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 Q. クリスチャンって結婚前にエッチしちゃいけないんですか?

とあるキリスト教学校の生徒たちと聖書科教師の会話…… 

 生徒 「シスターって処女って聞いたんですけど、本当なんですか?」
 教師 「ああ、処女のときに誓願したら、処女のままかなぁ……」
 生徒 「ええっ? じゃあ、神父さんもみんな童貞なんですか?」
 教師 「ああ、童貞のままで叙任されたら、童貞のままかなぁ。だいたいカトリックは聖職者は結婚しちゃいけないからね」
 生徒 「え、でも結婚しなくてもエッチだけするのもダメなんですか?」
 教師 「そういうきまりはあるのかなぁ……。たぶん、この決まりができたときって、セックス=夫婦のもの、って考えられていた時代だったろうしなぁ……」
 生徒 「先生はやってたでしょ? 結婚前から」
 一同 「やってた、やってた! 先生スケベやし!」
 教師 「まぁ……やったことはあるけど……。オレはカトリックの神父じゃなくて、プロテスタントの牧師だから……とか言っても、何にも説明にならないか。ギャハハ!」
 生徒 「笑ってごまかさないでくださいよ」

(1984年ごろからたびたび、2001年6月にも受けた質問より)

 A. してもいいんじゃないですか?

■婚前交渉禁止の聖書的根拠


(1)旧約聖書@……男女不平等な取り決め
  聖書的な根拠があるのかなぁ。
  旧約聖書には、婚前交渉を禁じている箇所がありますね(申命記22章など)。
  でも、よく読むと、男の人と女の人とでは不公平な決まりになっています。たとえば……
  
申命記22章13−21節(以下はその抜粋)
  「人がその妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「わたしはこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老に差し出し……
〔中略〕……布を町の長老たちの前に広げねばならない。町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち……〔中略〕……罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。……〔中略〕……しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば……〔中略〕……町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない
  これ、よく考えなくても、ひどい不公平でしょ?
  まず、女性が処女かどうかというのは審判の対象になるけれど、男性が童貞であるかどうかというのは審判の対象にならないんですよね。もっとも、ある男が童貞かどうかなんて調べようがないけれど、新婚初夜の出血を布に染み込ませて「証拠」として取ることが可能で、そういうことを実際にされる風習があったというだけでも、そうとう女性のほうが立場が弱かった、ということはわかりますよね。
  つぎに、女性が無実であったと証明されたとき、男への罰は鞭打ちですが、その妻が本当に結婚前に処女でなかったときは、この女性は死刑です。これは不公平だよね。つぎつぎ生々しい話で恐縮ですが、初体験のとき出血があるかどうかも、個人差があるんでしょ? なかには「証拠」がないから、と「冤罪」で死刑にされていった女性たちも何人かいたのではないでしょうか。
  しかも、男には鞭打ちと同時に罰金が科せられるのですが、その罰金は、名誉毀損の被害者である当の妻ではなく、被害者の父親に支払われる。
  こりゃあおかしいだろう、と現代の感覚なら思うわけです。この旧約聖書の法律が書かれた時代には、女性は男性の私有財産だったので、結婚するときに女性が処女かどうかなんてのは、新車か中古車かなんて話と似たような扱いになってしまうのです。
  あなたは、このような戒律を真に受けて、実践できますか?(2001年10月16日記)

(2)旧約聖書A……かつて女性は、夫の私有財産のひとつに過ぎなかった
  男の婚前交渉について、何か禁じている戒めが他にあるかどうか……。
  むりやり該当させるとすれば、同じく
申命記22章28−29節ですかね。
  
「ある男がまだ婚約していない処女の娘に出会い、これを捕らえ、共に寝たところを見つけられたならば、共に寝た男はその娘の父親に銀五十シェケルを支払って、彼女を妻としなければならない。彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない」
  うーむ。やっぱりクルマ感覚ですよね。大事な売り物に傷をつけたんだから、買え、と。傷物だから他には売れないよ、と。当時の女性の地位はかくも低い。
  では、相手が婚約者でも婚前にセックスしたらいけないのか、ということについては、旧約聖書は何も書いてないと思います。
  ただ、実際には婚約者が相手だった場合には、特に問題にはせず、よくあることだとされていた、という報告もされています。(2001年10月16日記)

