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 Q. キリスト教では、人は死んだらどうなるんですか?

  弟「おい、兄貴。なんで兄貴は牧師やのに、キリスト教式で親父の葬式あげへんかったんや。まぁもう終わったことやから、いまさらどうもこうもないけどね」
  兄「そうやな。いまさらどうもこうもないな。ただ、本人はキリスト教はなじみが薄かったと思うから。お前もそうやし。無理にキリスト教式にしようとは思わんかった。それに、おまえが『こういう風にしたい』と言うから、それに合わせただけやで。戒名も欲しかったし、位牌も欲しかったし、家で小さな仏壇で線香でもあげたいんやろ? それに家のお墓もあるしな」
  弟「まぁそうやけど、兄貴は自分が死んだらどうするんや。お墓はどうするの?」
  兄「死んでからのことは関係ないと思っている。残った人が苦労せんように遺言だけは書いとかなあかんと思ってるけど」
  弟「キリスト教では、死んだ人はどうなるんや? 仏になるという考えはないのね」
  兄「正確には、誰にもわからないんよ。キリスト教でも『これが正解』というのはないしね」
  弟「ふーん、そうか。まぁ兄貴がこれでいいと言うんなら、ぼくもこうしてよかったと思うよ」
  兄「いやいや、お前がこれでいいと思っているのなら、このとおりでよかったと思うよ」

(2008年3月30日に、ふと想像してみた、ある兄弟の会話)

 A. わかりません。でも、決して自分で確かめたりしないでくださいね。

■人は死んだらどうなるのでしょう。


  「死んだら」という仮定の話をするにしても、何が人間の死なのか、いろいろな定義がありますね。脳死が死なのか、心臓停止が死なのか、まだ議論が続いていると思います。しかし、ここでは一応それらの定義の話にまでは突っ込まずに、とにかく脳死して、心停止して、数日たって、いよいよ火葬だ、という段階、つまり完全に死んでしまったあと、どうなるのか、ということを考えてみたいと思います。

  死んだら、肉体はただの肉と骨のかたまりになりますね。火葬にされてしまったら、完全に灰になり、二度と生きた肉体として復活することのできない物質に変わるように思われます。
  「死んだらどうなるのか」という質問は、私たちの精神、私たちの心、私が私としてここにいる実存がどうなるのか、死後も私は私でありつづけることができるのだろうか、死後の世界というものがあるのだろうか、と、そういうことを知りたいということですね。
  実は、残念ながら、キリスト教界でも統一された見解は存在しません。
  信仰をもって死んだ人が神のもとで安らかに過ごしており、不信仰な人は地獄に落ちて永遠の火で焼かれている、と考えるクリスチャンは一定数います。しかし、その一方で、「永眠」という言葉にも表れているように、死んだら意識は二度と戻ってこないのだ、目覚めることのない永久の眠りの状態なのだ、つまり死後の意識というものはないのだ、と考えているクリスチャンもたくさんいます。

  死の一歩手前で止まり、再び戻ってきた人が語る、いわゆる「臨死体験」には、ある程度共通性があるようです。立花隆さんの『臨死体験』(文春文庫、2000年)で語り尽くされていますが、心停止した人が奇跡的に蘇生した場合、その人自身の意識は肉体を離れ、トンネルのような場所を通って、明るい光のほうへと向ってゆく、そして既に亡くなった親しい人と再会する……という体験をするそうです。臨死体験をした人は、死後の世界が美しく、安らかなので、みな一様に死ぬのが怖くなくなった、ということを報告しています。
  しかし、本当に死んでしまい、荼毘(だび)にふされてから、再びこの世に復活する、ということをやった人はいません。キリスト教ではイエスが復活して、弟子たちの前に姿を著した、ということになっていますが、仮にそれが事実だとしても、イエス以外の人で既に埋葬されてしまった人の復活は、歴史上一度も確認されていません(たぶん。あったとしてもごくまれで、我々のような凡人には届かない境地です)。人は死んでから、再び生まれなおすということはできません。

