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 Q. 教会で献金をたくさん要求されて困っています。
洗礼を志して牧師に相談したのですが、献金の話になってからビックリしてしまいました。なんと収入の十分の一を教会に捧げないといけないと言うのです。
正直申し上げて、わたしもそんなに高所得ではないので、収入の十分の一を捧げてしまうと、生活がかなり苦しくなります。しかし、牧師先生はそれがクリスチャンとしての義務だとおっしゃるので、今回は洗礼を受けることを見送ることにしました。
本当にクリスチャンの方は、みなさん収入の十分の一を献金しておられるのでしょうか? またそれではかなり裕福な人しかクリスチャンにはなれないという気がしますが、貧しい人はクリスチャンになることはできないのでしょうか。

 A. そんな教会はおやめなさい。
▼十分の一献金の由来

 「十分の一献金」を要求されるというケースはよく聞きますね。
 これは例えば、旧約聖書のレビ記27章30節に「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」と書いてあったり、同じくレビ記27章32節に「牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する」と書いてあったりする部分が、根拠になっているのでしょうね。
 自分が収入として得たものは、神さまからのお恵みであって、感謝の気持ちとしてその一部を捧げるというのは、素晴らしい信仰と言えます。
この「十分の一」の献げ物というのは、主なる神に対する感謝の献げ物と位置付けられていたわけですが、その実際の献げ物はどのように扱われていたかというと、それはレビ族という、イスラエル民族の中でも宗教的な役割をする部族に対して、報酬として支払われていました。
 民数記18章21節に「見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である」と書いてあります。そして、このレビ族の人々も、自分の収入の10分の1を献納物として主に捧げることを求められていました(18章26?28節)。

▼王制になり重税に変わる

 しかし、イスラエルが小さな民族として小ぢんまりと生活しているうちはそれでも良かったのかもしれません。畑の穀物を1本も残さず刈り取ってはならないという戒めもあるように、貧しい人には豊かな収穫を得る人がある程度助けるという風習がイスラエルにはありました。
 ところが、やがて、イスラエルの中に「王制を取り入れて、もっと強い国になろう」という動きが出てきます(紀元前10世紀ごろ)。周囲の国ぐにが次々に強い王国になって、イスラエル民族に不安を与えたからです。
 この民衆の要求に対して、預言者サムエルは警告を発しています。その王は「あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える」(サムエル記上8章15節)、「また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(同17節)。
 これはもはや献げ物ではなく税です。それも、社会の富を民に還元する再分配の税ではなく、王が民衆に対して強制的に徴収するものです。
 サムエルが警告したのは、税のことだけではありません。
 「まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の隊長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。
 また、あなたたちの娘を重用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
 また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える」(同11?14節)。
 「あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる」(同16節)
 これらの搾取の上の上に十分の一税が載せられるという世の中に変わってゆくわけです。そして民衆はどうなるかというと……
 「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」(同17?18節)
 というわけで、紀元前10世紀には、「十分の一税」は権力者が臣民を圧迫し、臣民から搾取し、臣民を奴隷にするための道具となってゆくわけです。そのために民が貧しく苦しい生活に陥ってしまっても誰も助ける人はいません。

▼何重もの税制のひとつ

 このような厳しい生活に加えられた十分の一税という体質は、イスラエル王国が滅んで、ユダヤ人国家へと移っていってからも、祭司やレビ族に対する税という形で引き継がれます。祭司やレビ人は民族の中で聖なる職業として特権階級に属するようになってゆきました。
 イエスの時代には、ユダヤの国はローマ帝国の属国になっており、ユダヤはローマ帝国全体の中では軽蔑され、差別されておりましたが、ユダヤ人社会の中では中で、ちゃんと権力構造が出来上がっており、その時代には、宗教的な役割を果たす祭司たちが、政治的にも経済的にも最高権力者となり、一般民衆の上に君臨していました。祭政一致の時代にはよくあることです。
 この祭司階級すなわちユダヤ人社会の上流階級は、神殿を根拠地としていたため、「神殿階級」とか「神殿勢力」あるいは「神殿貴族」と呼ばれたりもします。
 この神殿貴族たちが相変わらず民から十分の一税を徴収していましたが、これが「神殿税」とも呼ばれるものです。
 当時のユダヤ人民衆は、ローマ帝国への人頭税や通行税、関税などの様々な税制に加えて、神殿税を課せられ、その他にも罪の贖いのための献げ物を要求されたりと、二重三重の税に苦しめられていたわけです。
 このような状況は今の私たちが置かれている状況と似ていると言えるかもしれません。私たちも所得税、住民税、自動車税、ガソリン税、消費税、固定資産税、相続税……ありとあらゆる税を持って行かれていますから、これにもうひとつ神殿税のようなものを持っていくよと義務付けられたらたまったものではないわけです。
 そもそも税というものが、レビ族に支払う10分の1だけで済んでいた世の中とは全然違う。収入の何割もの税を持って行かれて、まだその上に10分の1をオンするというひどいことをやっていたのが、イエス当時の神殿税で、それは現代の私たちの生活とも変わらない。税のために生活が破綻する人もゴロゴロいたのです。

