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 Q. 「神」という言葉を使われると、急にインチキ臭く聞こえるんです。

 問:「宗教とか神とか言っている人の話を聞くと、なんだかインチキ臭く感じてしまうんです。そんなありもしないものを真剣に論じて何になるのだろうと思うのです。宗教など無くても人間は生きてゆけるし、むしろ宗教の対立による戦争などをニュースで見るたびに、宗教なんか無い方が人間は幸せになるんじゃないかと思うんです」

(よくある質問)

 A. 日本に住んでいたら、そうなっちゃいますよね。

「神」がインチキくさい理由(1)……天皇制の弊害

 日本人が「神」という言葉を聞くとうさんくさく感じるのは、キリスト教やその他のいくつかの宗教が、実際浮世離れした言動や、独善的な善意の押しつけのような布教活動をして、人に迷惑や不安を与えたりしてくることがよくあったということに原因があることは否定できないと思います。
 また、最近では、強引に洗礼を受けることを勧めたり、引っ越しても教会籍を抜くことを許さずに献金をさせたりなど、「?」と首を傾げざるをえないような牧師もいるようです。

 しかし同時に、もう少し根本的なところで、日本の歴史的な要因もあって、日本人がキリスト教に限らず宗教に素直に関わることができていない、ということも原因だと思います。

 日本という国は、もともとは八百万の神といって、天地万物の山川草木あらゆるものに神々しいものを発見し、拝んできたところです。
 また、仏教も外来の宗教であるにもかかわらず、そのような神々のうちに迎え入れられるような形で日本人の心に受け入れられました。
 そんな日本人にとって、唯一の絶対者である排他的な神というキリスト教的な概念は、違和感があっても当然ではないかとは思います。

 しかし、もっと日本人の宗教ぎらいに拍車をかけたのは、天皇制、特に近代天皇制です。
 天皇の主権が日本の皇帝として強められる時に、明治政府は国家神道という宗教の形で、天皇の権威を国民に浸透させようとしました。
 そして、日本中の神社は、古来からの神々を祀るよりも、むしろ天皇を神の子孫として敬い、天皇の体としての国家を守るために祈る機関として再編成されました。
 そして、神社非宗教説といって、天皇を拝むことは宗教ではない、宗教よりも優先すべき国民の義務である、としたのです。
 こうしておけば、国は個人の信教の自由を認めているということになります(神社は宗教ではないから)。

 しかし、実際には、唯一神を崇拝するキリスト教や、人間を超えた仏を拝む仏教も、天皇というのは人間としてしか見ませんから、人間である君主を神格化して崇拝することはできません。すると、そういう宗教の信者は、「天皇に対して不敬である」として告発され、弾圧されました。
 そして、「天皇を人間と見るような宗教は、国民の義務を怠るような、あるまじき習俗である」とされて、監視され、摘発され、信者は非国民呼ばわりされるようになりました。
 そんな風潮の中で、日本の国民の間には、「宗教に関わるとろくなことはない。宗教に入る者は非国民呼ばわりされる」という意識が作られてゆきました。

 そんなわけで、日本人には「宗教に関わり合いになると、面倒なことになる」「宗教は何か反社会的なことを企んでいる」「宗教は怪しい」という意識が植え付けられてしまいましました。
 また、その一方で、自然崇拝や祖先崇拝という、日本人に古来からしみついており、やめることができなかった宗教行為は、「宗教ではなく、習慣だ」と説明する人が多くなったのもそのせいでしょう。
 多くの日本人にとっては、そういう行為が悪い事なのではなくて、「宗教」という呼ばれ方をすることが問題なわけです。やってる事が同じでも、「宗教」でなければ(そして天皇は更にその上にあるものとして拝んでおれば)問題は全くないわけです。

 (実は、日本の神道の歴史全体から見ても、古来から日本に伝わるおおらかな宗教心は、天皇制が政治利用される時に限って、歪められたり、改ざんされたりしてきたわけです。しかし、これを語りだすと話がもっと長くなるので、これはここでは省略しますね)。

 とにかく、そうやって日本人の間には、「宗教」ぎらいの風潮が作られてきました。
 初詣や七五三や各種のお願いごと、結婚式やお葬式、そして法事などなど、日本人はずいぶん熱心に宗教的な行為をします。しかし、それは「宗教ではない」と断じて否定するのです。その背景には、これまで述べてきたような歴史的、社会的な理由があるのです。

