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 Q. キリスト教では自殺は罪なんですよね?

 学生時代、私の友人が自殺しました。私の知っている限り、お葬式はなかったと思います。
 やっぱりカトリックの家庭の子だったからかしら……自殺はカトリックでは大罪なんですよね。だから、ご両親も死因を隠しておられたみたいですけど……
 でも、そういうことをするから、結局普通の死に方じゃなかったんだって、みんなにわかってしまうんですけどね……。

(1990年代、ある関西の神学校で聞いた話から)

 A. 犠牲者を罪に定めてはいけません。

お葬式はしてもらえます

 自殺は「大罪」というわけではありません。
 よくカトリックで言われる「7つの大罪」というのは、傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲ですね。この中にも自殺は入っていません。しかし、キリスト教において自殺が罪として扱われてきたのは事実です。そういう評価をし始めたのは4世紀のアウグスティヌスの時代で、罪であるという評価が定まったのは、7世紀以降、トマス・アクィナスの時だとも言われています。
 そういうわけで、カトリックでは自殺は禁じられているので、カトリックの信徒が自殺で死んだ場合は、その死は封印され、神父も葬儀を引き受けてくれない、というウワサがまことしやかにささやかれていたりしますし、実際そういう場面を描いた欧米の映画があったりします。それは、確かにかつて欧米では本当にそうだったからです。
 また日本のキリシタンの時代には、細川ガラシャ夫人が、武士の妻として自害しなければならないときに、自害は罪であるとして、家臣に槍で突かせたという話も伝わっています(この場合、家臣に殺人の罪を犯させるということにはならないんだろうか? 家臣はキリシタンではないから良いということなのでしょうかね)。
 しかし、現在では、実際にはカトリック教会で自殺者の葬儀を拒否するというような事は、少なくとも日本ではまずないと言っていいそうです。死因が何であれ、葬儀を拒否するということ自体が非人道的なわけで、たとえ自殺であったとしても、葬儀を行って欲しいと言えばちゃんとやってくれます。

なぜ自殺は罪とされたのか

 自殺を禁じるというのは、考えてみたら当たり前かもしれませんね。たとえば、「自殺を許可します」というのは変です。これではまるで自殺を奨励しているみたいですね。
 自殺が神に対する罪であるとされたのは、やはり、生命というものは人間が自分で造ったものではなく、神さまから与えられたものだからだ、という考えが根底にあるからです。
 人間は生命を自分で造り出すことができません(今のところは)。生殖によって次の世代を生み出すということはありますし、実験室で生命体を加工したりすることはできます。しかし、何も無いところから生命を誕生させることはできません。生殖やクローンやiPS細胞の形成などは、神が備えた生命の法則に則って生命を再生産しているに過ぎないのです。
 キリスト教では、生命は神が創造したものだと考え、一人一人の生命も神から与えられたものだと考えます。そして、人間は神から「生きよ」と命じられているのだと考えます。
 したがって、生命を自分から捨てる、あるいは自分を殺す事は(他者を殺すことと同様に)神への反逆であり、罪なのだということなのです。人間は自分で生命を造り出すことができないが故に、自分でそれを破壊する権利もないのです。
 そういうわけで、自殺は伝統的に罪であるとされてきました。

