「わたしの友だちは、クリスチャンホームに育って中学生の時に洗礼を受けたものの、『キリスト教なんてナンセンス。教会なんて行ってられない』といって事実上キリスト教を捨てたことになっています。
彼いわく、『キリスト教を信ずる権利があるのなら、キリスト教をやめる権利もあるやろ? 君はキリスト教に洗脳されてるんだって。やめて自由になったらいいのに』。
そうかなぁとも思いつつ、なんともいえません。
でも、そんな気分をうちの教会の人に言ったら、「悪魔がささやいている。あなたのために祈らなくては」とか真顔で言う人多いだろうなぁ。ちょっとこれも、正直、面倒くさいです。
いったんクリスチャンになっても、クリスチャンをやめることってできるんでしょうか?」
(2005年1月にメールで寄せていただいた質問より)
やめられるけど、やめられない
自分の意志で、あるいは、単に面倒くさくなってであったとしても、本人が「やめた」と思って、教会にも行かなくなるし、祈らなくもなるし、神やイエスや聖霊や、そういったことなどなどを、考えなくもなれば、「実質的には」クリスチャンをやめたことになるでしょう。
ですから、いつでもやめられます。
ただですね、教会側から見ると、クリスチャンを「やめる」ということは、ありえないということになっているようなのでございます。
幼児洗礼であれ、成人洗礼であれ、いったん洗礼を受けて、クリスチャンということになりますと、それは「救われた」ということになり、いったん「救われた」人が、その後で再び「救い」からこぼれ落ちる、なんてことはありえないのですよ。
だって神さまの救いは完全ですからね。神さまの救いが、人の行いによって、取り消しになったりとか、そういうのおかしいでしょう。
つまり、「救われた」人が、「救われた」後になって、教会にぜんぜん行かなくなってしまっても、そして本人が「救われてる」ってどういうことなのか、さっぱりわかんなくなってしまっても(本当は最初からよくわかってなかったのかもしれないけど)、そういうこととは関係なく、ご本人は「救われている」のでございます。
そして、教会に通い続けている人たちは、「あの人は、救われたのに、もったいないねぇ」「あの人のために祈りましょう、いつか教会に戻ってきてくれますように」「いつか自分が救われている事に改めて気づいてくれますように」と、ウワサしたり祈ったりしている、というわけです。
それは、ご本人が死ぬまで教会に戻らなかったとしても、やはりそうなのです。
ですから、本人は「やめた」と思っている。教会の人たちは「やめる」ということはありえないと思っている……というわけです。
まぁ、これで両者お互い平和、というものなのかも知れませんね。
終わりのない契約
キリスト教には「契約の宗教」という側面があるといわれています。そういうわけで、旧約聖書は「旧い(ふるい)契約の書」、新約聖書は「新しい契約の書」と呼ばれているわけですよね。それは神と人間の契約です。そして、こういう契約を重んじる体質が、旧約聖書以来ユダヤ人にはしみついているから、ユダヤ人はビジネスがうまいんだとかいうウワサが飛んだりします。
「神と人の契約」という思想で育った民族が、「人と人の契約」にも強いんだ、と……。
まぁそういうことかも知れないですけど、しかし、わたしは「神と人の契約」と「人と人の契約」には、大きな違いがあると思うんです。
何がどう違うか、いろいろ出てくるんですけど、ここでは、いちばん大きな違いだと思っている事をお話します。
「神と人の契約」と「人と人の契約」でいちばん違うと思われるのは、「人と人の契約は、契約期間というものがあるけれど、神と人の契約には契約期間というものがない」ということです。
ふつうわれわれが、商取引などで交わす契約書には、必ず何年何月何日から何年何月何日まで、どうこうする、ということが明記してあります。そして、その期間を過ぎるとどうするか、ということも書いてあります。終了するのか、継続するのか、継続に当たっては契約条件が変わるのか、変わらないのか、などなど。
ところが、神と人の契約には、「期限」という発想がないのですよ。「いつまで」という発想がない。「この先、世々限りなく、永遠に」です。だって神さまが永遠な方だから。
もちろん、「旧約」「新約」と言ってるくらいだから、「旧い契約」が「新しい契約」に切り替わるという発想はあるわけです。でも、それは、あらかじめ決めておいた契約更改ではない。すくなくとも、契約の片方の当事者だった人間側は予想してなかったわけです。あくまで神さまが一方的にやってることです。
