざけ、シェラには新しい嫁でも見つけてやろう、という腹だったのでしょう、おそらく。
  これに対して彼女は、「そうそう都合よく利用されたり棄てられたりして、たまるもんですか」と、反乱計画を企てる。それも、男の建前と本音の使い分けがいちばん露骨に出ている買春という場面でユダの本音の行為を暴き、男の建前もメンツも丸つぶしにしてみせました。
  しかも方法がすごい。自分が娼婦となり、じっさいに姑と寝ることまでしている。文字どおり捨て身で男の身勝手と欺瞞を暴き、しかも、「これであなたのお望みの跡継ぎも私が用意してあげましたよ」とばかりにユダの子どもを産む。そして「でもその子どもは、あなたが売春婦だと思った女が産んでいるのですよ」「これは不法な性関係から生まれた子ですからね」という皮肉まで込められている。
  ユダがあっさりと降参せざるをえなかったのは当然です。ユダはタマルを罰しようという気力さえ起こらなかったことでしょう。


3.マスターベーションを禁ずる根拠になりうるか

  この創世記38章の物語を根拠に、マスターベーションは「主の意に反する」と教える牧師さんたちがいるそうです。
  もともとマスターベーションを禁じた話ではない、ということは最初に申し上げました。しかし、その牧師さんが「性は子孫を作るためだけにある」と考えているなら、マスターベーションは本来の目的とは違うということで、やはり罪だと言われてしまうかも知れません。
  (でも、夢精はどうなるんでしょう? マスターベーションしなかったら勝手に出るものだから、神さまが人間をそのように設計されたのだ、ということで、「それは仕方ない」ということになるのかな、たぶん)
  ユダは娼婦を買おうとして、結局息子の妻と肉体関係を持ってしまいました。でも、「主の意に反すること」として罰せられたりはしていません。でも、膣外射精したオナンは、「主の意に反すること」をしたので殺されたという筋書きになっています。
  ここでは、膣外で射精したらば主なる神の怒りに触れて殺されるけれど、たとえ婚外でも膣内で射精するのはかまわん、殺されない、とそういう価値観でこの物語は書かれている、という点に留意しておかなければなりません。
  この聖書の箇所に基づいてオナニーを「神の意志に背く」といって禁ずる牧師さんは、ひょっとしたら、マスターべーションをするのはいけないけれど、買春したり、息子の妻と寝たりするのは、別に構わないと思っているかも知れない。あるいはマスターベーションより罪は軽いと思っているかも知れない。いやいや、まさかね(笑)。
  それに、「子どもを作る目的でする性行為以外は罪である」と考えるならば、ユダが神殿娼婦を買おうとしたのは、これは違法な性行為なわけで、オナンと同罪であるはずですが、その事について主が何も言わないのは矛盾ではないかとも思われるわけです。

  なぜ、膣外射精したオナンは罰せられて、娼婦と間違えて嫁と寝たユダは罰せられなかったのか。それは、本当はユダが関係したのは神殿娼婦ではなく本当は嫁のタマルで、しかもタマルのお腹の子はユダの子であったから。つまり、予定調和というか、結果オーライというか、やはりこの物語の著者たちにとっては、どのような経緯であれユダの子孫がユダ家の嫁から確実に残っていった、という結末を描くことが大事だったからなのでしょう。
  「ユダの子孫はこうしてペレツとゼラという子どもたちに引き継がれていった」という結末を迎えるために、ユダの家系の子種を地面に漏らしたオナンは罰せられ、ユダの家系の子種を身ごもったタマルは、たとえその妊娠が不法な関係によるものであったとしても黙認されるのです。
  しつこいようですが、「それが神のご意志だ」と鵜呑みにするのではなく、
「『それが神のご意志だ』と著者たちは信じていたらしい」という風に、ワンクッション置いて考えないといけません。著者がそういう思想の持ち主だったということなのです。
  こうして、
家系を絶やさぬためには、反抗者は罰し、不法な性関係でも容認する
、という価値観が明らかになるわけですが、これは現代において「性は子どもを作るためにあるのです」と説いている牧師さんたちの価値観と果たして一致しているでしょうか? いくら子どもを作ることが大事だとは言っても、そこまでは考えていないというのが実状ではないでしょうか。「子どもなんかいらない」と言って息子夫婦がなかなか孫を作ってくれないもので、つい息子のお連れ合いさんを勢い余って妊娠させてしまった男性がいたとして(ひどい仮定ですが)、「まぁ結果としてはお孫さんができたんですから、良しとしましょう」とまで言える牧師さんはまさかいないと思います。しかし、この創世記38章の物語の述べるところに忠実であろうとすれば、そうなってしまうのです。
  つまり、創世記38章に基づいて、子づくり以外の性行為を否定する人の多くは、実は創世記38章の趣旨に対して充分忠実ではないということです。
  ということは、
「聖書が禁じているからマスターベーションをするな」と言われても、とりあえず根拠不充分なので、真にうける必要はないでしょう、ということになるのです。


