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 Q. 教会では女の人はしゃべっちゃいけないって聞いたんですけど。

  今日は教会で、聖書のクラスがあったのですが、理解できないことがいくつか出てきたんですよね。
  
コリントの信徒への手紙T 14章34節〜なんですけど……。
  「教会では黙っていなさい」、「家で自分の夫にたずねなさい」、ここに限らず、あちこちに女性の立場をこのように現代とはかなり開きのある感覚で示してあるんですが、私は特別、ウーマンリブでもないし、女性と男性の立場の違いも、わりと保守的な感覚を持ってる方だと思うのですが、うち、主人、クリスチャンじゃないから教えてもらえないし、教会で話をしてはいけないからわざわざ「婦人会」があるのかな、とか、私、かなりしゃべってたなとか(爆)反省点も出たりして……。
  今後、わたくしはどのような意識で教会に存在すればよいのだろうか……?などなど考えています。

  【問題の聖書の箇所】
  聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。(コリントの信徒への手紙T 14章33節後半−35節)

(2003年9月にメールでいただいたお問い合わせより)

 A. 気にすることはありません。楽しくおしゃべりしましょう。

  聖書も特定の時代、社会に生きた人間が書いた書物ですから、当然、その時代の人間観の限界というものが出てきてしまいます。
  
「コリントの信徒への手紙T」はパウロの性や男女関係についての考え方がよく出ているところで、面白いですよね。でも、それを絶対的なものと思わず、「2000年前に生きたパウロはこう考えた」という程度に受けとればよいと思いますよ。


■パウロの男女観とわたしたちの受けとめ方

  たとえば、7章には彼は結婚について書いてますが、彼の基本的な考えは、男女はなるべく触れ合わず、結婚もしないほうがいい、終末が近づいているから、どうしても情欲をがまんできない場合だけ結婚してもよいけど、おすすめはしない……という考えです。
  でも、なぜ彼がそういう考え方をしたのかというと、彼が「この世の終わりが近い」と思っていたからです。この世の終わり、つまり神の裁きの時(Judgement Day)が、自分が生きてる間にやってくる、と信じていたのです。「自分の生き様を判定される日が間近に迫っているという時に、男女の関係とか結婚なんかにエネルギーを費やしている場合ではない。ただひたすらに信仰に励め」と思っていたから、彼は結婚に対して消極的なことしか書いてないのです。「そんなことやってる場合か?!」という感じです。
  しかし、じっさいには終末は彼が予想していたようにはやってきませんでした。そのまま、およそ2000年という年月がたち、何十世代もの人びとが生まれ、死に……というわけで、結婚に消極的なパウロの言葉を聖書におさめているキリスト教会でさえも、結婚に対しては(ずいぶんパウロとは異なる)きわめて大切なものという扱いに変わっていきました。

  パウロは11章にも、「女の頭は男だ」なんて言ってます。でも、わたしはこの章は面白いので好きなのです。
  8節で
「男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし」などと言ってますが、これはユダヤ教の聖書(ヘブライ語聖書あるいは旧約聖書)の創世記2章の、人のあばら骨から女をつくったという物語の話をしています。
  さらには9節で
「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」と力んでるのも、これも創世記2章で「彼に合う助ける者を造ろう」と神がおっしゃった、という物語を受けているのです。

  ところがどうやら11節あたりから、パウロは自分でも「まずいなァ」と思い始めたみたいなのですね。
  11節
「いずれにせよ(ごまかしてる)、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません(女に気を遣ってる)なんて当たり前のことを言いはじめている。
  12節
「それは女が男から出たように、男も女から生まれ(そりゃああんた意味が違うでしょ)、また、すべてのものが神から出ているからです(信仰論議に逃げている)」なんて言ってる。
  そして最後は、さじを投げる。13節
「自分で判断しなさい」。 
  たぶん、パウロの脳裡に、「でも、おまえだって女から生まれたんだろうよ……」という声が響いたに違いないんです。

