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 Q. クリスチャンって、みんな夫婦も家庭も円満なんですか?

  「先生のお宅では、夫婦ゲンカなんかされないでしょう。お二人とも敬虔なクリスチャンでいらっしゃるから、ねえ?」
  「いや、そうでもないですよ。朝から話が合わないと、一日口をきくのもいやだったり。皿や茶碗を投げてケンカすることもありますね。まぁいたってふつうの夫婦ですよ。ん? 普通じゃないですか?」
  「皿を投げるというのは、ご冗談でしょう」
  「いや、そんなことないですよ。このまえなんか、玄関の十字架の置物で殴られましたからね。十字架とか聖書とか、そういうものでやるのだけはやめてくれってわたしが怒鳴ったら、話がそっちのほうにうつっちゃって、そもそも何でケンカしていたのかわかんなくなってしまったりしますねぇ、はっはっは」
  「はぁ……いやそうですか。安心しましたというか、心配になりましたというか……先生のご家庭、大丈夫なんですか」
  「いやぁ、神さましか行く末はわかりませんよ、はーはっはっは! ま、一杯やりましょう! ね!」

(2002年ごろに質問されたような気がするけど、よくおぼえてなく、上記の会話文はフィクションです)

 A. そんなわけないじゃん。

どこにでもある問題をかかえているだけのこと


  一人残らず、どこの家庭にだって問題があるのに、みんな隠しているんです……とまで申し上げるつもりはありませんが、一人残らずみんな品行方正で礼儀正しく、平和で温厚な家庭を作っているかといえば、そうでないことのほうが多いのではないでしょうか。つまり、ようするに、クリスチャンだからと言うわけではなく、どこの家庭にも人並みにちゃんと問題は生じているのです。


聖書にしたがえばよいというものでもない

  ところで、聖書の言葉に忠実であろうとするあまり、ふつうの家庭よりも難しい夫婦関係になってしまっている場合があります。
  パウロが
コリントの信徒への手紙(一)11章3節「女の頭は男」とか、9節「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのです」とか、14章34節「婦人たちは教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」などと、迷惑この上ないことを書き残してくれたせいで、「聖書を文字通りに受け取りましょう」と提唱している教会ほど、ずいぶんストレスをためこんでいる女性たちがいるようです。
  たいていの教会では、運営の上で大きなパワーを発揮しているのは女性です。その女性に発言権をゆるさず、命令だけしているのが男性の教会員だったりする場合、教会にいつづけること自体が、女性教会員のストレスになってしまったりします。
  また家庭生活においても、
「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」とおっしゃるけれども、その夫が実に頼りないおっさんだったりしたら、ため息しか出ないような状況にもなりかねません。
  それでも、他でもない聖書に書いてあるのだから、守らなければならない。しかし、腹が立つのはしょうがない。いったい私はどうすればいいの! と言いたい教会婦人はたくさんいるのではないでしょうか。
  そんなこんなで、発言権のある男性で占められた役員会と、じっさいに教会をきりもりしている婦人会の二極文化が見られる教会があります。

  ほかにも、
「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(エフェソの信徒への手紙5章22−24節)と書いてあります。もちろん、夫がそのままでいいわけはなく、この言葉に続いて、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自身をお与えになったように、妻を愛しなさい」という文言が続いているわけですが、「妻よ、夫にすべての面で仕えなさい」というのと「夫よ、自分を妻に与えるように愛しなさい」では、どっちが現実の家庭生活において具体性を持つかと言えば、これは一目瞭然、前者なわけです。
  ということは、つまり、聖書の言葉に文字通り従うかぎり、どうしても夫が妻の上に君臨し、妻が夫を立てて、面倒なことは全部引き受けてやらなければならない、という家庭を生じさせやすいのです。そして、まじめなクリスチャンであるかぎり、「これは神さまの命令だから」と主婦である女性はストレスをためこんで、結果として早く体調を崩したり、老化が早かったり、長生きできなかったりする場合が多いのです。

  もし、聖書が
「共に仕えあい、共に愛しあいなさい」という言葉を残してくれていたら、世の中のクリスチャンの多くの家庭がもっと喜びにあふれたものになったかもしれません。
  しかし、聖書を書いた人びとも2000年近くも昔の人ですから、その時代、社会の限界を突破することができなかった。あるいはこの程度でも、その当時としてはかなり先進的な思想だったかもしれない。しかし、いつしか現実の社会のほうが、聖書を追い越してさらに自由と平等を求めるようになっているということなのかも知れません。
  