4.避妊をどこまで禁ずるのか

  また、オナンが罰せられた根拠が、子種を無駄にして家系を存続させることに反抗した、つまり「わざと妊娠/出産させないようにした」ことにあるというのならば、マスターベーションや膣外射精はおろか、あらゆる避妊の技術は罪である、ということになってしまいます。膣内で射精しても、コンドーム、ピルなどを使用して妊娠を回避する工夫をしたということは、これはオナンと同罪です。ああ、いよいよマスターベーションとは話が離れてゆく……。当然、「妊娠中絶」もまた罪である、ということになるでしょう。
  (本当にしつこいようですが、胎内の生命に対する尊厳の感情ではなく、「家系を絶やす行為だから」中絶はダメだということですよ。発想の根拠が違うのです)
  避妊も中絶もダメだ、というのなら、たとえば保守的なイスラム教徒はそうです。イスラム国と一言で言ってもいろいろですが、なかでも貧しいが人口増加が著しいという国の女性たちに、WHOやNGOなどが自分を守るための避妊の方法を伝えようとすると、避妊は罪であると拒絶される、ということがあるそうです。でも彼女らのほうが旧約聖書の倫理に忠実だと言えます。
  また、アメリカに多いキリスト教原理主義の人たちは、中絶手術を施す医師などを爆弾テロで暗殺しようとしたり、といったこともします。旧約聖書を根拠にして、「中絶を施すような医師は、神の罰を受けねばならない」というわけです。これもまた、創世記38章でオナンが主の意に反して「殺された」という記事の趣旨と一致します。妊娠・出産・子孫の繁栄・家系の存続、これらを阻む者は殺されても仕方がない。そこまでやって初めて「聖書に忠実」と言えるのかも知れません。
  そこまでやる覚悟がないのであれば、「聖書に忠実」などということは、不用意に発言しないほうがよいのかも知れません。

  私自身は、聖書に書いてあることを、書いてあるとおりに、時代・社会の違いを超えて適用しようとすることは、大変危険だと思っています。聖書の記事も、ある特定の環境において書かれた人間の言葉だということは、これまでも検討してきたように明らかです。ですから、環境が変わってもそのまま適用できると考えるのはやめておいた方がよいと思います。
  もちろん、字義どおりではなく、隠された意味があるのだ、と思うのは自由ですが、それはあくまで人間には「隠されている」のでしょうから、万人に通用する倫理として大々的に使用する目的にはきっと向いていないでしょう。また、そのような「隠された意味」を何とか説明しようとする聖職者たちの言葉が、結局は多かれ少なかれ、その人個人の人生観を語っているに過ぎないという結果に終わっている例をよく見聞きします。
  人間の発言は、かならずその人が育ってきた環境や経緯に影響されています。神のご意志について書こうとした聖書の記者は、自分たちの傾向に影響されて神の意志を語り、読んで解釈する者も自分の傾向に影響された解釈をし、発言するのです。すなわち、人間には本当に普遍的なことを把握し、語るということは不可能だということです。
  そんな人間が聖書の権威を背景に、自分の信じている倫理観を「普遍的なものだ」と信じ込んで、他人に押し付けることほど危険なことはありませんし、あらゆるテロや宗教戦争の背景には、このような原理主義的なものの考え方が潜んでいるのです。

