「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. クリスチャンって、離婚しちゃいけないんですか?

 相談者1 「でもさぁ、結婚式のときに、牧師さんが『神が合わせられたものを、人が離してはならない』って、おっしゃってたのね。だから、やっぱり離婚したことは罪なのかなぁって思うのよ」

 相談者2 「昔は離婚してから教会に来なくなった人もいたけれど、最近、自分が離婚してから、案外そういう人って多いんだなぁってわかったんですよ。みんな黙ってるけどね。でも、なんか教会ではそういうこと、言いにくいのは事実ですもんね……。結局、教会では離婚って、どうなんでしょう?」

(2000年8月、11月に受けた質問より)

 A. おすすめはしませんが、権利はあります。

  増えてますよね、離婚。
  「キリスト教では離婚はタブーである」と思っている人はたくさんいます。じっさいカトリックでは離婚と自殺と中絶は認められていないのは有名な話です。
  プロテスタントには、そういう戒律はありませんから、自由といえば自由ですが、「離婚」と聞くとなんとなく眉をひそめる人は確かにまだおられます。結婚式で話す牧師さんの言葉の中にも「神が合わせられたものを、人は離してはならない」という言葉もありますしね。
  でも、結論から言いますと、これからのキリスト教は離婚というものを、もう少し前向きにとらえなおす必要があるでしょう。

  以下、話は長くなりますが、まぁ聞いてください。

【目次】
 1.イエスは機械的に離婚を禁止したわけじゃない。
    
補足……聖書の読み方
 2.離婚する/しないは個人の良心の問題とは限らない
 3.子どもがいる場合は?
 4.人生への寛容さ……「やりなおし」を認める
 5.とりのこされる教会
   補足……教会における離婚者の受け入れについて

1.イエスは機械的に離婚を禁止したわけじゃない。

  キリスト教の結婚式で、牧師さんが
「神が合わせられたものを、人は離してはならない。アーメン」と、指輪の交換のあとに宣言する事があります。
  これは、日本のキリスト教の最大グループである日本基督教団の結婚式文が、そういう言葉でしめくくるようになっているからで、この言葉自体は、新約聖書の
マルコによる福音書10章9節の引用です(他にもマタイ19章6節)。
  だけど、これは
本当は「離婚はいけません」という意味ではないんですよね。もしそういう意味だったら、「神が合わせられたのだから、あなたがたは離れてはならない」と言ってもよかったはずです。しかし、実際には「人は離してはならない」と言っている。要するに、「他人が」ひきはがそうとするものではない、と言っているのですね。
  しかも、この言葉がおさめられている聖書の場面では、別れようとしている男女がイエスのもとにきて相談しているのではなく、離縁論議に野次馬根性丸出しで関わっていた男たちが、イエスに論議をふっかけたという場面でのことなので、なおさら、離婚の危機に瀕しているカップルの現実的な問題からは離れたところで行われている問答なのです。

  イエスが地上で活躍していた時代、つまり約2000年前のユダヤ教の律法では、男性は気に入らない妻を捨てる権利が認められていました(
申命記24章1節)。
  捨てられた、つまり離縁された元妻が取る道は二つ。一つは父親の家に戻ること。もう一つは外で客を取る、すなわち、とにかく生きてゆくために自分の体を商品にするということ。
  しかし、当時はいまよりも寿命も短いし(平均寿命30歳前後だったという説もあります)、どちらにしろ父親はたいてい自分より先に死ぬ。だから、結局は大きな遺産でもなければ、後者、つまり売春の選択肢に流れる可能性が高いわけで。しかし、そういう商売だと当然若い方が有利なわけで、結局他の肉体労働者と同じように、歳をとるほどに商売が成り立たなくなって食いはぐれ、餓死するという末路が待っているわけです。
  その一方で、当時のユダヤ教の律法学者(例外なく男)たちが、「どういう妻の捨て方(離縁のしかた)が神の御心にかなっているか」なんてことを大まじめに論争していた、そんな時代でした。
  そんな絶対的に男性優位の社会の中で、イエスはその学者の
男たちに「神が結び合わせた結婚を人間が(おまえさんたちが)どうこう手出しするような話じゃあるまい」とやりこめた、というのが、この聖書の箇所の本来の文脈なのです。