(3)聖書時代の結婚と性……現代の結婚観・セックス観とずいぶん違う
  聖書が書かれた時代は、相手を自由に選ぶことなど想像することもできなかった時代です。結婚相手は、本人が物心つく前から親同士が家と家の利害から決めてしまっていたりしたわけだし、そもそも結婚とは、現在のわれわれが考えがちな個人と個人の結びつきというものが重要なのではなく、ファミリーのために子孫を存続させる役割として機能するかどうかが大事だったのです。
  当然、セックスの位置づけ、意味づけも、現在の私たちが考えがちなように、愛情表現だとか、あるいは逆に快楽だとか、(もちろんそれがなかったわけではなく、じゅうぶんあったのだろうけど)、そういうことは重要ではなく、子どもができるかどうか、が最も重要な関心事だったのでした。しかも、男系社会で一家の主としての名前と財産を受け継いでゆくための長子(長男)の出産を特に重んじており、そのような長子を生むことのできない女は、存在価値の無い者として離縁されたりするような時代。女は跡継ぎの男を産んで育てるための消耗品。夫の私有財産、という考え方の時代。そして、聖書に書かれた結婚の倫理も、大部分はこういう社会における人の生き方を前提に書かれています。
  しかし、現代はそうではありません。結婚するふたりの関係のあり方、二人の相性、気持ち、愛のかたち、などなどがたいへん重要な問題としてとらえられているのが現代という時代でしょう。
  たとえ聖書とはいえ、書かれた時代や社会の風潮や、それを念頭に置きながら当時の読者に対して書いた当時の著者の発想が、どうしても反映してしまうものです。聖書の言葉も、特定の時代精神にしばられた人間の作品なのです。その、当時の著者(たち)の物の見方が、あまりにも現代とへだたっている場合、そのようにして書かれた道徳を、そのまま現代に当てはめることが妥当かどうか、疑問に思うのです。聖書も、やはり時代の産物だからです。(2004年9月1日)

(4)新約聖書……イエス自身が婚前交渉の結果生まれた子だったかもしれない。
  そして、みなさんにもちょっと考えていただきたいのは、イエス自身も母マリアの婚前交渉によって生まれた可能性があるのではないか、ということです。それも婚約者ヨセフとの婚前交渉ではなく、他の人との婚前交渉です。
  妊娠している母マリアのところに「恵まれた方、おめでとう」と天使ガブリエルがやってきて、
「おめでとう、恵まれた方」(ルカによる福音書1章28節)「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(同31節)と知らせてくれるのが受胎告知の物語なわけですが、まぁ実は地中海世界で、処女から神の子が生まれるというストーリィは、この時代この地域の「神話」としては格別珍しくはない。ということは、処女降誕物語はイエスというカリスマ的宗教指導者の神秘的な誕生を語る神話的伝記と言ってさしつかえないのではないか。今でもよく教祖さまがいかに不思議な生まれ方をしたかを伝える神話的物語などが、あらゆる新宗教にあったりしますよね。
  少なくとも、この処女降誕の物語を読んではっきりと言えるのは、イエスの出生に父ヨセフが関与していない、ということです。マリアは別の男の子どもを宿したのではないか、というウワサが流れていたからこそ、このような処女マリアへの天使の受胎告知という物語を教会は生み出さざるを得なかったのではないかと思っていますが、ちょっと考えすぎでしょうか?
  ルカ福音書の神話的に美しく演出された物語に引きずられないで、素直にマタイ福音書だけを読むと、面白いことに気づきます。
  
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人(注:ユダヤ律法に忠実な人)であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひとかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい』」(マタイによる福音書1章18−20節)。
  別にマリアが聖霊によって妊娠した出来事が描かれているわけではありません。「それは聖霊によるものだ」と一言説明があるだけです。これはマタイがそう書いたというだけのことか、マタイが属していた教会グループでは、母マリアの妊娠は聖霊によるものだったと「言われていた」ということが明らかになるだけで、事実がどうであったかということは相変わらず不明です。
  むしろマタイがきちんと記述しているのは、自分と交わる以前に妊娠した婚約者について苦しみ悩み、夢による悟りによってこれを乗り越えた夫の姿のみです。ヨセフが見た夢が、母マリアとイエスの命を救った、ということ詳しく書いてあるのであって、本当に処女妊娠であったかということはわからないのです。
  イエスが育った故郷のナザレ村の人びとの間には、「大工のヨセフはマリアの婚前交渉の結果できた子どもを押し付けられたらしい」、という情報が自明のこととして広まっていたことでしょう。そういう人びとの思いが背景にあって、イエスが故郷ナザレでうまく自分の力を見せることができなかった、という事件なども起こったのではないかと思われるわけです。
  そこで考えるのですが、(たとえ本当に処女降誕から生まれた方であったとしても)、自分自身が母親の婚前交渉で「できちゃった」存在として子ども時代から蔑まれ、あざけられ、断罪されてきた人間イエスが、大人になって態度急変し、「婚前交渉はいけないことです」などと言って、自分と同じようにいじめられている子どもを失望の底に叩き落すようなことをされるだろうか、と……。
  