▼納税を皮肉ったイエス

 イエスはこのような税制に対して、どのように振る舞ったか。
 参考になるのは、マルコによる福音書の12章13?17節の、ローマ皇帝への税金についての問答です。
 ここでファリサイ派やヘロデ派の人が数人イエスのところにやってきて、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」(マルコ12章14節)と質問しました。
 これはイエスにかけられた罠です。ファリサイ派はユダヤ人の律法(戒律)を重要視するグループで、ユダヤ人の独立性の観点から、ローマ帝国への税金に反対していました。これに対して、ヘロデ派の人々は、ローマの傀儡政権としてユダヤ人からの税金を巻き上げるヘロデ王の家系に対する信奉者ですから、親ローマ派でローマへの税金は払うべきだと主張していました。
 本来は反発し合う仲であるはずのこれらの会派が結託していたのは、イエスという共通の敵を見つけてしまったからでしょう。こういう自分たちの政治的主張よりも政治的駆け引きの方を優先する万年野党のやり方もどこかの国の様相を見ているようであります。
 とにかく、この対立する2つの会派が一緒にイエスを問い詰めることで、例えばイエスが「ローマへの税金は納めるべきだ」と言うとファリサイ派がイエスを訴える口実を得、「納めるべきではない」と言うとヘロデ派が彼を訴える口実を得るという魂胆になっています。
 これに対して、イエスはどう答えたのか。
 イエスはデナリオン銀貨を持ってこさせて、「これは誰の肖像と銘か」と訊きます。銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻んであります。するとイエスは言いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(同17節)。
 この言葉については様々な解釈がなされていますが、イエスはここで皮肉を返すことで、敵の罠を逃れたのではないかなと私は思っています。
 「皇帝のものは皇帝に返せ」というのは、一見ローマ皇帝への税金を認めているように聞こえます。ローマの貨幣は全て皇帝のものとされており、だからこそ皇帝の肖像と銘が刻んであるからです。だから税金というのは貨幣を皇帝に返すことなのです。これを推奨しているのがヘロデ派です。
 また「神のものは神に返せ」というのは、神殿税のことを指しています。これを推奨しているのがファリサイ派です。
 イエスの敵が問いかけたのはローマ皇帝への税金のことだけでした。なのに、彼はなぜ神殿税のことまで持ち出したのでしょうか?
 つまり、「皇帝への税金が重税だというなら、神殿税も重税だろう」ということをほのめかしているのではないでしょうか。
 言葉の上では、両方の会派が推奨している税金を認めているように聞こえます。しかし、実際には聞かれてもいない神殿税のことを持ち出して皇帝への税金と並べ、民衆から搾取しているという点では同じことだろうという皮肉を浴びせているのです。

