「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. クリスチャンは売買春してもいいんですか?
私は洗礼を受ける前に買春をした経験があります。
社会一般にも悪とされることですし、洗礼を受ける際にもそういった悪と戦うと宣言したはずなのに、守ることができませんでした。
そして、一度してしまったことを再びしてしまうのではないかと怖いです。
おそらくこのままでは、私自身の悪癖は続いてしまうことでしょう
こんな自分が教会で他の信徒と交わりをもっていたり、奉仕をしているのは嘘つきで白々しいと思ったりもします。
あまりにも大きな罪で、どうすればよいかわからなくなります。なにか助言をいただけないでしょうか。

(2016年1月にメールでいただいたお問い合わせより)

 A. まずはワーカーの尊厳に心を向けましょう
▼そんなにあまりにも大きな罪だろうか?

 まあ、なんというか、確かに聖書にも、パウロのように「売春婦と寝るのは罪だ」と書いてある部分もあるわけですが、これに対してイエスは
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイによる福音書21章31節)と、当時の宗教的エリートである、祭司長たちに言っているくらいなので、少なくともイエスにとっては、「人に身体を売る」売春という行為に関して、神の国に入るかどうかということの排除の基準にはならなかったということですよね。

 それに、僕の知るかぎりでは、売春というのも職業の一種ですし、それで生計を立てている人もいるんですよね。遊び半分でやるには結構きつい職業ですし、本職かアルバイトかに関わらず、やりがいを感じて真剣にやっている人もおられます。

 そして、そういう職業の人を支えるお客も、サービスを受けて対価を払っていて、その職業がちゃんと職業として成り立っている以上、お客も悪いとは言い切れないとは思うんですよね。
 食事やお酒を提供する業者、タバコなどを売っている店と何が違うのかと言われると、売る側も買う側もリスクのある業種という点ではあまり変わらないように感じるんです。
 だから、あなたが何か他よりも重大で根本的な罪を犯したという感覚が僕にはありません。

▼お互いのリスク

 ただ、お互いにリスクの高い売買です。相手から病気をもらったり、逆に相手にうつしてしまったりということもあるでしょう。売春をしている人からお客が病気をうつされるよりも、お客から売春をしている人がうつされるリスクのほうがはるか高いと言います。お客であるあなたが清潔でないと、相手にダメージを与えてしまうことになる。しかも黙って。これはフェアなトレードとは言えません。
 そのうえ、乱暴な行為を要求して怪我をさせたりすることもあるだろうし、そういう意味で、相手に傷を与えてしまう。そういう罪を犯す可能性は高いです。

 また、お互いに他の人に見られたくない場面をさらしている瞬間でもあるわけで、なんかそんな時に大地震とか大火事とか起こったらいやだなとか。
 そして、例えば異性愛の売買春行為を通して、どちらかが妊娠したということになれば、大変なことになりますよね。それでできた子どもについては、今度は子どもの生命や尊厳、養育の責任という問題もついてきます。
 まあだから、いい加減ではなくきちんとした避妊方法を実践しなくてはいけません。まあ、それはプロならちゃんと予防措置を取ろうとするでしょうが、買う側もそれにちゃんと対応し、協力しないといけません。
 ですから、そういうリスクに対して、自分も相手をも守る方策は常に考えてお客さんになってくださいね。

▼依存について

 それから、あまりそのサービスに依存しすぎないようにしてください。依存と言っても、あまりに通いつめて、自分の財政が破綻してしまわないようにしないこと、また、日がな一日そのことばかりを考えて、社会生活に支障を来たしてしまったりということがない程度なら良いのですが。
 実は「風俗依存症」などという言葉はありませんが、「共依存症」という症状はあり、簡単に言ってしまえば対人依存症、セックス依存症も含みます。恋愛やセックスに常に携わっていないと自我が保てないという心理学的な問題を抱えた人は一定数いらっしゃって、自分がそうでないかどうかは心療内科でチェックすることもできます。
 もし、自分が恋愛感情やセックスの対象としてしか他者を見ていない場合、あなたは本当の意味での愛を知らないままに人生の大事な時間を浪費してしまうことになりますから、セックス依存からは卒業できるように努力することをお勧めします。
 といっても、セックスをしてはいけないと言っているのではなく、本当に相手のことを大切にしあえる愛の関係の中で幸福なセックスをするほうが、買春でするセックスよりもあなたを幸福にしてくれるのではないかと思うから、このようなお勧めをしています。

 とはいえ、「今すぐパートナーを作りなさい」と言われても、すぐにそういうわけにもいかないでしょうし、出会いの場が限られているから、このようなサービスのお世話になる必要も出てくるわけなので、「急いで卒業しなさい」というわけではありません。ゆっくりでいいですから、きちんとしたパートナーが見つけられるように、努力や工夫をしてゆけばよいと思います。

▼教会での態度について

 さて、教会の人の前でしれっと自分のプライバシーを隠しているのは、どの教会員でも日常茶飯事、同じことです。
 教会では聖人君子のような顔をしている人が、家では家庭内暴力の常習犯だったり、万引きの癖が抜けなかったり、職場や学校でいじめの加害者になって人を傷つけて平気な毎日を送っているとか、よくある話です。誰もかれもがしれっとして生きているんです。
 誰だって罪人です。あなただけが自分の後ろめたいことを隠しているわけではありません。
 他の人と自分を比較する必要はないのです。

