「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. 洗礼を受けたら、家の仏壇や位牌はどうしたらいいんですか?
Q1. この度思い切って洗礼を受けました。ところが私は長男で家に仏壇があり、その中に位牌もあります。洗礼を受けるときには気にはしていませんでしたが、いざとなるとこのような異教の品物を家に置いておくのは許されないことではないかと思い始めました。
 教会の牧師に相談すると、そのような異教の礼拝をするものは処分してしまいなさいと言われました。それで仏壇を処分しようとしたのですが、親族の強い反対にあいました。先祖の祟り(たたり)があるというのです。
 また、仏壇を処分しても、その中に置いてある位牌には、表側の戒名はともかく、裏側には両親や祖父母の名前が書いてあります。それを捨ててしまうのは、いくらクリスチャンでもやはり気持ちが落ち着かないものがあります。このような考え方自体が罪深いのだろうと思いますが、どうにも位牌は捨てる気になりきれません。
 このような場合、どうしたらよいでしょうか。

Q2. 若い頃からの念願がかなって、クリスチャンの方と結婚することができました。クリスチャン・ホームを作ることができて、とても嬉しく、誇らしい気分でした。
 しかし、洗礼を受ける前は私は特に宗教に入ることもなく、普通に仏式の風習の中で生きていました。そして、長男だということで、祖父母や両親の位牌を預かっていました。
 クリスチャン・ホームに育った妻は、仏壇や位牌に対しては、あえてはっきりと言葉で言ったりはしませんでしたが、どうしても受け入れがたいらしく、位牌が置いてある場所に近づくのも嫌がりました。また、私が位牌を置く場所を変えようと思って持ち歩いただけでも、「気持ち悪いから、どこか見えないところに置いて!」と言う有様でした。
 私としては、人生の途中で洗礼を受けましたので、位牌については両親がそばにいてくれているような愛着があります。それを妻に否定されるのは辛いです。
 しかし、そういう風に感じたり、考えたりすること自体が、罪なのかもしれないと思うと、悩みます。
 私はどうしたらよいのでしょうか。位牌は捨てるべきなのでしょうか。焼いたらいいのでしょうか。。


 A. 捨てなくてもいいんじゃないですか
 結論から言えば、捨てなくてもいいのではないでしょうか。
 ただ、配偶者の方がどうしても話をわかってくれないのなら、兄弟姉妹がいる場合はそちらに預かってもらうとか、親族に預かってもらうとか(まあそういう場合、長男のくせに情けない! などと批判をされることもあることは十分予想されますが)、そういう方法はあります。
 また、どうしても自分の家に置いておかないといけない場合は、配偶者の方には決して見えないところとか、気にしなくて済むようなところを配偶者の方と相談して、決めてみないといけませんよね。
 自分は位牌は大切にしたいという思いは大切ですし、配偶者の方の嫌だという気持ちをいかに相談によって妥協点を見つけるかだと思います。
 少なくとも、仏壇や位牌を大切にしたいという気持ちを否定する必要はありません。そんなことは罪でもなんでもないんですよ。

 以下、iChurch.me:三十番地キリスト教会の見解を少し詳しめに書いてみます。長文になりますので、読みたい人だけお読みいいただければ結構です。


▼異教だからと目くじらをたてる必要はない

 よく教会によっては、また牧師さんによっては、洗礼を受けたら家の仏壇を処分しなさいとか、位牌は捨てなさいとか言われることもあろうかと思います。
 これは単純に、キリスト教以外の宗教は全て異教であり、邪教であるという考え方が根底にあると思われます。
 ですから、仏壇や位牌などを家に置いておくと、邪教に基づくものを置いているということで、激しく叱る牧師さんがいたりするわけです。