  あるいは、輪廻転生を信じる人もいます。人間にはみな過去生あるいは前世があるのだ、と唱える人もいます。しかし、もし輪廻があったとしても、今の私が前世では誰であったか、あるいは何であったか、という記憶は全くありません(たぶん。あったとしてもごくまれで、我々のような凡人には届かない境地です)。
  私は思うのですが、「生きている」という実感には、記憶が大きな役割を果たしているのではないでしょうか。記憶というものがあるから、何年間か生きている「自分」というものを確認できると思うのです。もし、記憶が一日ごとに失われていくとすれば(そんな設定の映画もあったような気がしますが)、その人にとっては今日の朝から今までの人生しかなかったことになるわけで、「あなたは、本当は昨日もこうして生きていたんですよ」と言われても、その人の記憶に残っていない限り、それは自分の人生ではないのです。記憶がつながっていなければ、昨日の自分は今日の自分にとっては別人でしかないのです。
  そういう意味で、輪廻転生を頭ごなしに否定するわけではありませんが、前世の記憶がない限り、今の私の人生には何の関係もない、と私は思います。
  これは、あまりにも意識中心のものの考え方で、もっと普遍的無意識や宇宙意識や超個人的な心理とか霊体とか、そういうことを考える人には物足りないかも知れませんが、世の中の多くの人が「死んだらどうなるのか?」と考えるとき、やはり「私はどうなるのか?」という個人の意識が問題になっているのではないかと思うのです。ですから、「自分が体験できないものは、存在しない」というかなりわがままな立場で考えてみたいと思います。


■キリスト教世界でも変化が起こっているのかも。

  キリスト教では、人は死んだらどうなると考えているのでしょうか。
  最近面白いな、と思ったのは、『千の風になって』という歌が大ヒットしましたね。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。死んでなんかいません。千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています」というあの詩は誰が作ったのか、作者不詳なのですが、もとは英語です。私は、あれが英語圏で、つまりキリスト教の影響の強いところから出てきた、ということに面白さを感じます。
  アメリカでのキリスト教徒の主流派では、死者の魂は神のもとで眠っているとされます。そして、この世の終わりにキリストが再臨し、キリスト者は再び呼び覚まされ、もとの肉体に戻って復活する、とされています。そのために、アメリカではエンバーミングと呼ばれる死体保存の技術が非常に発達しているのだそうです。帰るべき肉体をできるだけきれいに保存するわけです。これはエジプトでミイラを作る技術が発達したことと相通ずる現象といえます。
  そういう死生観が根強いと思われていた文化圏で、『千の風になって』のような、魂が自然に帰ってゆき、死後も生きている人びとを見守っているのだ、という歌が生まれたのは、たいへん面白いことだと思います。伝統的なキリスト教の考え方を離れて、人びとの感性は、このような死後の生でありたい、と願うようになったのでしょうか。これはキリスト教的な伝統に基づいているというよりも、むしろ日本の祖霊信仰に見たものを感じさせます。

  さて、アメリカなどの多くのクリスチャンの間では、世の終わりと新しい神の楽園における肉体の復活を信じられているとさっき言いましたが、これはたとえば使徒信条などで、その後半部分「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」と唱えますが、ここにある「身体(からだ)のよみがえり」と書かれてあるので、それを文字通りそのまま信じている人たちがいる、ということです。
  その一方で、私の周囲のクリスチャンたちのなかには、「あの『千の風になって』という歌、いいよねー」と、いつも歌っている人もいます。あの死生観は多くの日本人の感性に合うのでしょう。もちろん、だからこそ日本でもヒットしたのでしょう。そういう日本人に多い死生観を持ち合わせながらもクリスチャンとして生きている人もいるわけで、一言でクリスチャンの死生観といっても、中身はけっこう人によっていろいろかなと思わされたりもします。
  日本人クリスチャンは、キリスト教徒ではあるけれども、死んだあとのことについては、実は日本的に考えている、なんてことがよくあります。もちろん死後も目覚めているか、あるいは眠っているか、については、人それぞれかなり考え方のバラつきがありますが、人は死んだら、自然のなかで安らかな時を過ごすのだ、という考え方をしている点で、日本人クリスチャンはたいへん「日本的」です。(2008年3月31日記)


■聖書をひもといてみましょう。

 死と死後の世界について、聖書にはどう書いてあるでしょうか。
 実は、結論めいたことを先に申しますと、聖書のなかでも、死生観は統一されていないのです。
というより、聖書はさまざまな時代に書かれてきたものが編集されているので、その記事が書かれてきた時代の死生観を反映して、次第に変化し、発達してきていると言えるのです。

■聖書における死と死後の世界(以下、論じる文書ごとにページを設けてあります。とても全部読む時間の余裕のない方は、飛ばしてくださって結構です)。
   ▼ヘブライ語聖書(旧約聖書)では……
   ▼共観福音書では……
   ▼使徒言行録では……
   ▼ヨハネ文書では……
   ▼パウロ書簡では……
   ▼偽パウロ書簡では……
   ▼公同書簡では……
   ▼ヨハネの黙示録では……


■全体的なまとめ

 「キリスト教では、死んだらどうなるのですか?」というタイトルでありながら、キリスト教全般ではなく、聖書のなかで死や死後のことを書いた箇所を全体的に見渡すだけで、ものすごい労力と時間がかかってしまいました。私がどちらかというと旧約聖書よりも新約聖書になじみのある者ですから、新約のほうからの引用が多くなってしまいましたが、他の方の視点なら、また違った論評ができると思います。