 また、更にそれに加えて、天皇の「人間宣言」、敗戦後の科学万能主義、資本主義にも原因はあるでしょう。
 天皇の「人間宣言」は、それまで日本の神々の子孫であり、崇拝の対象であると共に最高神官でもある天皇が、「実は私は人間でした」と告白した、という出来事でした。
 これはかなり皮肉だと思うのですが、それまで国家神道は「神道は宗教ではない」と主張してきたわけです。しかし、「天皇は人間でした」と宣言するということは、「以前私は神でした」と宣言することであり、「やっぱり国家神道は宗教でした」と認めることになったのではないかと思うのです。GHQによって国家神道の解体が進むなかで、日本人の宗教嫌いは、これによって拍車をかけられたのではないでしょうか。
 また、日本が負けたのは、圧倒的なアメリカとの科学力の差が一つの原因でした。広島、長崎に投下された核兵器はその最たるものです。この科学力の差を埋めないと、日本の国際社会での名誉はありません。ですから、日本は科学万能主義、理系が偉い、という風潮に流れてゆきました。そのことが、「これからは科学の時代だ。宗教や神といった、非合理的で確証の無いものを信じるのは愚か者だ」という風潮が作られていったことも考えられます。
 さらに、それと関連して、戦後の復興と高度成長において、生活が豊かになること、お金がもうかることに最大の価値が置かれるようになり、自由競争こそが正しい人間の生き方であり、お金を生み出す物や人間以外には存在価値がない、弱者の救済には意味が無いという風潮も浸透するようになりました。そういうことも、宗教が軽視されるようになった原因だろうと思います。

 そのようなわけで、日本で「神」という言葉を耳にすると、胡散臭く、インチキに感じるのは、長年にわたる社会的な理由があると考えられます。


「神」がインチキくさい理由(2)……八百万の神との衝突

 これに加えて、冒頭にも申し上げましたように、日本人の宗教心と相容れにくい要素が、そもそもキリスト教にはあります。
 ご存知のように、キリスト教は一神教です。唯一絶対なる独りの神が、この世を創造し、終わりの日にも審判を行なわれると説きます。
 これは、山川草木森羅万象に神が宿り、偉大な人物でさえも死後は神となる、という八百万の神信仰とは全く異なります。
 また、仏教は日本古来の宗教ではなく外来宗教ですが、これが日本人に広く受け入れられるには、本地垂迹説といったような、「神々は仏が姿を変えたもの」といった布教の歴史が必要でした。逆に言うと、「数ある仏も神々の仲間」という考えを広める形で、仏教は日本人の心に浸透しました。
 ところが、キリスト教にはそれが難しいのです。一神教というのは、政治的にたとえると、「中央集権主義」です。これがヨーロッパの王制を支えてきたのです。しかし、典型的日本人の宗教心は「和」をもって尊しとなす平等主義です。神々の間に上下はありません。

 日本人の間にキリスト教を自然に、そして完全に浸透させるとすれば、それは、「キリスト教の神も、数ある神々のひとつ」とする以外にはないでしょう。
 しかし、これはキリスト教を一神教ではなくさせてしまいます。それをキリスト教だとはクリスチャンは認めることができないでしょう。
 一神教であることを捨てない限り、キリスト教は日本では多数派にはなり得ないと思います。

 いや、もう一つ方法がありました。
 キリスト教が政治権力と結びつくことです。
 早い話、天皇がキリスト教の洗礼を受ければ、日本のキリスト教は多数派になるチャンスを得るでしょう。

 そもそもキリスト教がヨーロッパにおいて拡大したのも、ローマの国教となり、教皇という宗教的王権が君臨するという体制が確立したからに他なりません。もともとローマは多神教の世界です。それを、コンスタンティヌス帝が十字架を掲げて戦争やったら勝っちゃったからという理由で、強引に一神教に路線変更し、中央集権体制を強化するのに利用したのです(もっとも彼が洗礼を受けたのはずっと後のこと、死の直前だったらしいですが……本人の意志だったかどうかもわからないです)。

 皇帝が改宗して国教にすれば、その宗教は「正統派」となります。ですから、天皇がキリスト教に改宗したら、多くの日本人はキリスト教の神を受け入れるでしょう。実際、太平洋戦争敗戦後しばらく、天皇が悔い改めてクリスチャンになるようにと働きかける運動があったという話もあります。
 しかし、もしそんなことをしたら、先ほど申しましたように、キリスト教は多神教とは相容れませんから、神道を破壊してしまうことになります。まあ、それも、キリスト教が世界のあちこちでやってきたことではあるので、それが日本でも起こるというだけのことかも知れませんが……。
 あるいはそんなことが仮に平和的に起こったとしても、キリスト教は一神教ではなくなるでしょう。全国各地の神社の神々を、そして仏を、「その正体は○○聖人である」といった具合に取り込まざるを得なくなるでしょう。
 それはカトリック教会が、土着の守護神や祭儀などを吸収しながら、神を中心とした聖人のヒエラルキーを作ったのと似てはいますが、プロテスタントのクリスチャンはそれを容認できないでしょう。そうなると、カトリック的な「正統派」クリスチャン以外の者は、異端という事になるのでしょうか?

