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 Q. あんな人でもクリスチャンなんですか?

  「すぐ怒る、ひとの事をゆるせない、しつこい、すぐキレる、スネる。あの人、よくあれで牧師なんかやってられるなぁ。牧師って、みんなあんな感じか?」
  「あんな人でもクリスチャンやて言うのが信じられんわ……」

(2000年9月に受けた質問より)

 A. 大きなお世話というものです。

人を基準にしてはいけない


  「あんな人でもクリスチャンと言えるんですか?」とあなたが言いたくなる、その基準はなんでしょうか?
  酒ですか? タバコですか? 賭け事ですか?
  それとも、性格の問題ですか? すぐ怒るとか、他人に厳しいとか? または、下品なジョークばかりとばして大笑いしているとか。
  あるいは素行の問題ですか? ケチであるとか? ひょっとしたら不倫しているとか?
  「クリスチャンとはこういうものだ」という基準があるのなら、逆に教えてください。

  多くの人は、神を見る前に人を見ようとします。
  人の生き方を見て、キリスト教とはどういうものかを判断しようとします。
  これは日本ではクリスチャンが圧倒的少数者だからそういう現象が起こるのだと思います。日本で珍しく「神さまを信じましょう」とか「もっとも大切なのは愛です」だなんて、照れもせずに言えてしまう人びとって、どんな連中なんだろう。そういう好奇心が起こっても仕方がないです。
  で、どんなやつだといざ見つけてみたら……

  実際に個々のクリスチャンを見ても、それでキリスト教はすばらしいと思うことは、あまりないと思います。
  だってクリスチャンだって、ただの人だからです。
  そりゃあ、たしかに世の中には本当に尊敬できるクリスチャンというのはいらっしゃいます。
  マザーテレサ、キング牧師、コルベ神父……。
  しかし、そんな人だけがクリスチャンかというと、そうではない。烏合の衆のなかにうもれるクリスチャンもたくさんいるのです。


目を世界に転じれば

  いったい世界に何人クリスチャンがいると思いますか? 20億人ですよ。世界の30パーセントはクリスチャンです。英会話のジオスでは「英語を話せると10億人と話せる」と宣伝していますが、キリスト教を信じると、ジオスの倍の人数とコミュニケートできるのです。……と言い切れるほど世界の情勢は甘くはないようですが、それはジオスとて同じことです。
  世界の3分の1が善良で愛に満ちた人びとに覆われていたら、地球はもっとすばらしい場所になっていたはずです。
  話がズレるようですが、イスラームはキリスト教に次いで信徒数が多く、12億人はムスリムです。イスラームは過激な原理主義者のアブナイ集団だと思っている人もおかしいのです。12億人が過激なテロリストだったら、人類はすでに滅んでいます。ほとんどのムスリムが平和主義者なのであって、ごく一部に原理主義者がいるということです。
  そして話をクリスチャンに戻しますが、全てのクリスチャンが大多数のアメリカ人のように、「悪の枢軸をやっつけろー」とか「神はアメリカを守りたまえり〜♪」と歌っているわけではなく、あれは世界のクリスチャンから見れば、ごく一部の一国の原理主義者なのです。
  クリスチャンのほとんどは、ふつうの人なのです。

  アメリカの話ばかりするようですが、たとえばアメリカでは80パーセント以上がクリスチャンです(まじめに教会に毎週通っているかどうかは別として。最近減っているのは事実ですが)。すると、8割以上の人口がクリスチャンなら、その中には善良な市民が含まれれば、殺人犯や大統領まで含まれるわけです。「クリスチャンである」ということは「人間である」というのと同じくらいの意味を持つのです。そんな中では、「クリスチャンのくせに」なんて言い草をする人はいません。犯罪の被害を受ける人も、加害者もみなクリスチャンだからです。

  しかし、日本の場合は、クリスチャンは圧倒的少数派です。しかも、日本にキリスト教を持ち込んだ、特に明治以降どっと入り込んできた北アメリカのピューリタン精神の塊みたいな宣教師たちは、強烈にきびしい道徳律を持ち込んでそれを日本人に受け入れさせようと努力します。だから、そういう宣教師たちの影響を受けてクリスチャンになった日本人たちも当然そういうガチガチの道徳家を目指すことになります。そのために「キリスト教=かたくるしい、まじめ、酒飲まない、冗談わからない」というステレオタイプなクリスチャン像が日本で根づいてしまったのでしょう。
  そのステレオタイプに支配されている限りは、じっさいのクリスチャンを見ても、「おまえはそれでもクリスチャンなのか。クリスチャンだったらもっとクリスチャンらしくしろ!」と言われてしまったりするわけです。