  この場合イエスの関心は、離縁したら圧倒的に女のほうが割を食う世の中で、男に対して
「自分の妻を路頭に迷わすな」と戒めること、また「女、子どもの命の関わる一大事をおもしろがって律法談義のネタにするな」と批判するところにあります。
  問題になっているのは、「離婚がいいか悪いか」ということではなく、男性のエゴによって女性ばかりが割を食う世の中の不公平さです。だから、イエスは男が離縁することを決して肯定しなかったし、その一方ですでに離縁されてしまった女性がたとえば身売りをしていたからと言っても、責めはしなかったはずです。むしろ彼は、「売春婦のほうが、聖職者や民の長老たちより先に天国に入る」(マタイによる福音書21章31節参照)とまで言っているのです。
  だから(ここからは推測になりますが)、もし女性の経済力や社会的地位がぐっと向上して、
男性と別れても路頭に迷う心配がなくなったならば、理不尽な結婚生活を強いられることと、むしろそこから解放されることとでは、どちらをイエスは願っただろうか、という問いが生まれてくるわけです。
  歴史に「もしも」はないと言われますから、決定的なことはなんともいえませんが、たとえば、路頭に迷わないために泣く泣く結婚生活を続けなくてはならない女性がいたとして、彼女に「それでも離婚は罪だから、あなたは別れてはいけないのだ」というような残酷な事は、イエスは言わないはずではないでしょうか。また、もし彼女が自分で生きてゆける道があるなら、それをイエスは支持しただろう……
そのように思うのです。あくまでイエスは、男たちに「妻一人愛し通せない情けなさ」、「家族であった者を路頭に迷わす身勝手さ」を責めていただけなのですから。
  したがって、聖書の一言を切り取って、字面だけを取って、「ほら、ここに『離してはならない』と書いてあるのだから、離婚はいけないのだ」と決めつけてしまうのは、必ずしも正しい読み方とは言えません。

  
聖書の記事から「離婚する者は罪人である」という結論は出すことができません。根拠不充分です。聖書によって「離婚は罪である」とは決して言えないのです。(2003年4月27日記)