自殺は本当に罪だろうか

 しかし、いま改めて考えてみると、自殺は自殺した人の罪である、とは簡単に言い切れないようなケースも多々あります。
 たとえば、ある人が経済的に困窮したり、あるいは社会的に抑圧されたり、人権を無視されたり、虐待を受けたり、犯罪の被害を受けたりして、心身の傷に苦しんだあげくに、死によって苦しみから解放されたいと願って、自らを死なしめたとしたら、それは完全の本人の罪だ、神に対する傲慢だと言い切れるでしょうか?
 経営していた会社が倒産して、従業員に給料を洗えないばかりか、自分も莫大な借金の取り立てに追われ、破産したくても自分が保証人になっている人まで共倒れしてしまうことになるので、そんな事をしたら命を狙われかねないし、家族には大きな迷惑がかかるので離婚せざるをえず……そんな状況で「自分は生きていても人に迷惑をかけるだけである」「この先、生きていても全く希望というものが見えない」と判断して自らの命を絶ったとします。
 その場合、会社が倒産したのは、もちろん本人の仕事能力による原因もあったかも知れませんが、それと同じくらい、あるいはもっと大きい世界の経済事情が影響を落としている場合があります。
 人間には必ず優劣はあるのですから、勝つ時もあれば負ける時もあるわけで、ライバル会社がたまたま自分と同じ市場で自分と競合して負けた場合でも、それはたまたま自分の近くにライバルが来たからなのであって、そうならなければ負けなかったかも知れません。
 何が言いたいかというと、それは自分の意志で選び取った敗北とは限らないということです。確かに自分にはその敗北の責任があるかも知れないけれど、その敗北は自分の意志で生み出したものではないということです。その敗北によって死にたいと思っても、その死は自分にとっては不本意なのではないかということです。
 また、社会的に敗者、弱者になってしまっても、そのまま見殺しにするかどうかは、その社会におけるセーフティネットが完備しているかどうかによっても違います。すると、いったんこの社会で敗者になった人が、そのまま絶望して死を選ぶ以外に道が無い社会なのか、それとも敗者復活戦が認められる社会なのかによって、自殺するかしないかが変わるのなら、自殺は当人の責任だけではなく、社会にも責任があるとは言えないでしょうか。
 そう考えると、ますます「自殺は当人の罪」とは簡単には言えなくなってくるのではないでしょうか。

自殺者は被害者でもある

 また、先ほど少し触れましたように、経済的困窮だけでなく、健康上の理由で今後生きていても自分が元気になる可能性がないとわかった人の自殺もかなりの数に上るそうです。いじめを苦にした自殺もありますし、虐待や人権侵害を受けても逃げ場が無い場合、死んでしまう場合もあります。犯罪の被害者になって心身ともに傷ついた結果、生活に支障を来たして自殺する場合もあります。
 そのような場合、自殺した人に責任があるとは、どう間違っても言えないのではないでしょうか。
 むしろ、そのような自殺の場合、死んだ人は被害者であり、犠牲者です。
 犠牲者に罪を問うというのは、間違っていると言わざるを得ないでしょう。
 そういう観点から考えても、自殺者を罪人扱いするのは間違っています。
 キリスト教会も、このような当然の理屈で考えた結果は受け入れなくてはならないでしょう。
 「命を与えた神に対する冒涜である」というのも、一つの正論かも知れませんが、「自殺した人もまた被害者である」というのも決して無視してはいけない視点です。
 したがって、自殺したことを理由に当人の罪を問うということは、しなくてもよいのではないかと思います。
 もし、どうしても責任を問いたいなら、自殺者を止める、自殺者数を減らすことのできない社会に問題がある、そのような社会を作ってしまっている一人一人の社会人に責任があると言わざるを得ないでしょう。