 こうしてざっと見てみるだけでも、旧約聖書の時代には、最初は死後の世界というものに対する関心も思想もありませんでしたが、それがユダヤ人に対する迫害やヘレニズム的な文化的侵略にあって、それと闘うために死んでいった人びとが、死後復活させられるであろう、という終末論と表裏一体になった死生観が現れるようになる、という変化を見て取ることができました。
 新約聖書の時代になって、その終末論がキリスト教に受け継がれ、さらに発展して、第一の死、第二の死、という考え方が生まれるようになりました。そして、キリスト教に対する迫害に耐えながら、イエス・キリストが最初の復活者であるということに希望をおき、世の終わりは間もなく来る、その時に信仰者たちはイエスに続いてよみがえるのだ、と主張するキリスト教の文書があることがわかりました。
 その結果、
「これが聖書の死生観だ」という統一された結論や思想めいたようなものはなく、聖書にはそれが次第に変化していった過程のみが見受けられるのだ、ということがわかりました。
 ですから、結論的には、「聖書を読んでも、人は死後どうなるのかは、わからない」ということになります。申し訳ありませんし、無責任なようにも聞こえますけど、一応これが今の時点での結論です。

 さて、そのような聖書における死生観の変化には、ユダヤ教からキリスト教にいたる、それなりの連続性があるように見えます。「迫害における殉教者の復活」というのが、ユダヤ教からキリスト教へのつなぎ目になっているようです。
 しかし新約聖書の中から、イエスの死生観だけを取り出してみると、そのようなユダヤ教からキリスト教へと渡されてゆく流れに対して、どこかわざと的を外しているような、むきだしの現世主義のような印象を与える言葉が飛び出してきます。この
「イエスとキリスト教のギャップ」を私たちはどう理解したらいいのでしょうか? ユダヤ教からキリスト教へという言葉と思想の流れは、イエスの頭越しに、イエスを飛び越えて、受け継がれていったのでしょうか。私たちはイエスをどう理解したらいいのでしょうか?

 それから、このQ&Aでは、聖書における死生観の変遷だけを取り上げました。しかし、正典としての聖書以外、あるいは以後にも、キリスト教には大事な文書がいくつもあります。
 また、聖書が成立した以後の約2000年間ものキリスト教の歴史のなかで生み出されてきた、死と死後に関する思想も、きっと振り返るのが大変なくらい層が厚いものであろうと思います。それらはさまざまな時代や社会の状況を経て、変化し、成長してきたものです。
 そして、現在も、キリスト教的なベースを持ちながらも、医学がハイテク化し、宗教的にも多元化が進んでいるこの社会のなかで、新しい死生観が育ってきていても不思議ではありません。あるいは、この宗教多元化の時代、キリスト教以外の死生観に耳を傾けることも、私たちの視野を広げてくれるでしょう。
 特に注解書もほとんど使わずに、ただ聖書を読む、という限定された作業を通してだけでも、こんな風に思想が発展し、広がりと多様性を持つようになってきているプロセスがわかるのですから、この変化のプロセスは聖書の編纂以後もさらに幅広くなって続いているということを、想像しておいたほうがいいでしょう。
 伝統は大切にしないといけませんが、かといって新しいこの世の死生観にも心を閉ざすのではなく、柔軟に対応するものでありたいと思います。

 死と死後について書いた、たいへん読みやすい本として、玄侑宗久さんの『死んだらどうなるの?』(ちくまプリマー新書、2005年)という本を紹介します。仏教の立場からですが、仏教を押し付けるわけでもなく、現代の最先端の科学の視点からも見ながら、死んだらどうなるのか、また死に対してどういう姿勢で臨めばいいのかを、わかりやすく説いてくれています。
 その本の最後にも書いてありましたが、
死んだらどうなるのか、が気になって仕方がなくても、決して実際に死んで見に行こうとは思わないでくださいね。いずれはみんなが行くところです。焦って急いでいくことはありません。
 立花隆さんの『臨死体験』という本にもありましたが、臨死体験をした人は、あちらの世界のほうがよほど幸福で心地よいので、死ぬのが怖くなくなるそうです。しかし、だからといって早くあちらに行きたいとは思わないのだそうです。あちらの世界を見てしまった人は、その素晴らしさに感動すると同時に、「いま生きているこの人生を大事にしなければならない」ということも実感するそうです。

 ですから、今を生きましょう。そして、楽観的な希望を抱きつつ、死を迎える心の準備をしておきましょう。

〔最終更新日:2008年7月21日〕

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