 しかし、歴史的に見てキリスト教の布教というのは、もともとそこにあった信心を頭から否定する形で行われてきたとは限らないのですね。
 例えば、4世紀から10世紀にかけて行われたローマ教会にるゲルマン系諸族への布教は、基本的にはゲルマンの信心や風習を否定するのではなく、それらを上手く取り込む形で行われました。例をあげれば、クリスマスはゲルマンの冬至の祭を取り込んだものです。樹の精霊を拝む風習を取り入れて、クリスマスツリーにしました。またイースターはゲルマンの春の祭を取り込んだもので、うさぎや卵によって象徴する風習ももともとはゲルマンのものです。
 さらに言えば、安土桃山時代、日本に最初にキリスト教を伝来させたパードレたちは、日本人キリシタンたちがデウス(神のラテン語)を大日如来と同一視するのを止めませんでした。
 そのように、キリスト教の布教の歴史には、布教する先の民族の風習をうまく取り込んだものがあったのです。

 それに比べて、明治時代以降、日本に入ってきたプロテスタントの人々は少し態度が狭量、あるいは強引だったのかもしれません。「キリスト教以外の宗教は間違っている」と言って頭ごなしに否定したのですね。そして、その態度は今でもプロテスタントの多くの人々に受け継がれています。
 ひょっとしたらそのようなプロテスタントの人々は、「我々はカトリックのようにいい加減ではないのだ」と主張するかもしれませんね。
 けれども、そのようなプロテスタントもルーツを辿れば、カトリックがゲルマンに布教したおかげで西欧にキリスト教が広まり、そこからプロテスタントが出てきたのですから、そこまで否定してしまうと自分たちのルーツをも否定することになってしまいます。
 それにプロテスタントの祖、マルティン・ルターも喜んでクリスマスツリーを使っていた(彼がクリスマスツリーを考案したという説もあります)そうですから、様々な風習をキリスト教の中に取り込むことに対して、そう目くじらを立てる必要はないのではないかと思うのですね。

 話を戻しますが、当教会(三十番地キリスト教会:iChurch.me)の立場としては、そういうわけで、仏壇を積極的に拝みなさいとまでは言いませんが、仏壇や位牌を捨てるほどのことでもないだろうと思うわけです。

▼仏壇や位牌を思う心は罪じゃない

 宗教学的に言うと、仏壇や位牌というものは、個人や祖先を象徴したものだと言えます。象徴というのは、そのものではないけれども、それをサインとして示すものです。
 はっきり言って、宗教というものはほとんど象徴のシステムなのです。
 例えば、お墓はただの石の塊です。ハンマーで割っても誰にも罰は当たりません。しかし、なんだかハンマーをお墓に振り上げる気はしませんよね。それはお墓が亡くなった家族・親族の霊を思い起こさせるものです。石は石に違いありませんが、私たちの脳はそこに祖先の霊を思い起こす機能を持っているのです。これが象徴の機能です。象徴というのは、人間の脳の機能なんですね。
 例えば、キリスト教の場合は、十字架は木や金属でできた物体に過ぎません。しかし、そこに人間の罪のために命を捧げたイエス・キリストを見るというのも、人間の脳の象徴機能によるものです。
 洗礼の時の水もそうです。ただの水にすぎません。しかし、それを頭にかけたり、水の中に潜ったりすることで、過去の罪を洗い流し、過去の自分に死んで、新しい命に生まれ変わるということを体験的に感じることができます。
 そのように、見えないものの力を見えるものを通して感じることができるというのが、象徴の機能なのです。

 同じように、仏壇や位牌も、お墓と同じように、亡くなった家族・親族を象徴しているものと見られます。それは、ただのこの箱で、字の掘られたただの木の固まりに過ぎませんが、人間はそこに亡くなった人の魂を思い起こしてしまうのです。
 これはクリスチャンであろうがなかろうが、それこそクリスチャンでもお墓や納骨堂を見ると思い起こしてしまうのも同じことなんですよね。
 同じ脳で起こっていることであり、似たようなことをしているのですから、クリスチャンが他の宗教の大切な象徴の道具を破壊しても良いなどと考えるのは、大変良くないことです。逆にクリスちゃんがお墓や十字架を破壊されたり、洗礼の水や聖餐式のパンやブドウ液を捨てられたらどんな思いをするのかを考えてみたらいいと思います。
 