▼財産の全部を献げた時もあった

 もう一つ宗教への献金という問題について思い当たるのは、イエスの死後の初代教会では、持っているものを全て教会の共有財産にするという行いが記録されているところです。
 使徒言行録には「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産は持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒言行録2章44?45節)と書いてあります。
 これは10分の1どころではありませんよね。全財産を教会のために処分しなさいと言っているのですから、現在の基準で言えばカルトです。
 現在の教会では全財産を献げなさいと言う教会はほとんどありません。あったらカルト認定されて、牧師たちの手にロープがかかることになるでしょう。
 しかし、「本当は全財産を献げないといけないんですけどね」と牧師たちが言わないのはなぜでしょう? 「初代教会では皆、全財産を献げていたんです。私たちは妥協しているんです」ということは言いませんね。なぜでしょうか?
 また、「古代のイスラエルでは収穫の10分の1を献げていました」ということをなぜ殊更に献金額の根拠にするのでしょうか。またなぜ紀元前10世紀以前の時代なのでしょうか? 例えば紀元後1世紀のイエスの時代にはそれは民を圧迫する重税の一つであったのにです。
 結局は、確実に献金を献げてもらうのに、ある程度の収入のある人については10分の1程度がよかろうという概算の判断で、それに都合の良い聖書の箇所を選んできたということに過ぎないのではないでしょうか。
 しかし、イエスの時代が私たちの時代と似ているように、たくさんの重税が行政によって課せられている中で、その判断はもはや家計の実情に合わない、苦しい支出になる人がほとんどなのではないでしょうか。
 そういう意味で、十分の一献金を強引に主張する根拠は薄い、と私は思います。

▼献金要求を激化する牧師たち

 十分の一税についてずいぶん話が長くなり、失礼いたしました。
 これに加えて、最近の教会では収入の10分の1と決めているわけではなくても、殊更に献金を増やすように信徒に要求する教会が増えているようです。
 例えば、新しい礼拝堂を建設するために、たくさんの献金や寄付が必要になったとか、信徒の数が減って献金総額が減少し、一人当たりの献金額を増やさないと牧師が生活できなくなりそうだなど。
 これらについて、個別の事情を鑑みないで簡単に批判することはできないと思います。
 しかし、献金額を確保するために、他の地域に引っ越しても教会を転会することを許さなかったり、転会したとしても献金だけは元の教会に送るように強要したり、牧師の言う通りの献金を行わない人は神の命令に背いた者ですと教会員たちの前で吊るし上げにしたりといった牧師たちの情報があちこちから耳に入ってくるようになると、そのような献金の求め方はどうなのよ、と言いたくなりますね。

▼やもめの献金の再解釈

 先にも聖書を読んで検討してみたように、イエスは重税にあえぐ民の立場から(しかし自分の身を守るために明言は避けつつも)、神殿税を皮肉ってみせました。決して、彼は神殿税に賛成していたわけではなかったのです。
 その反面イエスは、マルコによる福音書12章41?44節にある「やもめの献金」として知られているエピソードでは、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12章43?44節)と語っています。
 これは乏しい中から生活費を全部出せと言っているのではありません。この貧しい婦人の献金が素晴らしいと褒めているわけではありません。
 ひょっとしたらイエスは、そのように神への感謝をありったけの生活費を献げることによって表している一人の貧しい婦人の献金が、結局は神殿貴族に吸い上げられて浪費されることになるのになあと、この婦人を憐れに思って嘆いているのかも知れません。
 こんな神殿がいつかは崩されて、石の上に石が残らないほどまでに破壊されることを予言しているようなイエスですから(マルコ13章1?2節)。

▼まとめ……税の重みをさらに増す必要はない

 こうして色々な聖書の箇所を読んで考えてみますと、少なくとも2つのことが明らかになってくるように思えます。
 1つは、聖書の根拠に献金の金額を決めようとすれば、あちこち様々な箇所があって一概には決められないということ。あるいは、「10分の1」であると一部の聖書の記事だけを取ってくるのはいい加減だということです。
 そしてもう1つは、イエスの言動と置かれていた状況を考えると、その時の行政による多くの重税にあえぐ民の視点から、彼が神殿税をそのままに認めていたわけではないだろうということ。たとえ、神への感謝を献げることには反対していなくても、神殿貴族たちが多くの財を吸い上げ、貯め込むことには決して賛成していなかったであろうということが読み取れます。
 
 というわけで、結局は、贅沢な生活で浪費するわけでなければ、各々の生活が苦しくならない程度に、しかし、できる限りの感謝のしるしを、個々人の良心に応じて献げるのが良いということになるのではないでしょうか。
 その個々人の自由を侵害するような形で献金を要求されるなら、そのような教会からは足の裏の埃を払い落として(マルコ6章11節)出て行ってしまえば良いと思われます。
 もし自宅まで追いかけてきたり、プライバシーを過度に侵害するような行為があったら、相手が牧師であろうがなんであろうが、警察に通報しましょう。

(2016年12月20日記)


〔第1版:2016年12月20日〕

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