「始まりと終わりがあるのがキリスト教の歴史観」なんて言う人もいますが、しかし、この場合の「終わり」というのは、「完成」のことで、完成したあとは、やっぱり永遠があるわけです。「神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」(ヨハネの黙示録22章5節後半)って言うくらいですから。
この「終わりのない契約」という、「契約」にしてはいささか異常な「契約」の考え方が、どういうわけか人間同士の契約に入り込んでいる例は、わたしの知るかぎり「結婚」というシステムに限られると思います。
「キリスト教の結婚は契約です」なんて、わたしも司式するときには微笑みながらサラリと言ったりしてますけど、しかし、結婚契約はふつうの契約と違います。それには「終わり」というものが想定されていない。無期なのです。これはオソロシイ。
結婚してから、「ああ、この結婚は間違っていたのかも知れない」と思うことが、人生ありえないわけではありません。人間、成長し、変化してゆくのですから、人生やり直したいと思うことがあってもいいでしょう。
しかし、にもかかわらず、原則的に結婚というのは契約更改という発想がありません。ですから、この結婚契約を破棄して、やり直すには、解決金や慰謝料といった損害賠償や違約金にあたるものが必要になるようになっているのです。結婚にまつわる日本の法律も、すでにキリスト教の契約思想の影響を受けた欧米の法律を模倣して作られているわけですから、当然、キリスト教的な契約結婚の要素が含まれているわけです。
まぁわたしの個人的な感想を言えば、結婚も有期にして、契約更改制にしたらいいのに、と思うのですが、まぁこの話はこれくらいにします。
結婚を1年毎の契約更改制にしたら、もうすこし離婚も楽になるし、妙な罪責感からも解放されやすくなるし、だいいち、長年連れ添うにしても、「もう何年目だね」と言い合うのもいいもんだし、毎年ふたりの契約条件を確認して(暴力はふるわないとか、イジワルは言わないとか、家事を手伝う、とか、いろいろ約束)、気持ちを改めるというのもいいじゃないですか。でもまぁこの話はもうやめます。
それでもおトクな、いい契約
なにが言いたかったかというと、「洗礼」というのも、終わりのない契約のようなものなんですよね。これは、まぎれもなく神と人の契約です。
ですから、ひとたび洗礼を受けると、あとは、あなたが、教会に行かなくなろうが、祈らなくなろうが、神さまのことなどすっかり忘れようが、そして、あなたがかつて自分は洗礼を受けたなどということさえも忘れてしまおうが、その洗礼は無期有効なのです。ありがたいでしょう?
けれども、これ、いい契約じゃないですか。
だって、一方的に雲隠れしたって、警察とか裁判所の調査員とかが追っかけてくるわけじゃないでしょう?
たとえば、教会の献金を滞納したって、個人的にしつこい性格の牧師なら追っかけてくるかもしれないけど、法的には自由な寄付なんだから、訴えられたりなんかしないでしょう? これ住宅ローンの契約だったら、とんでもないですよ。
そんな風にして、教会とのお付き合いを一生放置することもできるし、でもね、ひょっとして、とんでもない間違いが起こって、「やめた」と思っていたはずのキリスト教に、「やっぱり戻ってみようかなぁー」なんて気持ちが起こったりなんかする可能性も、全くないとは言い切れないでしょう? 人生何が起こるかわからないですから。
それでね、もしも、そういうありえないと思うようなことが起こってしまったときでも、「戻ってみようかな」と思ったときに、いつでも戻れるのが、キリスト教のいいところなんです。
これ、神さまと人間の無期の契約、なかなか都合よくできてるでしょう?
そして、もしもあなたが教会に戻るというような、とんでもないカン違いをやらかしたときには、教会の人たちは、大昔のキリスト教会で、教会を離れていった人が戻ってきたときの気持ちを表した聖書の箇所を読みながら、恨み言ひとつ言わず喜んで迎え入れてくれるでしょう。……ていうか、そうでないとダメです。
『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』(ルカによる福音書15章6節より)
〔最終更新日:2005年2月5日〕
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