引っ越したのに、もといた教会には「引っ越しても転会してはいけない。あるいはもし転会しても献金だけはちゃんと教会におさめるように」と牧師には言われています。なんだか、私自身がどうこうというより、献金が少なくなるのが問題みたい。なんだかそんな教会がいやになってしまってます。こんな風に考える私は間違っているのでしょうか? しかし、どうしても牧師の態度には納得がいかないのです。
(2003年9月にメールでいただいたお問い合わせより)
基本原則は個人の自由
本当は、教会に行ったからといってお金をたくさん取られたり、というのはありえない話なのです。
初めて教会に行こうかなと考えている人は、どうぞ安心してください。教会はお金をとりたてたりなんかしません。たしかに礼拝のプログラムの中に「献金」というのがありますが、あれはどれくらい献金しなくてはいけないという決まりもありませんし、あなたの財布の状態しだいで、1円玉を放り込もうが、1万円札を投げ込もうが、全く自由なのです。
重ねて申し上げますが、献金は自由です。
ただ、聖書のなかでは……
「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない」(申命記14章22節)
……という言葉があり、これを根拠に「十分の一献金」というのを実践している人もいます。自分の収入の十分の一の相当額をちゃんと毎月献金している人はいます。いますけれども、基本的には本人の気持ちによって決断してそうするものなので、強制ではありません。
洗礼を受けようと迷っている人がいて、献金について質問したときに、牧師に「収入の十分の一が目安です」と言われて、「そんなにはできません!(生活かかってます!)」と驚く人がいます。そういうことを真顔でお話される牧師もいらっしゃいます。しかし、牧師というのは、基本的に住居費や光熱水道費、および場合によってはガソリン代までも教会に出してもらっている人がいるので、一般市民の生活感覚とはずいぶん違っている場合があるので、そのつもりで聞き流しておいたほうがいい場合もあります。
しつこいようですが、結論は決まっています。
献金額は自由なのです。
洗礼を受けていなくて礼拝の席上でする献金も、洗礼を受けてから月ぎめで教会に約束をして献金をする「月定献金」などをする場合にも、その金額は自分で決めればいいのです。
ところが、時々こういうケースが……
ところが、最近、当三十番地キリスト教会に寄せられてくる質問メールのなかに、多くなってきているのが、「牧師が献金を強制またはそれに近い態度で迫ってくる……」というケースなのです。
どうやら最近、いくつかの教会では、引っ越した先にも連絡してきて、引越し先の近所の教会に転入したいのに、それを許可せず、あるいは転会までは認めたとしても、献金だけは引越し先の教会だけでなく元の教会にも送るように、としつこく要求する牧師がいたりするそうなのです。
また、献金額の多い教会員には言いなりなのに、献金額の少ない人々には冷たい態度を取る牧師もいたりするそうなのです。
そういう姿勢を示す牧師に対しては、すっぱり人間関係を切ったほうがよろしいでしょう。
教会によっては、となりの土地を買収して教会を拡張・増築したいとか、新しい会堂に建てかえるために必要な献金なのです、と言って教会員に増額をお願いしたりする場合など、いろいろ教会にも事情があるときもあります。
しかし、そのあたりは教会員と牧師のコミュニケーションさえうまくいけば話が丸く収まる場合もあれば、他でもないお金の問題ですから、話がこじれることもよくあります。
いずれにしろ、自分の納得がいっているかということが一番大事なのですよね。
献金によって教会が支えられていることは事実なので、自分に見合う形で自由意志にしたがって、その責任を担いましょう。
(さいごは穏便な結論になったな……)
〔2006年3月6日〕
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三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
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