洗礼を受けたといっても

  実際人間が洗礼を受けた(水をかぶったとか、水の中にどぶんと沈んだとか)からといって、人格が生まれ変わるわけはありません。
  それは儀式なのです。それまで神と離れていた人生を改め、新たに神と共に歩む人生の決断をし、その神さまとの約束のしるしとして、古い自分を洗い流し、新しい自分に生まれ変わるということを「象徴」として行い、人生の再スタートを切るわけです。
  だからといって、人間が根底から変わるわけがありません。性格が変わるわけでもありません。
  「私は神に救われて変わった」と声高に話すクリスチャンを見ることがあります。ジョージ・W・ブッシュなどはその類です(ボーン・アゲイン・クリスチャン)。
  しかし、じっさいには、洗礼を受けてからもひどいことをしつづけているクリスチャン(ブッシュは最たるものですが)もいます。
  もっとも多いのは、洗礼を受ける前とあとでは、あまり変化がないという人が圧倒的なのではないでしょうか。

  そもそも洗礼というものは、自分の人格を変えるために行うものではありません。いや、じっさいそんなことでは変わるはずがないのです。
  キリスト教というのは「赦し(ゆるし)」の宗教でもあります。赦されて生きるとは、こんな人間でも生きていていいんだ、と確認する宗教だということです。
  自分の至らなさ、弱さ、小ささ、罪深さ、それへの「赦し」なくしては生きてはゆけない、そう思っている人の信仰がキリスト教です。
  赦されているから開き直るというのではなく、自分が赦されているのだから、人をも赦す。人の至らなさ、弱さ、小ささ、罪深さを認め、それを責めたり、あざけったり、もてあそんだりしない、年齢や素性や社会的立場、地位などに左右されない、人間に対する尊重というか敬意というか丁重な態度というものがあるはずです。そういう形で生き方が変わってくるという人もいます。これは洗礼を受けて人格が変化する場合もあることのひとつの例でしょう。


変わる必要なんてない

  「クリスチャンは常に尊敬されなければならない。高貴な生き方を演じ、神さまと人の前に『証し』をたてなければならない」と思い込んで、妙にインテリぶったり、居丈高になったり、あるいは妙に気取った態度で人に接する人がいます。また、クリスチャンとして一目おかれなくてはいけないために、どんな仕事も3人分やろうとして、結局、うつ病になってしまった人もいます。

  本当は変わる必要なんてないんです。
  ありのままでいいのです。
  
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)と書いてあるように、神さまの前で本当の自分を知ってしまったら、人間は本来、何も飾る必要もないし、何を隠す必要もない。すべて神さまにはお見通しなのだから、人に対して一生懸命隠したり装ったりしてみても、しかたがないではありませんか。

  「あんな人がクリスチャンなのか、大したことないな」と言いたい人には言わせておけばいいのです。「そんなにおまえのほうが立派なら、おまえがクリスチャンになればいいじゃないか」くらいにと思っておればいいのです。この日本でクリスチャンになる勇気もないくせに、偉そうに人のことをからかうな。
  そして、人が何を言おうと、そんな人びとから離れて一人になったら、神さまに祈りをささげてみてください。「傷ついた私を包んでください。私の本当の姿を愛してくださるのは、あなたしかいません」と。


〔追記〕

クリスチャン同士で差別し合っている場合

  これまでのお話はクリスチャンが、ノンクリスチャンから「あんな人でも……」と言われる場合を想定していました。
  しかし、実は案外、クリスチャンどうしが、「あの人はあれでも本当にクリスチャンのつもりなのかしら」と、他人を批判し合っているという実に滑稽なことがよく起こっているのです。
  「あそこの娘は恋人ができて、もう最後までいってしまったようだ。嘆かわしい!」とか、「あそこの奥さん、最近離婚したらしいわ。離婚は罪よ」とか、「あの人は最近好きな人と同棲しはじめたらしいわよ。汚らわしいわ。結婚もしてないのに!」とか……。クリスチャンがクリスチャンを裁くことのほうが多いのかもしれません。
  お気の毒様と言わずにはおれない事態ですが、本当は批難している側のクリスチャンたちも怖くて仕方がないのです。今まで自分たちが真実だ、正しい、と思って生きてきたライフスタイルが空しい努力だったように思わされるのが怖くて、「罰が下るぞ」「あなたがそんなに罪深くても、神さまは赦してくださっています」とか言ったりして、しきたりを破る人を攻撃するのです。
  そう、「神さまが赦して下さっている」のならそれで十分なのです。神さまはゆるしてくださるけれども、ゆるさないのは人の心の狭さなのです。
  勇気を持って神さまはどんな人間をも、その行いに関わらず愛してくださる方なのです。人間の予想も、計画も、およばないほどに大いなる方なのです。その方の愛を信じて、勇気をもって生きてゆきましょう。

〔最終更新日:2006年2月25日〕

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