神はイエスを、婚約者以外の婚前交渉の結果生まれた不貞の子として蔑まれる境遇にわざわざお送りになられた、ということ。その意味を考えてみてほしいのです。
  イエスは、婚前交渉を単に「いけない」と裁いて終わるような方だろうか。それとも、婚前交渉の結果妊娠した子どもであっても勇気をもって育ててゆこうとする人、あるいは蔑まれながらも懸命に生きる子どもたち……そういった人たちと共に痛みを分け合ってくださる方なのか。ちょっと考えてみてほしいのです。ここまで来ると婚前交渉の「いい」「悪い」の問題を越えているような気がします。(2004年9月1日)


■現代における婚前交渉について

  結論から言うと、ぼくは個人的には、結婚前に何回かセックスは経験することも、必ずしも悪いことではないと思います。理由として、以下のようなことを考えています。

(1)セックス=罪ではない。
  セックスそのものを汚らわしいものではありません。人間の性は恐ろしい破壊的なエネルギーを持っていますが、同時にすさまじく創造的な愛のエネルギーを持っています。セックスを注意深く、賢く行なうことは、よいことです。セックス=罪、セックス=汚れ、という考え方は、セックス=快感を得る道具、という考えと同じくらい短絡的で未熟すぎます。わたしたち人間は、セックスを通して、神さまの恵み愛をうかがい知ることさえできるのです。本当によいセックスをしたとき、神に対する素直な感謝が起こってくる、ということもありうるのです。
  もちろん、よいセックスをするために、いくつかの条件というものがあるでしょうが、結婚していればその恵みにあずかることができるとは限りません。
  また独身であることを選んだ人が、その恵みから除外されなければならない、ということにも納得がいきません。
  したがって、セックスという人間の営みを、ある程度、結婚という制度の枠から解放して考えるということがあってもよいのではないのか、と思うのです。(2004年9月1日)

(2)肉体的なことにも、相性というものがある。
  また、精神的な相性があるのと全く同じように、肉体的なことにも相性があります。聖書が書かれた時代とちがって、結婚におけるふたりの関係のあり方や気持ちを重要視する時代に、そして、精神的に相性のいい人を自由に選んで結婚できる権利があるはずの時代に、どうして肉体的な相性だけを無視しなければならないだろうか、と疑問に思います。
  結婚というのは、二人の別の人格がいっしょに長い人生を歩んでゆくという、壮大なチャレンジです。結婚前の人生よりも、結婚後の人生のほうが長い人がきっと多いでしょう。人生の半分以上をすごすことになるかも知れないパートナーを選ぶのですから、慎重にもなるでしょう。
  セックスだけではなく、それこそ経済力・生活能力・精神力の面でも、全面的にお互いがお互いの結婚相手としてふさわしいかどうか、見きわめてから、安全な結婚をしてほしい。そういう観点に立てば、セックスだけがそのパートナー選びの判断基準から除外される必要があるでしょうか?
  そのために同棲、つまり共同生活を試験的にしてみるのも悪いことではないでしょう。そして、この人とは結婚はできないな、と思ったら、結婚はやめておけばいいのです。(2004年9月1日)

(3)セックスというものを一般的に知っておいたほうがいい。
  もっとも、どんなに同棲してみたところで、やっぱり結婚してみないとわからない、ということもあります。どのような分野でそういうことが起こるかは、人それぞれですが。だから、前もって試したところで、「やっぱり思っていたのと違った」ということが、セックスについてもありうる可能性はあります。しかし、「だから前もってセックスはしないほうがいい」とは言えないでしょう。
  むしろ、多少同じ相手でも婚前と結婚してからでは違いが起こったとしても、「セックスとはこういうものだ」ということを結婚前にあらかじめある程度知っておいたほうが、結婚前に過剰な期待を描いてとんでもない幻滅を味わったりすることが少ないでしょう。
  あるいは、そんなことよりもっと大事なのは、これは男性から女性に対して要求することが多いのですが、たとえば結婚している一方の人間が配偶者に対して、納得がいかないような性行為の要求(回数とか、時間帯とか、方法とか、いろいろ)があった場合、結婚前にセックスを知らなかったり、結婚相手とのセックスしか知らなかったりすると、結婚した相手との関係だけで、「セックスとはそういうものだ」と思い込んで、相手に不当な要求を続けてしまう、あるいは相手の不当な要求を我慢して受け入れてしまう、あるいは受け入れられなかったときに「自分が悪いのだ」と思いこんでしまったりということがありうるのです。
  つまり、セックスだけに限らずということでもあるのですが、セックスの問題も含めて、「世間知らず」「常識知らず」ということを、決してオススメしたくはない、ということです。(2004年9月1日)