  しかし、それでも、私たちは自分が普遍的な倫理などつかむことなどできないと知りつつも、自分の置かれた状況においては、こまごました人生の選択をしてゆかなければならないことも事実です。
  したがって私たちは、
聖書と対話しながらも、最終的には自分の価値基準というものを、自分の責任で打ち立ててゆかねばならないのです。その際、独断と独善に陥る危険性をさけるために、さまざまな立場の意見を交換し合うことも大切でしょう。
  そして同時に、自分の責任でなした判断の結果が決して普遍的なものではないことを自覚し、その判断の結果起こったことについては謙虚に赦しを求めるべきではないかと思うのです。


5.本題ではないと知りつつ、しかし一応マスターベーションについても考えてみよう

  話がずいぶん大きくなってしまいました。話題を「オナニー」に戻しましょう。
  いちばん最初にオナニーは英語で「onanism」だと言って私はひとりで喜んでいました。
  しかし冗談ではなく本当に、「オナニー主義」としか言いようのないくらい、独りで楽しむことにしか喜びを感じない人もいるかも知れません。なにしろマスターベーションこそ最も自分の思い通りのシチュエーションをイメージしながらできる唯一の性行為なのですから。
  現実のセックスは相手が存在しますが、相手が自分の思い通りの性的欲求に合致する行動をとってくれるとは限りません。それがたとえ最愛の人であったとしても、そして、自分の求めていることがそう特別なことではなかったとしても、です。その人を思う気持ちに偽りはなく、大切にしたいとも思っている、しかしセックスに関しては相性が合わない、あるいは相性とか大層なことではなくても、単に時間の都合が合わない、今日は体の具合がすぐれない、眠たいんだよ、疲れてるんだよ……すれ違いの原因は無数にあります。
  まぁその程度のことなら、何日か我慢すればよいではないか、ということで済むのかも知れませんが、求めている性的な関係がなかなか得られないとか、満たされない境遇の人もいます。また、性的欲求というのも、人により、その強弱にはおどろくほど差があるのです。
  しかし、いくら自分の欲求が強いから、満たされる機会が少ないから、と言って、誰かを無理に自分の要求に従わせようとするならば、それは「暴力」になってしまいます。暴力で相手を従わせるくらいなら、独りでできるマスターベーションでヴァーチャルなセックスを疑似体験するほうが、よほど平和的です。誰にも迷惑はかけません。痴漢や強姦など、自分の欲求不満のはけ口を相手の合意なく強要することは、相手に危害を与える行為であり、それこそ疑いようのない罪だと、私は現代人の感性で思います。そして、欲求不満というものは、抑えれば抑えるほど、爆発した時の破壊力は強いということも考えるならば、そんな
暴力を他者に加えるくらいなら、自分のプライバシーの範囲で処理できるマスターベーションで処理しておくことをおすすめします。

  それでもマスターベーションに拒否感を持っている人もいます。いいんです。暴力はもちろん振るわない。マスターベーションもしない。それを貫けるのなら、貫けばいいと思います。
  ただし、人間の心理というのは不思議なもので、個々人の性的欲求が、かならずしも肉体的快感や子孫繁栄の願望ではない心理的な要因によって構成されていることが多々あります。多くは成育歴に根ざすものです。トラウマが根底にある場合もあります。
  すると、たまたまその人の場合は、その人独特の性的欲求という形であらわれていたものが、性によるあらわれを拒絶されて、別の形の暴力に発展する場合もあるということも考えておかねばなりません。
  だから性的欲求を無制限に認めるべきだ、と言っているのではありません。そうではなく、性的欲求の根底にある自分の心の問題をどのように受け入れ、そんな自分とどう付き合ってゆくのか、という観点で見ていったほうが、表面的な行動を「それはよい」「それはいけない」と批評しているよりも、はるかに人間を幸福にすると思うのです。自分を見つめ、掘り下げることは、面倒臭く、しんどい過程ですが。
  少なくとも、性的な欲求を否定しすぎて、欲求不満が別の暴力に形を変えるより、マスターベーションで発散しているほうがマシだとは言えます。
  また、独りでマスターベーションをするとき、自分が何をイメージしているのか、それを自己分析するだけでも、自分を知る一歩になりうるのです。

