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 Q. キリスト教ではSMはダメなんですよね? やっぱ変態ですよね?

 私は自分のことをいじめてくれると気持ちよくなります。
 縄でしばられたり、足で踏みつけられたり、口汚く罵られると、どうしようもなく感じてしまうんです。
 こういうのは、キリスト教では本当にいけないんでしょうか。
 教会の牧師先生には、絶対にこんな事は言えません。サタンだと言われるのはわかっています。
 でも、もっと困った事に、私はうちの教会の牧師先生が好きなのです。彼が私のことを「お前みたいな罪深い奴が、地獄に堕ちてしまえ」と言っていじめている所を想像するだけでイってしまいそうになるんです。
 やっぱり、私って変態なんでしょうか? 地獄に堕ちるんでしょうか?

(2002年、ある関西の神学校で聞いた話から)

 A. 信じる気持ち的には問題ないですけど、出会いが少なくて大変かも、ですね。

  SMもそうですし、スカトロ、赤ちゃんプレイなども含めて、いわゆる世間では「性的倒錯」と言われているものを、罪だとかサタンの仕業だと言って責めるクリスチャン、特に牧師は多いでしょう。また、最初から人間ではないかのように相手にしない人もいるでしょう。
 しかし私は、別にいいんじゃないのと思います。というのも、性のあり方というのは、当人にとっては自分という存在を肯定できるかどうか、「私は私のままでいいのだ」と自分で認め、「私は私のままで愛されている」と感じることができるかどうかの、かなり重要な問題だからです。
 性は「わたしがわたしであること」と深く結びついています。その人の性がどのような内容なのかということは、その人自身が「どうすれば自分を肯定し、自分への愛を確認できるか」ということです。
 ですから、ある人の性行為のタイプが他の人と違っているからといって、簡単に否定してすませてはいけないのです。

 私の乏しい知識からの分析ですが、SMというのは権力関係、あるいは支配と被支配の関係を性行為における重要な要素として取り入れている性行為だと思います。
 ですから、たとえば普段の生活が人に強い権力で命令し、支配する事が多い仕事だった場合、その偏った生活で歪んでしまった心を矯正し、バランスを取るために赤ちゃんプレイを愛好するような人がいると聞きます。
 SMの場合、例えばS(サディズム)を愛好する人は、それまでの幼少期からの養育歴の中で、大人たちに支配され、屈辱を与えられ続けて育ち、性行為において相手を征服したり、命令し支配したり、屈辱を味わわせて謝らせたりする行為を伴いながら性行為を行っている可能性があります。その場合、その人にとっての性行為というのは、自分の失われた尊厳を取り戻す大切な癒しの行為です。ただ、激しくなった場合には「復讐」になることもあるので、その場合、暴力に発展しないように、気をつけたり、被害者になりそうだったら逃げないと行けない事もあり得ますが……。
 またM(マゾヒズム)を愛好する人は、逆に支配し、権力を振るう事を、本人の希望とは関係なく強要されてきた可能性があります。そんな生い立ちや現在の生活で崩れたバランスを戻すために、支配され、征服されてみる側に自分の身を置いてみることで、他人に支配され、自分を忘れて身を任せてしまい、忘我の快感を得るという場合があるのではないでしょうか。
 また、SとMというのは、一人の人間の中でも入れ替わることがあります。元来支配され、征服される事に快感を感じていたMの人が、その快感を想像して楽しむために、あえて相手をいたぶるSにスイッチする、といったことも起こりえます。