 あなたの教会の牧師さんがどんな方なのかは知らないので、牧師に話すべきかはその人の人格を見てみないとなんとも言えませんが、私はわざわざそんなことを話さない方がいいように、一般論的には思います。
 そのことで牧師さんが「この人はそういうことをする人なんだ」と偏見の目で見たりするようになれば損ではないですか。牧師だって人間ですから、全く偏見なしにあなたを責めないでいるということができない人もいるでしょう。
 それに、いくら相手が牧師でも、そんな自分のやっていることの生々しい場面を想像されてしまうのも嫌でしょう。だから、あなたの胸の内に留めておく方がいいのではないかな、と思います。相当信用できる人で、このような問題にもしっかりと見識を持っていて、絶対に秘密を守れるということであればいいんですけどね。

▼自発的労働と人権侵害の違い

 繰り返しになりますが、イエスにとっては売春をしているかどうかが、神の国に入るかどうかということは全く関係ない。むしろ、売春をしている人の方が宗教的エリートよりも先に入るのだとまで言いました。
 そして、私たちは売春をして自分の意志で生計を立てている人の、労働者としての権利と尊厳ち安全を重んじなくてはいけないとも私は考えます。
 そのあたりを心してお客になる人はサービスとお金を等価交換するフェアなトレードをするべきだと思います。

 それに加えて、売春は絶対に本人の意志に反して強制されるべきものではありません。
 身体を他者に触れさせるというだけでも、本人にとっては非常に自分の大切なものを傷つけられてしまうという感覚を持っている人は多いです。
 これは、セクシュアル・ハラスメントなどでもそうですが、本人の意志でなく自分の体に触れられるというのは、本人にとっては大きなダメージであり、重大な人権侵害なのです。
 このような重大な人権侵害を、たとえば経済的に苦しいから仕方がなかったという理由で本人の意志であるかのように、あるいは自業自得のように簡単に判断するのは間違いです。
 人権侵害されることによってしか経済的な必要を満たせない、生きてゆくことができないという社会の状況がどうかしていると言うべきでしょう。

▼社会によるハラスメント

 そういう意味では、たとえばかつての軍隊慰安婦の問題について、やれ「本人の意志でやっていた職業だ」とか、やれ「あれは軍隊に騙されての強制連行ではなく自由意志による志願制だったのだ」とか、やれ「国は関与していない。民間の業者だ」などという論議は全くナンセンスです。
 たとえば、貧困に陥ったり、家族を十分食べさせるために稼ぐ必要に迫られてしまった時に、あまりに就職事情が悪かった時には、徴兵制ではなく志願制であったとしても、軍隊に自発的に入隊するということはよくあることです。志願制だから本人の自己責任だというのも、全く意味をなしていません。本人がそう選ばざるを得ないように為政者が追い込んでゆくという政策が現実にあるわけです。
 それと同じように、経済状態の悪い中で、食べてゆくために慰安婦を志願した人は当然いたでしょう。それは自分の本来望む相手との性行為を望む、ということとは全然違います。
 経済があまりに悪い状態に追い込まれたから、自分の人権を犠牲にしてでも食べなければならなかったのです。そして、その受け皿としてちゃんと慰安所というものを用意して、その人権侵害によって成り立つ事業を、国であれ、軍であれ、軍隊の周辺組織であれ、民間事業者であれ、行っていたということが問題なのです。

 ですから、売春ということを考えるとき、その仕事自体が本人の人間としての尊厳、プライド、自分を大切にする心、自由などを侵害しているかどうか、ということをまずは配慮しなくてはいけません。
 その場合、本人も自分の人権が侵害されているということに気づいていなかったり、自分が傷ついているということから心を背けている場合も十分考えられますので、その場合の配慮も必要になってきます。
 セックス・ワーカーになる人が自分からその仕事に就きたいと言って申し出てきたとしても、ひょっとしたらその背景には貧困があるかもしれない。本人にも何らかの依存症があるかもしれない。そのような問題をトータルに考えて、セックス・ワーカーになる人の尊厳がどのように守られているか、守られていないのか、ということを、お客さんになる人もちょっとは考えて欲しいと思います。

▼イエスなら

 最初にイエスの言葉を引用しましたが、要するにイエスは「売春婦や徴税人などの罪人と呼ばれる人々の方が、祭司たちのようなエリートよりも先に神の国に入るのだ」(マタイによる福音書21章31節)と言ったのです。
 これまで私が書いてきたようなごちゃごちゃした考察をイエスがしたかどうか。そんなことは直感的にイエスは見抜いていたでしょう。往々にして娼婦、つまりセックス・ワーカーが人間として全く大切に扱われていない現実を見て、はらわたがねじ切れるほど憤りを感じたのでしょう。
 そして、そういう社会の犠牲者を高みに立って「罪人」呼ばわりする宗教的・政治的エリートたちに我慢ならず、このように喝破したのだろうと思われます。
 さて、お客様であるあなたに助言するとすれば、売買春における罪というものは、あなたが単に悪いことをしたということよりも、セックス・ワーカーである人自身が人間として大切にされているかを問い、もしされていないならそれこそが罪なのではないかということを考えてくれたら嬉しいな、ということであります。
(2016年3月19日記)

Clip to Evernote

〔第1版:2016年3月19日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる

 教会の案内所へ戻る