  じっさい、教会はそのごくごく最初の時期から女性メンバーが多かったのです。「ローマの信徒への手紙」の末尾の挨拶(16章)にもあるように、教会の主だった働き手は、昔から女性がメインだったのです。そんな所で「女が男から出てきたんであって……」「女が男のために造られたんだゾ〜」とか言っても、「何言うてんねん、このおっさんは」と言われても仕方がない。
  そういう状況だから、パウロもじっさいの教会の中で、相手を想定しながら、語り始めた時の口調を、語っているうちに微妙に変えていっている。その例がコリントの信徒への手紙Tの11章なわけです。
 
  そういうわけで、パウロの男女に関する関する考えは、彼のおかれた状況や、彼自身の女性観が反映した、一人の人間の見解に過ぎないと言えるので、ひとつひとつの言葉を、いちいち真に受けて絶対的なルールのように用いたりはしないほうがよいですよ、ということになります。
  彼の時代の女性は、未婚の場合は父親の、既婚の場合は夫の、私物・私有財産に過ぎず、結婚しなければ異常者扱い、古くなったり気に入らなくなったりすれば捨てることもできる、という状況でした。
  そのような時代・社会においては、女性が活動の主体になれる「教会」というコミュニティは、革命的に先進的な場所だったのです。  そして、そういう教会を指導するパウロは、「その時代にしては」かなり男女差別を克服したほうだったのです。
  しかし、それでも彼も時代の子。やはりこれまで長くユダヤ教徒として生きてきて染み付いたものもあり、あまりに女性が力を発揮することに不安を覚えたということは考えられます。それで、つい手紙のなかに、(現代のわたしたちから見れば)差別的に感じられる言葉、たとえば
「婦人たちは教会では黙っていなさい」(コリントの信徒への手紙T 14章34節)を入れてしまったりしています。
  ですから、そういうパウロのよさと限界の両方を考えながら、わたしたちはわたしたちなりに、
当時ごく初期の教会が先進的であったように、今は今なりに先進的でありたいと思うのです。(2003年10月11日記)


■もう少し細かい話〜Tコリント14章33−35節について

前後のつながりが悪い……

  また、もう少しマニアックな話をしますと、あなたのひっかかったTコリント14章33節後半〜35節ですが、もう一度よくその前後も含めて読んでみてください。特に14章の初めから最後まで読んでみましょう……。
  この14章ではパウロは、終始一貫して異言や預言のことを書いているでしょう?
  そう思って今度は、問題の33節後半〜35節だけを飛ばして、その前後をつないで読み下してみてください……。どうですか? このほうが、スムーズだと思いませんか? この部分だけが、女性の教会での発言権について述べていて、これを取り除くと、異言や預言についての話ですっきりとまとまりますね。
  そういうわけで、この33節後半〜35節は、パウロが別のところで書いた手紙からここにはめ込まれたか、あるいは他の誰かが書き加えたのではないか、ということが疑われている箇所なのです。
  じっさい、コリント書じたい、もともとひとつの手紙ではなくて、パウロがあちこちでコリント宛の手紙を後になって組み合わせてひとつにしたものですから、まぁいろんなことが起こりうるわけです。

発言内容に矛盾がある……
  しかも、同じTコリント書に、女性が教会で発言することを前提にしている箇所もあるのです。たとえば、11章5節には
「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に……」と書いていますが、ということは女性が教会で預言する権利があることをパウロが認めていることになりますよね。すると、「教会では黙っていなさい」という14章34節と矛盾する。
  さらには、さっきにも書いたように、パウロはローマ書の末尾でも、教会で働く女性たちに賛辞を惜しんでいません。つまりパウロが教会で
「女性は黙っているべきだ」と書いたとは考えにくい。だとすれば、やはりこの言葉が入っている場所の不自然さから考えても、これはパウロではなく、後の人が女性を言動を制限するために挿入したのではないか、と仮説が立てられるわけです。(2003年10月11日記)