 いずれにしろ、一見「変態」「異常」「倒錯」に見えるこれらの性行為についても、実は本人の心の癒しに関する大切なプロセスが含まれているのだ、ということを配慮しなくてはいけません。
 世間の多くの人は、「男女の」「子づくりの本能による」セックスしかないかのような誤解に完全に洗脳されています。しかし、人間の性というのは、子づくりの本能によるものよりも、そうでないものの方が多いのです。
 こうして述べているSMも、それからLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなど、性的少数者と呼ばれる人たち)も、子づくり/子孫繁栄に役立たないという理由で、多数派の人びとから「自然の法則から外れている」とか「神の意図に反した罪である」と糾弾されたりしますが、多数派の人たちも別に子づくりのためにするセックスなんて一生のうちでも、ほんの数回で、それ以外はほとんど自分の快楽のために、あるいは相手の快楽のために無理をしてでも性行為をしているものなのです。
 そして、いわゆる「正常な性行為」をしていると自分では思っている人でも、どんな人を好きになるか、どんな年齢の人を相手に選ぶか、どんな体系の人がこの身なのか……など、実態をいろいろ調べていくと、やはり「変態」としか言いようのない性行為をしている人は多いのです。
 ですから、私たちは、この問題については、かなりおおらかに考えたほうがよいように思います。
 性行為というのは、子どものを作るためだけにあるのではなく、特に人間の場合は、自分の生を肯定できるかできないかの、非常に切迫した要求に基づくものなのであり、人間が千差万別なのと同様、生のあり方も千差万別なのです。「変態」でない人はいない、と言い切っても過言ではないでしょう。

 そうやってくると、実は性行為の相性というのは、実はなかなかベストなカップルというのは存在しないんですよね。
 SM愛好者も、たとえばソフトSMのように、「ちょっと手をタオルでしばってみようか」とか「ちょっと目隠ししてみようか」といった程度のものなら、遊び感覚でたまには……といって相手が納得する場合もあるかもしれませんが、「亀甲縛りで天井から吊るしたいんだけど」とか「ろうそくを垂らしたいんだけど」「鞭でしばきたいんだけど」というような過激なものになってくると、相手が同じような行為を求めているかどうかは、かなり難しくなってくると思います。
 あるいは、いわゆる多数派と呼べる、「普通の」人びとでも、なかなか自分の性への要求を完全に満たせる、相性のよいパートナーというのは、なかなか見つけられないもので、皆いくぶんかは不満が残っているものなのです。
 そうすると、メディアを使って(絶対にメディアが必要というわけではない人もいるでしょうが)自慰行為をするか、お金を払って相手をしてくれるプロの店に行くという事も選択肢として考えられます。どうしても自分の相手をしてくれる人を見つけようがない場合、そのようなサービスを提供する店を頼るということも、私は罪ではないと思います。また、そういう人をお客様として接する職業の人も大事な仕事をしておられると思います。
 絶対に許されないのは、素人の相手に、相手がそれを望んではいないのに、自分の望む行為を強制的に要求することです。SMに限らず、お互いに同意できない性行為はするべきではありません。あくまで双方の合意がとれている事でないと、行なってはいけません。

 というわけで、多数派の人たちがいかに「変態だ」「異常性欲だ」と言ったとしても気にする事はありません。
 性的に少数派の人びとへの差別がなくなるのが理想ですが、クリスチャンや牧師、神父、その他教会の人びとがあなたを非難する傾向は、しばらく収まらないでしょう。しかし、そういう非難に遭ったら、「ああ、この人たちは狭い世界しか知らないんだなあ」と思って軽蔑しておけばよいのです。
 また、許容度が低い人が多いなと思った場合は、自分のプライバシーをあえて公開する必要はないと思います。友人は口の堅い人を選びましょう。そして、いつか自分の良いパートナーは自分の前に現れることを、祈り、求めることが大切だと思います。
 「求めなさい。そうすれば、見つかる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイによる福音書7:7)という言葉を信じて進みましょう。
 ただ、教会の牧師を好きになった場合、あなたの性的指向をその牧師が肯定してくれる確立はかなり低いと言えます。それはあなたも気づいていることですね。ただ肯定してくれないだけではなく、クリスチャンとしてあるまじき罪であると断罪されてしまう可能性もあります。ですから、牧師に自分のことをオープンにすることには慎重であったほうがよいと思います。

 最近は少しずつ、ご自身がLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなど性的に少数派の人びと)であることを公表する牧師が現れてきました。そういう人たちは少数派であることでいろいろ苦労しているので、あなたの孤独や自己否定をよく理解し、癒してくれると思います。ネットで検索するなどすれば、出会いのチャンスも出て来るでしょう(悪意のあるサイトであるかどうかは、自分で判断しなければなりませんし、その判断の結果を自分の責任で引き受けないといけませんが)。
 どうか理不尽な自己否定に陥ることなく、「私は私」と思って、素敵な出会いを求めて日々を楽観的に過ごされることを願っています。
(2012年2月27日記)

〔最終更新日:2012年2月27日〕

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