  それでもやっぱりマスターベーションに拒否感を持つ人もいます。いいんです。私はマスターベーションを
するべきだ、と言っているのではありません。やっても問題はあるまい、と言っているだけですから、嫌な人はやらなくてもよいのです。
  「そんな性的欲求は、スポーツなど別の何か健康的なことで発散しなさい」と言う人もいるでしょう。「昇華」というやつですか。それも、それがうまくいく人はそれでいいんではないでしょうか。
  (私の友人には「セックスはスポーツだ」と言っている人もいますが、この事まで論じ始めるとキリがないので、ここではやめておきましょう)


6.ただし、マスターベーションが暴力になるときもある

  さて、マスターベーションをするのなら、「誰にも迷惑をかけない形で」やってください。
  というのは、マスターベーションのために暴力が用いられるということもあるからです。

  たとえば、夫婦間のセックスであったとしても、片方が全く望んでいないことを、もう一人に強要するといった場合、これは「自分のマスターベーションの道具として生身の人間を使用した」、つまり「大人のおもちゃとしてパートナーを扱った」ということになると私は思います。
  
たとえ「子どもが欲しいから」という理由であったとしても、相手が望んでいない時にセックスを要求することも、一種の暴力です。そして、キリスト教会の人々は「子どもをつくることは美徳であり、子どもができることは神の恵みだ」と信じている人が多く、彼らはこの手の行為が暴力であるということに全く気づいてくれようとしないのです。
  「結婚した夫婦は子どもを作るべきだ」というイデオロギーが、臨まないセックスを受け入れさせる装置として働いているとすれば、キリスト教は家庭内強姦を奨励している宗教である、という見方さえ可能です。
  いささか過激な言い方になりましたが、要は同じセックスをするにしても、お互いが臨む形が折り合う点を探りつつ、愛情を確かめ合って、お互いが満足できるものであって欲しいと強く願うからこそ、このように考えるのです。
  相手のある性的な関係であったとしても、結局自己満足になっているのではないか。生きた人間を道具にしたマスターベーションのようなことを自分はやっているのではないだろうか。そういう問いを自分に向けてみてはどうでしょうか。

  また、たった一人でやっている、誰にも迷惑をかけていないつもりのマスターベーションであったとしても、暴力に根ざした道具を使っている場合があります。
  たとえば、アダルト・ビデオの中には、何らかの暴力によって製作されたものが多いのです。レイプなどの性暴力そのものを撮影したものもあるし、女性が催眠をかけられたり、騙されたりして撮影に利用されたりしている作品もあります。撮影において行われた行為によって身体を傷つけられ、後遺症が残る例もあります。
  自分がマスターベーションのいわゆる「オカズ」として使っているビデオが、実はそのような暴力によって製作されているかもしれない、ということは一度考えてみてもよいのではないかと思います。それは、間接的に自分の満足のために、暴力を利用していることになるのであり、どこかに被害者が発生しているという事実の上に自分のマスターベーションがある、ということに多少は思いを馳せるべきではないか、と思います。