(4)婚前交渉のあるなしなんて結婚に関して大事なことじゃない。
  現に、いまは日本でも離婚率が急上昇しています。ぼくはこの「下世話なQ&A」でも、離婚する人は決して責められてはならないと考えていますが、しかし、やはり離婚と言うのは激しい悲しみと苦しみを自分にも結婚相手にも、そして周囲の人にも与えますから、どんどんヤレというものではありません。その結婚の崩壊の理由が、案外、「こんなはずではなかった」という、結婚前の予想と結婚後の現実のギャップにもあるのではないかと思っています。「だいたい結婚なんてこんなものだ」という現実的な予想がつく範囲で、いろいろ経験しておくほうが、安定した結婚生活が過ごせるような気がするのです。
  もっとも、そんなことを言うと、「結婚がどんなものか知れば知るほど、結婚なんかしたくなくなる」という声が聞こえてきそうです。「世間知らず」「常識知らず」でないと、とても結婚なんかする勇気や勢いが出ない人もいるでしょう。セックスに関しても、他のことに関しても、「他にもっと自分にとっていい条件があるかも知れない」なんて思い出したら、結婚なんてなかなか踏み切れるものではないです。でも社会生活において自由が増えてゆくということは、そういう結果も当然起こりうると思うのですね。
  そうすると、結局、結婚の意志決定もしっかりしているし、結婚してからの生活も安定している人たちというのは、もちろんお互い深い愛情と信頼によって支えられているという理想的な夫婦もあるだろうけれども、まぁまぁ周囲の大人どもの現実を見ていて感じるのは、そういう美しい人たちよりも、むしろ子どもを育てることに人生の価値の重きを置いている人や、老いてからの暮らしを重要視している人のほうが、結婚をしっかりうまくやっているな、ということなのです。
  はっきり言ってしまうと、結婚前にセックスをしたかどうかなんてことを気にしな人のほうが結婚生活というのはうまく継続できるのです。もっと言ってしまうと、結婚してからでも、結婚相手以外の人のセックスをすること(不倫あるいは売買春)についても、いちいち左右されないくらいの感覚の持ち主のほうが、結婚生活を安定しているものなのです。だいたい、風評でも日本人男性の7割から8割にかけてが婚外セックスの経験者であると言われている現実の状況で、それを容認しないということであれば、7割から8割の人が結婚は継続できません。
  ぼくは、たとえば「売買春を容認しろ」なんてことを言いたいんじゃありません。でも、売買春を「絶対に許さない」と言うのであれば、いまの日本人の夫婦の7割から8割を断罪して離婚させてもいいというくらいのつもりで言わなければいけないね、ということなのです。
  よく「亭主元気で留守がいい」とか、「浮気はいいけど本気はダメよ」とか、「私が相手しきれないときは、ダンナにお小遣い渡して風俗に行ってもらいます。本気の愛人作られたら困るから」とか、そういうセリフを聞く機会は世の中にごまんとあります。いい、悪いはいくらでも言えるけど、そういうセリフを吐かないと結婚なんてとても続けていられないという夫婦が多いということです。それでも何のために夫婦を続けているのか、子どものため……、老後のため……、それがポピュラーな意見でしょう。それが現実。
  話がズレて結婚してからの婚外セックスの話になっていますが、ここでは本題ではありません。要するに、婚外セックスに関してもそういう事を言っている時代ですから、婚前セックスについてなど、現実の結婚についてはほとんど問題にはならない。結婚前に何をしていたかはともかく、結婚してから何をするかもともかく、とにかくきちんと自分たちと子どもの今の暮らしと老後の暮らしをきちんと守れる人ならいい、というのが、いちばん安定した結婚への意志決定です。
  「自分はそんなのはイヤだ」と言う人は、イヤでいいのです。しかし、現実の人間の行いの罪深さを見ていると、「自分はそういう事はしない」と言って世間と切り離しても、自分はそれでいいのだけれど、世の中のほとんどの人に理解されることはないだろうし、また、既に婚前セックスをしている人に対しては、その人の尊厳とか存在そのものを逆に侮辱されたような気持ちを与えてしまうかもしれません。(2004年9月1日記)