補足……聖書の読み方

 ちなみに、ここで言う聖書の読み方のことですが、わたしは「『コンテキスト』を大切にした読み方」を心がけるようにしています。
  通常わたしたちが読んでいる聖書の言葉の文字/字面の部分を
「テキスト」といいます。それに対して「コンテキスト」というのは、その言葉が語られたり書かれたりした状況とか話の文脈のことをいいます。
  ですから、イエスがこう言ったという言葉そのものが
「テキスト」だとすると、イエスはこういう時代のこういう場所で、こういう状況のもとで誰にその言葉を言ったのか、などということが「コンテキスト」なわけです。
  いまここで問題にしている聖書の箇所では、たとえば「神が合わせられたものを、人は離してはならない」というイエスの言葉が
「テキスト」だとする。すると「コンテキスト」とはどういうことかというと……その言葉は、実は2000年前のユダヤ地方で語られたのである、と。つまり、ユダヤ人にとって離縁というのは男の特権であり、男は今の我々の感覚からすればとんでもなくいい加減な理由で(たとえば、料理を焦がしたとか、夫以外の人と道で口をきいたとかで)離縁していいのだなどと、当時の民衆の指導者や学者たちが大真面目に論議し、法令集に書きためていたとか。そういうことになっている世の中で、しかも本当に離縁されてしまった女は父親のもとにもどるか路頭に迷うか売春するしか生きる方法がないという。そして、男のほうもあまり無責任に勝手気ままに妻を離縁しては「あいつは甲斐性がない」とか「妻一人治めることもできない」「家長として不甲斐ないやつだ」とか風評がたつのもイヤなので、おいそれとは離縁もできないという閉塞状況。つまり、どんなくだらない理由でも夫にケチをつけられたが最後、路頭に捨てられるかもしれないという恐怖を妻が抱き、あるいは捨ててほしくなければ言うことを聞け的な圧力を有形無形に夫がふりかざす、圧倒的/潜在的なドメスティック・バイオレンスに満ちた結婚が当たり前という社会状況で、しかも離婚を巡って悩んでいるカップルがイエスに悩みを相談しに来たのではなく、「どういう風にしたらとがめだてなく離縁できるか」などと無責任な男どおしのヒマにあかせた会話を楽しんでいる律法学者たちがイエスをハメようとして話しかけてきた、という個別の状況……これが「コンテキスト」なわけです。
  多くのクリスチャンは、そしてキリスト教のプロであるはずの牧師でさえも、こういう
「コンテキスト」を無視した、「テキスト」だけを抜き取った読み方をして、それをまるでいつでもどこでも通じる道徳訓のように使おうとしますが、それは危険なことなのです。「コンテキスト」つまり、ある言葉が話された状況や相手を考えないで、言葉だけが一人歩きすることの恐ろしさは、人間関係などで悩んだことのある人ならすぐにわかるでしょう。
  むろん、これからも歴史学、社会学、心理学などの助けを借りて、聖書の
「コンテキスト」を知る研究はどんどん進んでゆくでしょう。そしてその研究成果によって、「テキスト」をどう受けとるかという解釈も変わっていく可能性があります。しかし、その事をわたしたちは受け入れながら、「自分の読み方が正しい」と思い込むことなく、謙虚な姿勢で聖書を読んでいかないといけないのではないでしょうか。(2003年4月27日記)


2.離婚する/しないは個人の良心の問題とは限らない

  現代でも、離婚がしにくいのは、世間がどうこう以上に、女性が一人では「食べていけない」という事情があるからです。つまり、離婚したら生活してゆけないから、泣く泣く離婚を思いとどまっているというケースが結構あります。
  子どものいない夫婦の場合でも自活するには、まだ女性のほうが圧倒的に不利な世の中であるし、また、子どもがいた場合、子どもを引き取って育てるのが母親つまり女性である場合がこれまた圧倒的に多いので、ダブルに深刻なわけです。
  そして、別れたあと、子どもを育てる親に、もう片方の親が子どもが二十歳になるまで送り続けるお金が「養育費」で、これを約束どおりに支払い続ける人(主に男性)が日本では3割にも満たない、という話もあります。これではますます恐ろしくて離婚できません。
  「離婚の認められない社会ほど、売春が多い」という報告もあります(バーン&ボニー・ブーロー著、香川他訳『売春の社会史・下』ちくま学芸文庫、1996、p.344)。長い歴史を通じて、結婚というシステムが、「家には貞淑な妻がいて、外には都合のいい遊び相手」という、男に都合のいい女性の二極分化によってこそ支えられてきたということが言えます。男だって妻だけでは物足りないけれど、離婚が禁止されているので、外で関係を持つ。逆に、外で関係を持つことができるから、なんとか結婚生活をがまんできる。そういう風に、売春(プロによる婚外交渉)や不倫(ノンプロも含む婚外交渉)は、実は結婚を維持することに役立っている、という現実もあるのです。
  逆に、離婚が楽にできる世の中だったら……つまり、別れても女性も男性も公平に扱われる、そして双方とも生きてゆきやすい世の中だったら、売春や不倫などする必要もない。自由な恋愛と性的な関係があるだけだ、ということになるのです。
  つまり、いったんまとめると、
「離婚を禁止する」ということと「女性の社会的地位が低い」ということは、実は表裏一体の現象である、ということです。
  離婚の禁止というのは基本的に女性と男性の不公平(女は結婚していなければ食べていけない)が基礎にあるというのが現実であり、結婚という形式を維持するには、女性の地位が低いということが条件である。逆に言うと、結婚とはそもそも男女差別なしには維持しえないとまで言うことができるのです。
  結婚とはどこまでもそういうものだ、と断定しているのではありません。そうではなく、これまでの時代、多くの夫婦は、現実的に男女差別のうえになんとか結婚を維持してきたというのが結果としての現実であり、社会における男女の地位の格差がなかったら、とっくに空中分解してしまっていただろうと思われるカップルがほとんどだ、ということなのです。だから、そうでない新しい結婚のありかたを模索する可能性はもちろんあるし、模索する意義もあるのです。(2003年4月27日記)


3.子どもがいる場合は?