 (また少し話が横道に逸れますが、日本でもキリスト教が広く受け入れられかけた時代がありました。信長、秀吉、家康らがキリスト教に牙を剥くようになる前、最初に日本にキリスト教が伝えられ始めた頃です。
 いま私には、はっきりとしたことは言えないのですが、最初に日本に伝えられたのがカトリックという非常に多神教的な要素が強いキリスト教であったことと、日本人のキリスト教受容は、無関係ではなかったのではないかと推測しています。父なる神、子なるキリスト、聖霊、そして聖母マリア、更には多くの守護聖人たちが存在するカトリックは、父、子、聖霊の三位格の神さまのみを「崇拝」し、それ以外の聖人たちは「崇敬」すると言って区別はしますが、いくつも祈りをささげる対象が存在することは否定できません。それが、当時の日本人には受け入れやすかったのではないか、と思います。事実、デウス〔ラテン語で「神」〕が大日如来と同一視されたり、マリアが観音と同一視されたりという、キリスト教版本地垂迹説のようなものが起こっていたようですから)。

 (実は更に込み入った話があって、この多神教的要素を含んだ一神教という性質は、あろうことか日本の近代天皇制に非常に似通ったものがあります。明治の天皇制はヨーロッパの歴史におけるキリスト教の役割〔中央集権体制の強化〕に習って構築されたものである、と指摘する人もいます。もしそうだとしたら、たいへん皮肉なことですね。キリスト教は自分をモデルにした日本の国家宗教によって弾圧され、それを逃れるために国家宗教に迎合して戦争に賛成してきたのです。結局何をやってるんだということです。けれども、これも長くなりますので、ここではこれ以上申しません)。

 そういうわけで、多くの日本人には、「神はお独りのみ」という捉え方自体が、現実味のないものなのですね。たくさん神々があるという世界のほうがリアルなのです。ですから、「神を信じる」というのが、どこか狭量と言いますか、狭い世界に閉じこもった世間知らず、という印象を抱かせるのでしょう。


「神」がインチキくさい理由(3)……非信者の排除

 更に、日本人の一般的な宗教観と違う点をもう一つ上げれば、「洗礼」という入会儀礼を伴い、信者と非信者をはっきりと区別する点でしょう。

 日本の伝統的な宗教には、信者と非信者を区別する習慣がありません。ある人が、あるものやある現象、あるいはある人物に超越的なものを感じて、それを拝むと、拝んだ対象がその人にとっての神になるのです。拝むから神が現われるのですから、この世には無数の神(八百万の神々)が生まれうるのです。そして、その神は拝んだ人にとっては神かも知れませんが、他の人もそれを拝まなければならない義務はありません。
 これは、唯一の神のもとに営まれ、全ての人間が所属するべき普遍的な教会、というキリスト教の観念とは全く異なります。キリスト教では、自分にとっての神は、他人にとっても神であり、全人類にとっての神であり、その神から離れることを罪といいます。

 日本的宗教観では、自分の神を人が拝まなくても勝手なのです。他人が熱心に拝んでいる神を、「それも神」と認めつつ、自分がそれを拝まないのも勝手です。実に自由ですね。
 ところがキリスト教では、教会員と非教会員、信者と「未信者」を区別します。そして、その区別がはっきりと目で見てわかるように、信者だけに聖餐式のパンやぶどう酒を配って、「未信者」には食べさせない、ということを行ないます。

 こういう行いは、一般的な日本人にとっては、異様という他ないでしょう。それこそ悪い宗教団体に洗脳でも受けた人たちが、自分たちにしか分からない奇行を行なって自己満足に陥っているのではあるまいか、といった印象……。あるいはそこまで言わなくても、「なんでわざわざそんな堅苦しい信心を抱くのだろう?」と不思議に思われても仕方がありません。

 あるいはそこまで言わなくても、はっきり言って、一般の人はキリスト教に親しみがわかないのです。
 キリスト教徒自身が、特殊な通過儀礼によって入会した者とそうでない者を区別しているのですから、入会していない人が、そういう団体およびその構成員に親近感を覚えるはずがありません。