(5)婚前交渉を認めない人の結婚の困難さ
  婚前のセックスについても、それを容認しない人は、結婚相手との平和な関係は難しいでしょう。あるいは結婚相手を見つけることさえ困難なのではないでしょうか。残念ながらクリスチャンであったとしても、たぶん婚前のセックスを経験している人はけっこういると思いますよ。教派にもよると思いますが、「教会の人には言えないけど、実はしてます」という人は多いのです。もちろん、「自分は罪を犯してしまったのではないか」と悩んでいる人もいます。そういう婚前交渉経験者をいちいち裁いていたら、結婚対象はずいぶん狭くなってしまいますね、という現実的な問題があります。婚前交渉をしていない者どうしの結婚が望ましいわけですから。相手はかなり限定されます。
  また、そうは言っても、婚前のセックスをしていない人とした人が愛し合うようになるということも起こりうるでしょう。すると、婚前交渉したことのない人は、婚前交渉をしたことのある配偶者の過去について、責めたくなる気持ちと葛藤しなければならない。これは婚前交渉に限らず、付き合っている人の過去の恋愛に対しても嫉妬する人間がいることからも容易に想像できることです。また、婚前交渉をした人は、しなかったと言っている相手に責められているような気持ちがしたり、会うたびに罪悪感を抱いてしまったり、どうもフェアじゃない感覚に害された関係になってしまうわけです。
  じゃあやっぱり結婚する前に、セックスしなければいいじゃないかとも言いたくなるでしょうが、じっさいこれだけ婚前交渉が一般化している時代なのですから、さっきも言ったように、それでは何の解決にも救いにもならないのです。
  じっさい過去の性的経験で、大きな心の傷を負った人もいるでしょう。そのような人に対して、「だからするべきではなかったんだ」と、結婚前の性的経験を否定するような見解を述べても、その人の傷に塩を塗りこめるようなことにしかならない可能性もあるのです。

(6)結局、個人の選択の問題
  もちろんぼくは、「同棲しろ」とか、「婚前交渉するべきだ」とか、そんなことは言いません。「したくない」、「するべきではない」という考え方もありだと思います。その人は、自分の信念をまげてまで「しなさい」と要求される筋合いはありません。結婚式以前にするかどうかは別としても、きちんと婚約した人としか、自分の身体は許したくない、という人もいます。そのような決心は尊いものとして重んじられなければなりません。
  しかし、その一方で、婚前交渉をする人を裁くこともやめないといけません。あるいは、自分が婚約者以外とはセックスしない、と決めている人でも、相手が過去に経験していたからといって、決して裁いたりはしない、ということが大事です。
  そしてもっと大事なことは、
「婚前にはセックスしない」というのは、個人の選択の問題であって、決して宗教的な理由であってはならない、ということをきちんと認識することです。宗教的理由で何かを判断する人は、必ず絆の深い他者にも同じ判断を求めます。なぜなら「普遍的」で「唯一」で「絶対的」な「神」が理由だからです。そういう「神」の命令を理由にして物事を判断する人は、必ず自分の考えと違う人を裁き、責めます。考えが違う他者の存在を容認できないのです。そして、それが他者のこれまでの人生を否定し、深い心の傷を負わせることになりかねない。また、そのことで深刻な争いに発展することもある。だから、「個人の問題として判断してくれ」「考えの違う他者を裁かないでくれ」、とお願いしたいのです。
  ぼくはこのQ&Aで、婚前交渉容認派としての文章を書いています。しかし、それは「婚前交渉をしない」ということを否定しているわけではないのです。ただ、婚前交渉を否定する人は、婚前交渉をしてしまった「人」を裁く傾向が強い。ぼくはそれはやめてほしいから、婚前交渉が必ずしも単純に悪だと言えるものではないことをわかってほしいと願って、こんなことを書いているのです。(2004年9月1日記)

(7)但し書き
  ただし、くりかえしになりますが、セックスは創造的なエネルギーと共に、破壊的なエネルギーを秘めています。乱用したり過度に依存したりして、精神をめちゃめちゃに破壊してしまったり、生活を崩壊させる可能性もあります。
  また、それ以前に、病気のリスクや妊娠など、喜びの関係であるはずのものが、一転して苦しみや悲しみの原因になったり、セックスしたふたりだけでは解決できないような問題に発展する場合もあります。
  セックスにまつわるリスクや責任についての学習が、セックスの経験以前に大切であることは言うまでもありません。(2004年9月1日記)

〔初版:2001年10月16日〕
〔第2版:2004年年9月1日〕

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