  もちろん経済的な男女格差がなくなっていけば、それで問題が解決するわけではありません。子どもがいないカップルがただ別々の道を歩むという事と、子どもがいるカップルの場合では、事情が全然違います。
  子どもにとって、安心できる「ホーム」があることは大切な事で、それが崩壊してゆくことは、子どもの心に大きな傷を与えます。だから子どもの年齢によっては、離婚がその子の成長過程で、精神的に大きなダメージを与えてしまうことはよくあります。離婚するカップルは自分たちの離婚のために子どもがどんな打撃を与えてしまうか、よく考えておかねばなりません。
  ただ、やはり現実はケース・バイ・ケースなのであって、「やはり子どもには両親がそろっているのがいちばん」と機械的に考える事もできません。大切なのは、「父・母そろって家族円満」という「形式」ではなく、
子どもが「自分は大切にされている」「守られている」という感じることができる、そして、(血縁であるかどうかに限らず)安心して頼ることのできる大人たちがいる、という「内実」なのではないでしょうか。
  子どもにとって不安定で、荒れていて、安全でない場所であり、それを改善できる見込みもないならば、そのような場所は取り消して、別の場所に子どもを移すほうがよほど子どものためであったりもするのです。すなわち、離婚によって子どもを、「よりましな」養育環境に移すということもありうるのです。(2002年6月4日記)


4.人生への寛容さ……「やりなおし」を認める


  別に離婚をおすすめしてるわけではありませんよ、わたしは。
  でも、たいていの人は、若いときに結婚するのだから、途中で計画が狂う可能性があるのも当たり前だ、ということも言えるのです。
  こう言ってはなんですが、20代なんてまだまだ子どもです。よく言えばまだまだ成長し、変化していくし、人生行路が大きく変わってしまう事もありうる。20代でベスト・パートナーだと思った人が、30代でそうでなくなるということも充分ありうるわけです。その時、人生をやりなおすチャンスが二人に与えられないというのは酷なことだと思います。そんな風に人間を封じ込めても、結局家庭内暴力や不倫が増えるだけで、なんの展望も開いてこないのではないでしょうか。
  「永久就職」なんて言葉が昔はありましたが、結婚にも退職してフリーになったり、転職したりする権利があっていいはずです。
  転職と同じで、
離婚や再婚が人生の新しい転機をつかむチャンスにもなりうるのなら、それは悲しく、苦しい別れを伴う決断かも知れないけれど、自分の未来を切り開くための重いステップにすることも可能になるのではないでしょうか。
  そのためには、離婚というものを、そうやってポジティブにとらえる風潮を世間に作っていかないといけないと思います。(2002年6月4日記)


5.とりのこされる教会

  さて、教会が離婚をタブー視しようが、眉をひそめようが、確実に離婚は増えています。はっきり言って多くの教会は、この現実についていけていません。また、離婚した人は、教会から好奇心に満ちた偏見を向けられ、誹謗中傷によって脅され、排除されるということが、往々にして起こっています。
  この場合、やっかいなのは、客観的に見れば、誹謗中傷や嫌がらせに他ならない行為が、クリスチャンの間では「神のご意志に従った、間違いを正す行為」として正当化されてしまっている場合が多いということです。この点は、本当に自分たちの言動に「愛があるかどうか」、クリスチャンは自己点検が必要であろうと思います。クリスチャンが「正しさ」に固執する場合というのは、その反面として「愛」を失っていることが多いのです。