理由のない自殺

 それから、もう一つ触れておかねばならないのは、「理由のない自殺念慮」というものもあるということです。「自殺念慮」というのは、「死にたい」と思う気持ちのことですが、「◯◯が嫌だから死にたい」とか「△△になってしまっているから、つらくて生きていたくない」というような具体的な理由がなくても、人間は「死にたくてしようがない」と思うことがあるのです。
この場合、「うつ状態」にある、「うつ病」にかかっている、あるいは「双極性障害(そううつ病)」にかかっていて、うつ期にある……などが考えられます。つまり、脳があまり健康ではなくなっているのです。
 うつ病などの心の病も、原因がはっきりしている場合はありますが、明確ではない場合もあります。自分では少しも原因に思い至らないのですが、よく調べてみると、実は何年も前に受けていた、ある精神的な虐待やハラスメントが、あとになってゆっくりと症状として出てくるということもあるのです。
 まして、絶えず激しいストレスや葛藤にさらされている生活を続けていると、脳が健康を失い、心が病気になってしまっても、何の不思議もありません。その場合、ある原因があって心が健康を崩してはいるのですが、「いま自分は死にたい」と思っている理由自体ははっきりしない、ということがよくあるのです。
 ですから、自分でも何がつらくて死にたいと思っているのかよくわからないけれども、とにかく死にたいと思っている場合は、カウンセリングや心療内科、神経内科、精神科など、専門家に相談してみるのがよいと思われます。
 ただし、このような専門家の人たちも人間ですから、あなたとの相性がいいか悪いかわかりませんし、苦手分野、得意分野があったりします。ですから、1人目のお医者さんの言うことに納得がいかなかった場合は、セカンド・オピニオンを求めて他のお医者さんにかかっても構いません。
 カウンセリングは通常50分で5000円取るところが多いようです。しかし、悩みが専門的あるいは特殊な、普通の人にはわかりにくい分野の事柄であった場合(たとえば宗教的な悩みなどは日本では苦手なカウンセラーが多い)は、50分で10000円近く取るところもあります。カウンセリングは医療ではないので、健康保険が適用されないのです。
 お医者さんの場合は、あまりカウンセリング的にゆっくりと時間をとって話を聴いてもらえることは期待しない方がよいでしょう。他の風邪や切り傷などと同じで、たいていのお医者さんは症状を聞いて、その症状に対処する薬を処方してくれます。そんなに長時間の問診ではない場合が多いです。
 ほとんどのお医者さんは心の病気に対しては「問診」で診断します。あまり科学的な検査方法を使っている所はまだありません。ほとんど患者の話を聴いて判断します。ですから、自分の辛さを大げさに言えばたくさん薬が出たり、遠慮していると少ししか処方してくれなかったりということもあります。ですから基本的に遠慮はしないで、自分の自覚症状を正直に言ったほうがいいでしょう。
 ただし、例えば、睡眠導入剤ばかり何種類も大量にどんどん出す……にも関わらず症状が改善しない、というような処方をする医師なら、別のお医者さんをあたってみた方がいいでしょう。向精神薬(心の病気に対処する薬)というのは、患者さんのタイプによってかなり効き目が違い、同じ睡眠薬でも、同じ抗うつ剤でも、効く人もいれば効かない人もいて、ものすごい種類の薬が出ています。ですから、自分に合った薬がすぐに見つかるということがあまりないのです。また、たとえ自分に合う薬であったとしても、効き目が現れるまで飲み続けて2週間はかかるというものもたくさんあります。
 ですから、どんどん大量の似たような薬を処方するのではなくて、ある処方で効かなかったら、その薬はやめてみて他の同じ効果が見込まれる薬を使ってみる……そういうことを、日数をかけて地道に探ってくれるようなお医者さんだったら信頼できるでしょう。こちらも気長に構えるほうがよいようです。
 お医者さんに、「◯◯病」ですねとか「△△障がいですね」と診断してもらうと、何も分からない状態だった時よりも、気持ちが楽になる場合があります。自分が「死にたい」と思うのは、自分が悪いからではなく、他人のせいでもなく、病気が悪いんだと思えますから。
 病気にかかっているための苦しみはありますが、それにしても原因が病気だったとわかるだけで、少し気持ちが楽になりますから、お医者さんに行くのは遠慮しないほうがいいと思いますよ。(2012年2月21日加筆)

自分の罪意識ゆえの自殺

 ところで、自分が被害者であるというわけではなく、また病気だからというのでもなく、「ただ自分が生きているに値しないような罪深い人間、あるいは生きていてもしょうがないような取るに足らない人間であるが故に、死にたい」と思ってしまう場合もあるでしょう。
 何か自分の言動や行為によって、人を大きく傷つけてしまったとき、または信頼を失ってしまったり、取り返しのつかないような失態をしでかしてしまったり……。「覆水盆に返らず」という言葉もありますが、人生には一度失ってしまうと取り返しのつかないものがあります。そして、そのために、それまでの人生の時間が無駄に消えてしまったかのように感じてしまうこともあるでしょう。
 そんな時、「もう自分は生きていてもしょうがない」「生きていても意味が無い」「生きていても人に迷惑をかけるだけだ」といった思いにかられるのは不思議なことではありません。つまり、自分を死刑に処して、罰してしまいたいのです。
 もちろんその場合でも、自殺念慮そのものが罪だということはありません。あなたがそういう思いにかられてしまうのは、成り行き上自然なことであって、そう思うのは仕方のないことなのです。
 でも、そこであなたが死ぬのがいちばん良い方法であるかというと、そうとは限りません。
 後でももう一度詳しく述べますが、あなたが自殺することによって、更に大きく罪を上塗りする場合があります。いや、往々にしてその可能性が高いのです。あなたは確かに誰かを傷つけてしまったかも知れませんが、そこであなたが自殺する事で、更にその相手を復讐のような形で責め落としてしまうことになりかねません。
 ですから、もし、それ以上相手に迷惑をかけたくないのであれば、謝罪だけ述べて、その謝罪が受け入れられようが、受け入れられなかろうが、それ以外の言葉は控えて、その人の前から去るのが一番よい方法でしょう。また、何らかの償いをしなければいけない場合も、姿を現さず、償いだけをするのが良いでしょう。
 被害を与えてしまった当事者から物理的に離れてしまえば、あなたには、また新しい場面での新しい人生のチャンスが待っています。ですから、「死ぬ」という形では何も解決しないということを肝に銘じてください。(2012年2月27日加筆)