細かい話をすると……
  きちんと細かいお話をしておいたほうがよいかも知れません。手元に聖書がある人は、ちょっとめんどうな下のお話にも、聖書首っ引きでお付き合いいただければと思います。
  今の聖書学では、少なくとも、以下の理由で、この33節後半から35節を、パウロ自身の筆によるのではなく、他の人があとで編集する過程で挿入したのではないかと考えられています。

■(1)パウロは一貫して14章で異言と預言について事細かく指示をしているので、この部分の女性についての指導は、文脈と合わない。突然、話が飛んでいる。むしろ、33節前半から36節につないだほうが、すっきり内容が続く。(さっきも言いました)
■(2)34〜35節までは「婦人たちは……」と三人称女性形のギリシャ語を用いているのに、36節で急にあなたがた……」の二人称の呼びかけに変わっている。しかもこれは二人称男性形、婦人たちへの呼びかけではない。したがって、36節は、本当は26節以下の「兄弟たち……あなたがたは……」に続いている文章の可能性が高い。
■(3)同じ第一コリントの11章5節では「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に……」と書いてあるので、パウロは「教会では婦人は黙っていなさい」と命じるような人間ではないはずと考えられる。これはじっさい、パウロがローマ書の末尾で女性たちへ賛辞を送っているように、女性の活躍していた当時の教会では自然なこと。逆に、「黙っていなさい」という箇所のほうが、パウロが生きていたときの教会の状況に合わない。(これもさっき言いました)
■(4)34節で「律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」と書いてあるが、単純に律法だけを理由にして人を指導するのはパウロらしくない。律法を廃棄し、キリストによる救いと自由を主張するパウロが、単純に律法を理由にして人を拘束したりはしない。
■(5)この部分は、テモテへの手紙(一)2章11〜12節の発想と酷似している。テモテ(一)2章11〜12節はこう語る。「婦人は静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」。しかし、テモテへの手紙は、あまりにパウロの基本的な思想や用語法と違っているので、パウロ自身が書いた手紙ではなく、パウロよりも後の時代に、次第に男性優位的な組織へと変化していった教会の中で、具体的に信徒の生活方法を指導したもの、とされている
■(6)東方教会の写本では私たちの持っている聖書の通りになっているのですが、西方教会系の写本のいくつかは、この33節後半から35節までを、40節の後ろに持ってきている。

  ……というわけで、わたしも、これはパウロ自身が書いた言葉ではなく、パウロより後の時代、だんだんと女性の活躍の場をせばめて、男性優位のヒエラルキー的な組織形態に発展していったキリスト教の組織の状況を反映して、そういう段階の教会に属していた人が、あとからコリント(一)の14章後半の、預言者や異言を語る人に「語れ」「黙れ」と秩序を命じている言葉上の文脈に、「(女性も)黙れ」という命令をすべりこませた、と思います。
  聖書の中には、書かれた時点での読者のニーズや指導者のニーズを反映した、なんというか「思惑」つきの文章もあるのです。
  ですから、書かれた言葉に振り回される必要はありません。むしろ「こんな風に書いてあるということは、当時の教会はどんな状況だったのだろう?」と、歴史的な興味で読んだほうが良いかもしれません。(2004年7月25日記)

  キリスト教会のごくごく初期のパウロの時代、このイエスに従おうとする人びとの群れが、「クリスチャン」と呼ばれるようになり始めた頃くらい、あるいはそれ以前のごくごく初期の時代から、教会を支えてきたのはもっぱら女性なのです。
  ですから……

  > 教会で話をしてはいけないからわざわざ「婦人会」「女性会」があるのかな、とか……

  ……というわけではなくて、教会を元気にしているのは女性の会なのです。
  女性は教会でどんどんしゃべってください。
  ア、礼拝中はダメですよ(笑)              (2003年10月11日記)

〔第2版:2004年7月25日〕
〔第1版:2003年10月11日〕

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