  そういう形で、離婚者を裁き、排除することなどを通して、教会がこの問題から目をそむけようとする限り、離婚というひとつの大きな人生の挫折を味わった多く人びとの魂を慰めようとする神さまの愛を、教会は伝えそこなうでしょう。
  ですから、いま本当に必要なのは、「離婚はダメだ」と教条的な能書きを垂れるより、目の前で離婚した人、あるいは親に離婚された子どもを、どうケアし守るのかを考えることなのではないでしょうか。そして、イエスの言葉も、そういう気持ちがあって語られたものなのではないでしょうか。

  ……でも大丈夫。
  教会が慰めてくれなくても、牧師がわからず屋でも、教会員たちがウワサ好きの愚か者だらけだったとしても、神さまはあなたの痛みを、ちゃんと受け止めてくださいます。
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)
  (2002年6月4日記)


補足……教会における離婚者の受け入れについて

 さて、離婚した人にも愛をもって接しようとしている牧師はたくさんいます。
  それでも、「離婚は罪ではない」とはっきり言い切れる牧師はそう多くはいません。たいていの場合は、
「離婚はいけないことです。でも神さまは罪人を赦してくださる方ですから、私はあなたを受け入れます」という論理を構築していることが多いようです。
  しかし、これは離婚者の救いにはまったくつながりません。慰めにさえなりません。なぜなら、このように言う人は、「離婚は罪である」という裁きの宣告はきちんと忘れずに行っているからです。
  また、さらに高度な受け答えとして、
「離婚は罪です。しかし、全ての人間は罪人(つみびと)なのです。ですから私が神さまに赦されているのと同様、あなたも赦されているのです」というものもあります。
  こうやって「罪」と「赦し」について語る時、多くのクリスチャンや牧師は、自分がダブル・スタンダード(二重基準)を使っていることに気づいていません。
  つまり、自分は
   
(A)「人間はみんな一人残らず同じように罪人である」という基準と、
   
(B)「離婚は罪であり、離婚しないで結婚しつづけることは罪ではない」というもう一つの基準を、
  混同したまま話しているのだ、という自己矛盾に気づいていないのです。
  あるいは、「離婚は罪だ」と自分が言ってしまう事で相手を落ち込ませてしまったり、傷つけてしまうのが怖いので、「しかし人間はみんな罪人だから」と論点をすりかえて、無意識のうちに防御しているとも考えられます。こういう論理のすりかえは、たとえば同性愛に対する対応のケースでもよく見られるものです。
  しかし、当の離婚経験者は、そういう欺瞞的な牧師の感性を、即座に見抜きます。「結局、この人は私が罪を犯したと思っているんだな?」。そして、「この牧師にはこれ以上話しても仕方がないかな」と判断を下します。
  
(A)「全ての人が罪人であるということ」と、(B)「個々の人間の行為でもって善悪を判断すること」とは全く別の次元の問題なのです。「全ての人間が罪人である」ということと「離婚は罪である」ということを両立させようと思ったら、離婚することも罪ならば、離婚しないことは罪ではないのか?と問わざるを得なくなるのです。しかし、もちろん「すべての人は罪人です」などと軽々しく言う人が、そこまで考えていないことは明らかです。
  離婚者を受け入れる教会そして牧師にとっていちばん大切なことは、「離婚は罪ではない」とはっきり自信をもって宣言することです。
「離婚は罪ではない」のです。「離婚は罪だ、と聖書に書いてある」などと言う人は、既に述べたように、聖書の「コンテキスト」を読み違えているのです。「離婚が罪だ」という結論は聖書からは出てこないのです。
  世の中のクリスチャンそして聖職者の方々には、本気で離婚者のケアをなさりたいなら、最低「離婚は罪ではないよ」という宣言を、心から偽りなく、発していただきたいものだと願っています。(2003年4月27日記)

〔初版:2001年10月22日〕
〔第2版:2002年6月4日〕
〔第3版:2003年4月27日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる
 ボランティア連絡所“Voluntas”を訪ねる
 解放劇場を訪ねる
 教会の玄関へ戻る