7.さらに連想〜精子の尊厳はどうなる


  あと、特に男性のマスターベーションに関してですが、たとえば、たった1ccの精液の中にも2000〜4000という精子が泳いでいます。個人差があったり、最近は精子が極端に減っている人も多くなってきているようですが。とにかく、精子は生きて動いていて、それらひとつひとつが新しい人間を生み出す可能性なわけですよね。私たち一人一人の人間も、みな最初は1個の精子が、1個の卵子と出会って結びついたことから、ここに存在しているわけです。
  例えば、ある日ある時、父親から発した何千という精子のうち、たまたまひょっとしたら隣の精子が先に卵子に到着していたら、今の自分はここに存在していないのかもしれない。ものすごい偶然の確率です。逆に考えると、今私がここに存在しているということは、他の何千何万という精子が、この世に生まれ出るチャンスを失ってしまっている、という事実の上に成り立っているということです。「私は生存競争に勝った」と胸をはれるようなものでもない。だって、あなたの、そしてわたしの父親は、他にも何度も、たとえば違う日に射精をして、たまたま母親も妊娠にいたらなかった、なんてこともある可能性はいくらでもあります。あくまで確率の問題です。
  仮にそういう感覚でものを見ると、たとえば、今日あなたがマスターベーションによって射精した精子、それをとりあえずティッシュか何かで拭いて、ゴミ箱なりトイレなりに棄ててしまう。ということは、あなたは何千という新しい人生の可能性を、ザーッとトイレの水に流し去ってしまうという行為を意図的になしてしまった……ということにもなったりはしないか。
  とまぁ、そういうものの見方もまたできるのではないか、というお話です。
  

8.代償行為か、独立した行為か

  男性でも、女性でも、じっさいに相手のあるセックスをするよりもマスターベーションのほうがよくなってしまう、ということがありえます。また、マスターベーションは、相手のある性行為とは全く別の、それ自体が独立した意味を持つ行為だと主張する人もいます。
  マスターベーションはそれ自体が固有の意味を持つ行為だとも言えるし、代償行為であるとも言えるし、両方を兼ねているとも言えるし、きっと人それぞれの受けとめ方があるでしょう。
  私は、「誰かに自分の性的願望をエゴイスティックに強要するよりは、マスターベーションで発散する方が、平和的だ」と上述しました。という事は、マスターベーションは代償行為だと言っていることになるのだと思います。
  しかし、最初は代償行為だったマスターベーションが、やがて、現実の人間との関係で気を遣ったり、期待が外れたりといった苦労よりもずっと手軽で満足感も高いではないか、ということになったときに、マスターベーションはそれ自体の存在意義を持ち始めるのかもしれません。
  私は、そういう行為を責めることはできないとは思いますが、しかしどこか悲しさや空しさも伴うねー、と思ってしまったりもします。
  「純粋マスターベーション」とでも呼べるような、全く自分しか存在しない、自分で自分を愛撫すること自体に喜びを感じている人がいるのであれば別でしょうが、たいていの人がマスターベーションをする時というのは、自分が望むような他者との行為を想像で埋め合わせている場合がほとんどではないでしょうか。その時イメージしているのは、想像上の人物やメディア上のキャラであったり、あるいは実在の人物であったとしても、現実には望むべくもないような触れあいを想像しているのではないでしょうか。だとすれば、やはりほとんどのマスターベーションは、代償行為としての要素が含まれているのではないでしょうか。

  どんなに独りの世界を豊かに持っている人でも、全く他者と関わりなく生きてゆくことは、この社会では不可能です。多かれ少なかれ、人間は他者とかかわりを持って生きてゆきます。さまざまな人と人のかかわりの中でも、性的な関係というのは、「交わり」や「きずな」、あるいは「愛」といった言葉で表現できるような深い喜びを、他者と分け合うことのできる大きなチャンスを秘めています。もちろん、関係づくりに失敗した時には大きく傷つけ合うこともあります。しかし、その傷が肥やしとなって、人間性に深みが増してくるということもあるでしょう。
  そのような、リスクはあるけれども真剣に求めればそれだけのことはある人と人の関わりの世界を、知らずに人生を過ごしてゆくのは、ちょっと惜しい。そんな風に私は思います。



