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 Q. クリスチャンって合掌したり焼香したりはしないんですよね?

とある方からのメール…… 

 「ひとつ質問があります。クリスチャンは、家の仏教の法事や、墓参りのときにも焼香や合掌をすることは許されるのでしょうか? 私はこの問題に引っかかり、親も反対し、自分も教会から離れた原因の一つになっています。まじめなクリスチャンはここで踏絵を踏まされるのでしょうか」

(2001年6月11日に受けたお問い合わせより)

 A. してあげるのも、愛じゃないかなぁ、なんて。

  ぼくも、高校2年生に洗礼を受けるとき、ずいぶん母親に泣かれました。「あなたは、わたしたちと同じお墓に入らないのね!!」と。その母がいまは、「あんなクソオヤジ(自分の夫のことね)とはいっしょの墓には入らん!」と豪語していますから、いやー人生っていろいろ(笑)。

  法事や墓参りで焼香や合掌をするのは、神さまに対する信仰を裏切ることになるのではないか、とぼくも昔思っていたことがあります。他にも、「オレだけは初詣にはイカネェ」とか。困るのは、お葬式のときですよね。遺族・親族の方の手前、失礼になるかな、とも思うし……。
  でも、いまはあまり悩みません。なぜなら、これは信仰を試す
踏絵ではない、ということがわかってきたからです。

1.相手への愛情として

  
踏絵というのは、キリスト教の信仰があるかどうかを調べて、弾圧するためのものですよね?
  でも、クリスチャンに合掌や焼香を望んでいる人というのは、別に人の内面の信仰まで問うてはいない場合がほとんどです。むしろ、「あんたが何教の信者でもいいから、うちのご先祖さんに手を合わせてくれ」という願いだと思うのです。
  手を合わせるというのは、客観的には宗教的な行為です。でも、ほとんどの日本人は、そういう習慣を宗教的行為とは思っていません。「宗教とは違う。ただの習慣だ」あるいは「当然の礼儀だ」と強く言い張る人もいます。
  相手がそう思っている以上、こちらの「異宗教の礼拝に参加するのは困る」という論理は、決して理解されません。それどころか、「クリスチャンは先祖も家族も大事にしない。無作法でわがままな人間だ」という印象を与えてしまい、かえってキリスト教の証しとしては逆効果なのです。
  反対に、黙ってにこやかに合掌し、焼香してみてください。きっと周囲のクリスチャンでない人びとは、「クリスチャンも、ちゃんと礼儀を知っているんだな」「家族を大切にしてくれるんだな」と安心することでしょう。

  それに加えて、お葬式・法事・お墓参りというのは、
「身近な人の死」という経験の痛みを癒してゆくケアのプロセスであり、また同時に、いずれ来る「自らの死」に備えるプロセスでもあります。
  
マザー・テレサは、インドでの「死にゆく人のためのホーム」での活動で、道端で死にかけている人が運び込まれた際、まず本人の宗教を聞いたといいます。そして、本人の望む宗教でお葬式をしてあげるそうです。これは、いくつかのホスピスでのターミナル・ケアでも取り入れられている考えだと聞きます。それも、とてもキリスト教的だなぁ、とぼくは思うのです。
  死を悼み、死に備える、そのプロセスに、相手の方の望んでいるスタイルで参加してゆくことは、クリスチャンとして大切な愛の行為であり、証しの行為であると思うのです。

2.神への誠意として

  それでは、合掌や焼香をすることは、本当に神さまへの裏切りにならないのでしょうか? いくら周囲の人を安心させるためとは言え、異教の儀式に参加する事が、本当にキリスト教にとってよいことなのでしょうか?
  
  パウロという人もこの問題には悩んだようで、彼の手紙は口述筆記で書かれることも多かったようですが、どうも迷いながら話しているようなニュアンスが感じられるところがあります。
  以下は、異教の偶像にいったん供えられた肉を、食べていいかどうかについてのパウロの見解です。これは私たちにとって、他の宗教の儀式にどういう関わり方をするかについての参考になります。

  「
わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。……〔中略〕……供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです」(コリントの信徒への手紙T 10章14−20節)
  ……これは推測ですが、おそらく、「
わたしは何を言おうとしているのか」あたりで、パウロの頭がこんがらかってきたのではないかと思います(笑)。
  というのは、異教の神にささげた肉は汚れている、と言ってしまうと、異教の神の存在を認めたことになるでしょう? そうすると、ふだん「神は唯一の神である」と言ってることと自己矛盾を起こしてしまいますよね? 異教の神なんか存在しないんであって、そんなものには何の意味もないと思うのだったら、別に気にしないで異教の神にささげた肉だろうが何だろうが、食べちゃえばいいわけです。
  そのへんの自己矛盾に話しながら気付いたんでしょう、パウロは「
いや、わたしが言おうとしているのは……、偶像に献げるということは悪霊に献げているのと同じことなんだ」と、ちょっと苦しい言い逃れをするのです。
  つづく22節で
「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか」と言っているのは、もちろん十戒の2番目の戒め、あなたはいかなる像も造ってはならない。……〔中略〕……わたしは熱情(「ねたみ」とも訳される)の神である」(出エジプト記20章4〜6節より)という旧約聖書の言葉を踏まえているわけですが……。どうもね、自分でうまく説明できないから、最後に十戒を持ち出したのかな、と。黄門様の印籠みたいにね。
  もちろん、ここでは、本当になにがしかのご利益を求めて偶像礼拝をしているコリントの教会の人を叱っているのだから、これはこれでいいんだろうけれど、パウロ自身は自分がしゃべっていることが
、論理的にはちょっとおかしいかな? と気づきかけているところが、この聖書の箇所の面白いところ。

  そして、パウロはさらに話を進めて、最終的にこの問題については、こうしめくくります。
  
「だれでも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。(……結局、偶像なんか信じてないなら、気にしないで食べちゃえってことね)
 あなたがたが信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、
良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。(……相手は現時点で信仰を持ってないんだから、自分は良心の問題のつもりで主張しても、ひとりよがりの押し付けってことになりかねないからね。相手のライフスタイルを頭ごなしに否定するのはやめましょう)
 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、
その人のため、また良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、「良心」というのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。(……同じ信仰の仲間から批判されたときには、その人の良心を傷つけないように、食べるのはやめた方がいいよね)
 
どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。(……でも、同じ信仰の仲間からとは言え、自分の主体的判断で食べてることを非難される筋合いはないんだよ)
 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
 ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」
(コリントの信徒への手紙T 10章24−33節)
  つまるところ、キリスト教のことをよく知らない人に対しても、あるいは偶像礼拝を心配するクリスチャンに対しても、どちらにも心遣いをしていきましょう、ということでしょう。いかにも、できるだけ多くの人への宣教を目指そうとするパウロらしいですね。

  パウロは他のところでも……
  
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
  ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。
  律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
  また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
  弱い人には弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。
  すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音と共にあずかる者となるためです」
(コリントの信徒への手紙T 9章19−23節)

  パウロ流に言えば、日本において、日本人のように合掌し、焼香するのは、日本人に福音を伝えるための大切なステップなのです。もちろんこれは、心に「福音のために」という「芯」がなければ、あっという間に、ノンポリシーまたはアイデンティティ喪失につながってしまう危険な行為でもあります。しかし、
「この人たちを得るために」という使命感を持っている人は、キリスト教信仰ゆえに仏壇に手を合わせるということができるのです。キリスト者はそういう場面でも完全に「自由」なのです。

〔最終更新日:2001年6月16日〕

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