でも自殺はしないでください

 さて、私がここで「自殺は罪」という考え方はやめよう、と言っているのは、自殺は悪い事ではないから、遠慮しないでくださいね、と言いたいからではありません。
 どうかみなさん、自殺をしないでください。
 月並みな言い方ですが、自分の命を大切にしてください。
 人間は、いつかは必ず死にます。それを急ぐ必要はありません。
 これもまた月並みな言い方ですが、生きていれば必ず変化が起こるチャンスがあります。
 ただ、変化を起こすためには、自分から変化を求めて冒険しないと、何も変わらない事が多いということは言えます。ですから、変化を求めて今の状況から脱出してください。
また、なるべく独りぼっちにならないようにしてください。
 人に傷つけられた人が、人に近づきたくない、人を信じられないということがあるのはわかっています。しかし、世の中には少数派ではありますが、信じられるような人もいるのです。そのような人との出会いの可能性を最後まで捨てないでいただきたいのです。
 そして、これに関しても、やはり自分から出会いを求めてゆかないと、何も変わらないという厳しい現実があるのは事実です。ですから、自分で行動してください。
 この文章を読んでいるあなたは、このウェブサイトを通じて、このウェブ教会の牧師とのコンタクトする事ができます。牧師も人間ですから限界はありますし、このウェブサイトの運営が本業ではなく、余暇を見てやっているボランティア活動のような者ですから、あなたに十分なことはしてさしあげることはできないと思いますが、たとえばメール・フレンドになるような事ならできます。時間的に可能な限り、話し相手になることができます。そんなものでも、無いよりはあった方がましだと思っていただけるなら、こちらもありがたいと思っています。
 もし話し相手が必要なら、遠慮しないでください。
 独りぼっちにさえならなければ、生きることに完全に失望しなくても済むかもしれませんから。

最後に……自殺が罪になるケースについて

 最後に、自殺が罪ではないと言いながらも、自殺が罪になり得る場合もあるという事について、触れておきたいと思います。
 自殺ほど、身近にいる人に耐え難い傷を与える行為はありません。
 特に、何の役にも立てないけれども人知れずあなたのことを心配しているような善良な人に、「自分が死に追いやってしまったのではないだろうか」「私が至らない故に死んだのではないのか」という、それこそ死んでも答が出ないような残酷な疑問と罪悪感の中に叩き込むことになります。
 自殺が残された人に大きな傷を与えることを知っていて、復讐のために自殺という手段を選ぶ人もいるようです。いじめ、虐待などの被害者の方にそういう意図を持って自殺する人がいることは理解できます。
 しかし、その意図は達成されません。それで逆に傷つくような感性の持ち主なら、あなたをいじめたりはしません。加害者が感性が鈍いためにあなたを平気で苦しめるのであり、あなたが罪悪感を受け付けてやろうと思っても、加害者たちは何も感じず、普段と全く変わらず平気な顔をして生きてゆくでしょう。つまり、あなたの死は犬死にになります。
 そして、傷ついてしまうのは、あなたのことを守りたいと思いながらも何もできずにいて悩んでいる善良な人だけなのです。
 あなたの復讐を意図した自殺は、犬死にであるだけではなく、善良な人をそれこそ「私も死にたい」と思わせてしまうほどに傷つけてしまう罪を犯すことになるのです。
 ですから、そのような自殺はおやめください。
 自殺すること自体、大変なエネルギーを要することだと思います。どうかそのエネルギーを新しい人生を切り開くために使ってください。
 気持ちの上で、今の自分を殺して、新しい自分に生まれ変わるというのは、良い事です。どうかそのような方向で生きてください。どうか、お願いします。
 

〔初版:2012年1月29日〕
〔第2版:2012年2月21日〕
〔最終更新日:2012年2月27日〕

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