.結びにかえて

  オナニーひとつで、ずいぶん長文のQ&Aになってしまいましたが、いかがでしたか?
  マスターベーションの方がマシだと思われるようなケースもあるとも言いましたし、マスターベーションにもいろいろ問題点があるということも述べました。
  要するに、
マスターベーションがいいとか、悪いとか、一概に言うことはできないということです。そして、それはマスターベーションに限らず、あらゆる事柄についても同じことです。何事も一概に善悪を決定することはできません。

  現代は、「いいのか」「悪いのか」、「何が正しくて、何が罪なのか」、はっきりした答を欲しがる人が多い時代です。だから、そういう事をはっきりと言い切ってくれる原理主義的な傾向をもつ宗教団体の信徒数が増えています。
  確かに、自分で何事も考える事は大変な事ですし、ケース・バイ・ケースというのはあたかもいい加減で不確実な感じがするでしょう。誰かが絶対的な権威に基づいて何が正しいことか、何が罪なのか、教えてくれたほうが安心できるし、その方が楽に決まっています。
  しかし、残念ながら、「これが確かなことだ」と教えてる人のその教えも、結局は教えている人の生きている時代や社会の流れ、その人の社会層、政治的・思想的立場によって規定されているのであり、決してすべての時代・社会・人間に通用するものではありません。すべての倫理・道徳は、それを求め、それを支持する一定数の人々が対象となって考え出されているのであって、ということはその反面、かならずその倫理・道徳からこぼれる人たちもいるということです。そういう人たちは否が応でも自分が生きるべき価値基準を自分で探してゆかねばなりません。
  それに、人生や世界というのは意外性に満ちているので、未知の出会いや状況に直面することはいくらでもあります。そういう時、自分の頭で考える事のできる人は、柔軟に対応する事ができますが、もらい物の価値観で事足れりと済ませてきた人は、まともに対応する事ができず、背中を向けるか、頭ごなしに目の前の現実を否定してかかる事しかできなかったりするのです。

  誰かに価値観を与えられるというのは、よい事です。まったくオリジナルな価値観というものを生み出すことは難しいし、一人の人間の視野など狭いものです。教えてもらわなければ知ることのできなかった事は、大変多いはずです。伝統的な宗教や思想、聖典、偉大な人物の言葉から学ぶことは大切です。たくさん学ぶほど自分の視野が広がって、自分でものを考える際の豊かな材料が備えられることになります。
  しかし、自分が教わったある価値観にこだわりすぎたり、依存しすぎたりすることは、硬直した態度をとったり、相互理解を妨げたり、その結果として争いや断絶の原因になったりするのです。
  教わったことはすべて判断の材料としてストックしておき、状況に応じてそれを適用し、その時点で自分とかかわりを持ちうる他者と共有できる根拠を探りつつ、判断してゆく。そして、新しい状況に置かれた時には、以前までの見解を修正することを恐れない。「変わらない」ということ自体に価値を置くのはやめた方がいいと思います。人間は神ではなく、あくまで人間です。決して永遠の存在にはなりえません。「不変」であり「普遍」であろうとする努力は、結局、相対的なものに過ぎない自分の考えを他人に押し付ける徒労でしかないのです。

  ああ、また話が大きくなりました。
  オナニーひとつで何をそんなに力んで…(笑)。
  しつこいようですが、さいごに……、

  聖書にも
「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)と書いてありますね?
  「自由」とは
自分の責任において自分で考え、行動しなさい、ということです。
  なぜ、自分で考えず、誰かえらい先生や、何かの権威に決めてもらおうとするのですか? それは自由を棄てる道です。それは「真理はあなたがたを自由にする」という御言葉とは関係のない世界です。
  自分の頭と心で自由にものを考える事ができるかどうか、それが信仰のバロメータと言うこともできるでしょう。
  みなさん、何でも自分で考えてくださいね。

 
 「自分で判断しなさい」(パウロ……コリント信徒への手紙T11章13節より)

〔最終更新日:2002年7月17日〕

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