 ですから、先ほどまで申し上げたことと加えて、改めて言うならば、「キリスト教の神も数ある神々のうちのひとつ」ととらえ、しかも入会儀礼としての洗礼を廃止し、信徒と非信徒の区別を一切取り払って、「どんな人でも主の食卓に招かれている」とし、教会で大勢の人がいっしょに温かいものでも食べる神事でもして、どんな人のためにも祝福の祈りをして回り、どんな人の結婚式も葬式もしてあげるなら、少しはキリスト教の神も日本に浸透しやすくなるでしょう。

 実際、キリスト教の教会の前で頭を下げて行かれたり、手を合わせてから通り過ぎて行かれたりする人は、今の日本でもよく見かけられます。そういう人たちにはキリスト教の神は受け入れられているのです。
 ただしその場合、神の位置づけは唯一の神ではなく、お地蔵さんと一緒に並ぶものになっています。たくさんある神さまや仏さまの中の一つとして受け入れられているのです。
 その人たちはクリスチャンにはなりません。教会は、キリスト教の神を「唯一で絶対の普遍的な神」として信じることを強要し、その教義ないしイデオロギーを受け入れて洗礼を受ける人以外の人を排除するからです。


それでも神を思うことはあったほうがいい

 このように、天皇制の政治利用の歴史、日本古来の宗教観、キリスト教の排他性、そのような理由から、日本人にとっては、キリスト教的な意味での「神」がうさん臭いということになっているのではないかと思います。
 しかし、これは日本人にとって不幸なことではないかと思います。
 私は天皇や神道を政治利用する事には反対ですし、愛国心の基礎を神道や靖国に置いたりするような、国家に都合良く捏造された宗教体制を、きちんと片付けないといけないと思います。
 またキリスト教が八百万の神のうちの1つになるべきだとまでは思っていないにしろ、もう少し他の宗教への排他性を弱め、少なくとも、神の世界は民族や宗教によって把握のされ方が違うのだ、くらいの柔軟な態度を取るべきではないかと思っています。
 そういう工夫をしてでも、神の居場所を心の中に作れるようにしておくのは悪いことではないと思います。
 「神」という言葉を聞いただけで胡散臭く感じるというのは、不幸なことではないかと思います。

 神は唯一絶対で万能ではないかも知れません。それは、中央集権的な王制のイメージを宗教に投影した結果に過ぎないかも知れません。
 あるいは、神が絶対者であったとしても、それを崇める人間たちが集まった宗教はおそらく絶対的だということはあり得ないでしょう。神はどこまでも人間にとっては未知の存在であり、宗教は結局その構成員としての人間の集団に過ぎませんから、決して絶対的なものではありません。
 そんなことはちょっと考えたらわかることです。ですから、あたかも自分たちの教義や祭儀の様式が絶対であるかのように主張すればするほど、そういう人たちが胡散臭く見えてくるのは当然です。

 しかし、宗教や宗教団体の信者や聖職者たちがどんなに胡散臭かったとしても……
 「愚かな人間の宗教の営みを越えた所で、神は私を愛してくれている」
 「宗教が私を祝福する前から、神は私に命を与え、『この世で生きなさい』と送り出してくださった」
 「宗教の信者や聖職者たちがどんなに私を罪人だと裁いても、神は私を赦してくださり、私に『もう一度生きなさい』と告げてくださっている」
 ……そういう神を心の中に抱くことは、私たちにとって悪いことではないと思います。
 そんなことをして、うまく生きられるかどうか保証はありません。また、神を信じなくてもうまく生きてゆける人もいます。
 しかし、神を信じることで、生きる力や生きる意味を見出すことができる人もいます。
 宗教団体の教えを信じ込んで被害を受ける人はいますが、神の愛を信じる、あるいは信じたい自分を認めることができた人は、その分だけ幸福に生きるチャンスが1つ増えていると思います。

 「私は愛されている」「私には存在する意味がある」「私は赦されている」このことを信じることは、悪いことではありません。それが人からは胡散臭いと言われることが恐かったら、人に言わなければいいのです。
 ただ、そのような自由な信じ方を受け入れてくれる信者や牧師、そして教会は、少数派ではありますが全くいないわけではありません。そういう人や教会と出会えば、喜びは倍になるでしょう。ですから、いつまでも孤立していなければならないということもありません。教会に足を運んだり、ネットで検索したりして、そのような出会いを求めてもよいと思います。

 「神」という言葉に胡散臭さを感じてしまう自分の感性が、政治や宗教によって作られてしまったことを反省し、もう一度何にもとらわれない立場で、神(のようなもの)があるかも知れないと考えるのは、人間が生きてゆく上で、悪いことではないと思いますが、」いかがでしょうか。

〔Last Updated on 05/16/2010〕

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