 そういうわけで、仏壇や位牌を大切にしようと思う気持ちは、要するに、亡くなった家族や親族の魂を大切にしようと思う気持ちであり、その点ではクリスチャンもそうでない人も同じなのですから、亡くなった人を思い起こす道具を捨てる必要はないということです。

▼祖先は崇拝するものではなく、敬愛し平安を願うもの

 ただ、注意しておきたいのは、キリスト教は祖先そのものを崇拝する宗教ではありません。
 ですから、仏壇や位牌やお墓を前に祈りを捧げる場合も、亡くなった家族や親族、また親しい人などの魂が、御心ならば神さまの元で、すでに亡くなった他の人々の霊とともに安らぎが得られますようにという願いを捧げることで問題はありません。
 仏壇の中には仏像もありますが、クリスチャンが一神教徒である限り、神以外の存在に祈りを捧げることはありませんので、仏像を拝む必要はありません。
 また、亡くなった人々・祖先を神のように崇拝する必要もありません。それらはあくまで人間の霊なのであって、神の霊とは異なります。ですから、祖先が神のもとで憩うことを願えば良いのであって、祖先を崇拝はしなくて良いのです。

▼もしどうしても処分したい場合は

 人生の途中でクリスチャンになった場合、洗礼を受ける前から仏壇があったという人は少なくないと思われます。
 その場合、そのまま置いておいて、特に拝む必要がないということで、放っておいても問題ないでしょう。同居人の中でクリスチャンは自分だけということも往々にしてあるでしょうし、その場合、そのまま置いておいて、同居人が拝む場合はそのままそっとしておけば良いのです。
 そして、実はそうやって家庭内の不要なトラブルを避けるために妥協しているクリスチャンはあなたが想像するより多いのです。

 また、クリスチャンどうしの結婚ということになった場合、仏壇と仏像の存在があまりに大きすぎるようであれば、引き取りをしてくれる業者があります。
 葬儀社にお願いすれば、仏壇や仏具の処分に相談に乗ってくれるはずです。専門業者を紹介してくれる場合もあるでしょう。仏壇の規模によって値段は異なるでしょうけど、無難な方法で引き取ってくれるはずです。その際、仏像も処分したいということであれば、ひょっとしたらお寺が絡んでくるかもしれませんが、それも相当の料金で引き取ってくれるはずです。

 仏像などというものは何の意味もないただの物体なのだと割り切れるのなら、そのまま粗大ごみか埋め立てゴミとして捨ててしまえばよいのです。祟りも呪いもありません。
 ただし、そのような捨て方をした場合、どこの家の誰が捨てたかはすぐに近所の人々に知れ渡ります。そうすると、「なんという不信心な」とか「非常識だ」とか「キリスト教なんてろくなもんじゃない」と悪評が広がるでしょう。そうなってしまってはキリスト教の印象が悪くなるだけで、決してキリスト者の証にはなりません。それはただの自己満足です。
 ですから、処分をしたい場合は、人に知られない形で処分することをお勧めします。

 実際には、クリスチャンであっても、どうも気持ちが悪いと思うことも少なくないと思います。それなら、先ほど申し上げたように、葬儀屋さんに連絡を取るのがよいでしょう。それなりのお金を払わないといけないですが、見積もりを取ってできるだけ安く上がるようにお話をしてみてください。
 クリスチャンであるのに、仏像を処分するのに罪悪感を感じるなんて……私の信仰は純粋ではないのだろうか? と自分を責める必要はありません。それは先ほど申し上げたような人間の脳の無意識に動いてしまう機能なのですから仕方がないのです。神さまが人間の脳をそのように作ったのですから仕方がありません。

 さて、こんな風に仏壇や仏具、位牌についてひとしきり考えてみましたが、いかがでしょうか。参考になりましたか?。

(2015年10月31日記)

Clip to Evernote

〔第1版:2015年10月31日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる

 教会の案内所へ戻る