コロサイの信徒への手紙3章18−19節でも、「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」と書いてありますが、こういう言葉をわざわざ書かなければならなかった背景には、夫にかいがいしく仕えない妻や、妻につらく当たっている夫が多かったのかもしれません。そのような世の中であったなら、せいぜいこの程度のおすすめしか書けないだろう。まさか「夫も妻に仕えなさい。妻も夫に仕えなさい」とは、あまりに先進的過ぎて、この時代には書けなかったかもしれないし、書いても理解されなかったかもしれません。ですから、その時代としては大きな意義を持ったかもしれないけれども、いまの私たちの生きている時代では、もはや古すぎて使い物にならない教訓となってしまった……と、そういう可能性も高いのです。

  余談になりますが、私の恩師である聖書学者の先生が、通勤電車の「弱冷房」ステッカーの話をある冊子に書いていたのを思い出します。
  「弱冷房」のステッカーは、その車両の冷房が弱めに設定してあって、ギンギンに冷えているわけでもなく、健康にも配慮していますよ、ということを表す。しかし、真冬になってもその電車にステッカーが貼ってある場合、このステッカーに書いてある「弱冷房」という言葉は、何を意味することになるのだろうか。果たして聖書の言葉も、ひょっとして真冬になってから、半年前に張られた「弱冷房」のステッカーを読むような場合があるのではあるまいか……という内容です(橋本滋男「聖書をどう読むか」(『基督教世界』第3658号)2006年1月)。
  聖書の中のさまざまな具体的な生活指導の言葉も、冬に見る「弱冷房」のステッカーのようではないだろうか、一考の必要はあります。


牧師の家族

  牧師の家族の場合は本当に悲惨なケースが多いようです。
  まず、牧師の家庭にはプライバシーのない場合が多いのです。特に教会と同じ敷地に住んでいるような牧師家族の場合、出入りする教会員たちの耳目に常にさらされているわけですから、たまりません。そうと覚悟して牧師夫妻が決心した人生であったとしても、子どもはそのような環境に耐えられず、心の病を発症させる場合もあります。
  突然の来客にいつも緊張している。突然来たホームレスにお金を渡して自分は貧しい生活をしている家庭。せっかくの日曜日は自分だけのお父さん、お母さんじゃなく、教会の人びとのお父さん、お母さんになってしまっている。そんな状況で子どもが屈折することなく育つとしたら、まさにそれは奇跡というしかないでしょう。しかし、実際には子どもは耐えて耐えて生きているのです。

  牧師が男性である場合、その牧師の妻も耐えて耐えて生きています。
  夫の牧師がボンヤリさんで、教会のなかの全ての雑事をしょってこなしているのは牧師夫人、というのもよくある話です。そういう苦労すべてが、先ほど紹介した聖書の言葉、「妻は夫に仕えなさい」で正当化されてゆくわけです。教会員も牧師よりも牧師夫人に甘えたがるケースが多いです。
  その結果、牧師の妻は、精神のバランスを崩し、うつ病になったり、体調を悪くしたりしがちです。もちろん老化も早いのです。

  そして、牧師自身。
  妻や子どもに迷惑をかけているかどうかは別にして、ご本人がとてもまじめな方だったりする場合、やはりうつ病になりやすい。そもそも牧師になろうという気を起こしたことじたいまじめだから、教会の全てのことがきちんとしていないと気がすまない。自分が強く、賢く、健全で、全ての教会員の模範でなくてはならない。こういう強迫的な思いから、神経症やうつ病あるいはアルコール依存症を発症する場合もあります。
  あるいはそれが家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス)に発展している場合もあるのです。実力行使で手を振り上げる牧師もいますし、そこまでいかなかったとしても、言葉の暴力、無視したり拒絶したりする「ネグレクト」という精神的暴力の場合もあります。
  まじめで完ぺき主義の良心的な牧師さんだからこそ陥りやすい穴というものがあるのです。

  そういうわけで、教会に対して、あまりにまじめに取り組みすぎる牧師や信徒の家庭が、案外家庭内ではたいへんなストレスを抱え込んでいたり、教会のこともテキトーに流していいかげんにやっているような牧師あるいは信徒の家庭なら抱えてもいないような苦しみを抱えてしまっている、ということがあるのです。

〔最終更新日:2006年3月27日〕

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