「うちによく訪ねてくる新興宗教かなにかの勧誘の人いるんですよ」
「ああ、エホバの証人?」
「エホバって言うんですか。なんですかエホバって」
「神さまの名前だって言うんだけど、エホバっていうのは、本当は神さまの名前としては間違ってるんだよ」
「本当はなんて言うんですか?」
「ヤハウェって言う人もいるけど、それも実は仮説で……」
「なんかややこしいですね」
「そうねぇ、デウスという呼び方をしていた時代もあるしねぇ……」
「デウス? ゼウスじゃなくて?」
「それはギリシア神話だよねぇ」
「やっぱりややこしいですね」
「ごめんね。まぁ神さまに名前なんてないんだよ。神さまは神さま、でいいんじゃないのかな」
「なんか、ごまかしてるみたいですねぇ」
「やー、すまない……」
(すいません、いつごろ質問されていたか、忘れました。)
■ゼウスについて
まず「ゼウス」からいきましょうか。
ゼウスというのは、ギリシア神話に出てきます。古代ギリシアで崇拝されていた、たくさんの神々(たとえば、アテネとか、アルテミスとか、ポセイドンとか、アフロディーテとか、ヘルメスとか、そのほかいろいろ)の最高神がゼウスです。オリンポス山に君臨し、世界を支配したと言われます。
ゼウスとヘラという神がいまして、この二人は夫婦です。しかし、ゼウスというのは精力絶倫というか、いろんな女神と愛人関係を持って子どもを作ってしまうんですね。おそらく多産豊穣の神さまでもあるので、ゼウスの神殿では子どもが生まれたり、作物がたくさん収穫できたりといったことを、古代ギリシアやローマ各地の人たちはお願いしたのではないでしょうか。とにかくゼウスはあらゆる女神との間に子どもを作っていきます。そういう女神や子どもたちに対して、ゼウスの妻ヘラは怒り心頭、追いかけていって動物に変えてしまったりという呪いをかけたりします。そんな風に、ギリシア神話というのは、かなり人間くさい神々の物語でもあります。なかなか面白い。
というわけで、ゼウスはキリスト教の神さまとは違います。
ただし、初期キリスト教の宣教者パウロは、このたくさんの神々を崇拝していた帝政ローマ時代の、アテネという大都市の中心で、この神々への信仰を利用しながら、キリスト教の神を宣べ伝えようとしたことが、新約聖書には記録されています。
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。……」(使徒言行録17章22−25節)
パウロとしては、アテネの人びとがさまざまな神々を拝んでいることを頭ごなしに否定したりせずに、たまたま道を歩きながら見つけた「知られざる神に」という碑文が刻まれた祭壇の言葉を利用して、たくみに、現地の人びとが知らないキリスト教という新しい宗教の神について、説明しようと試みています。
そんな風に、初期のキリスト教が、ギリシア・ローマの人びとの、神々への信仰を利用しながら伝道しようとしたという例もあるわけで、そういう意味ではキリスト教とギリシア神話が全く関係がないというわけではありません。
いや、むしろ、民衆レベルで考えたら、4世紀あたりにキリスト教がローマの国教になったとき、ギリシア・ローマの神々への信仰から、いきなり唯一神教に頭を切り替えろというのも難しい話で、各地の民間信仰は残っていた。それをキリスト教バージョンに切り替えてゆく長い歴史の中で、たくさんの守護聖人などが生まれていったと考えるのが妥当ではないかと推測されます。
もっと簡単に言うと、「多神教世界に住んでいた人たちは、実は頭の中身は多神教のままだった」。だからヨーロッパを母体として発展したカトリックには聖人とか天使とかがたくさん登場するのではないかと思います。
いちばん典型的なのは、聖母マリアですね。聖母マリアの原形は、女神ヴィーナスです。
もともとギリシア世界で人びとに愛され、親しまれ、崇拝されていたヴィーナスは、明けの明星、つまり金星が天空での姿であるとされていました。カトリック教会は最初、女神信仰を認めず、ヴィーナスへの信仰を否定しようとしましたが、民衆の女神への思いはどんなに否定しても消え去ることがなかったといいます。そして、最終的には、ヴィーナスは実はあの「神の母マリア」なのだ、という形で信仰内容のすり替えが起こってゆき、さすがにそのマリアへの思いはカトリック教会も否定しきれず、最終的には女神として「崇拝」してはならないけれども、聖人として「崇敬」してもよい、という風に許可した、というのが聖母マリア誕生の次第です。ですから、マリア崇敬のルーツはヴィーナス信仰にあると言ってよいでしょう。
話が大幅にズレました(このQ&Aではよくあることです)。
とにかくゼウスは、もともとキリスト教の神ではありません。
ただし、これはあくまで推測ですが、多くの民衆にとっては、4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になったとき以降、最高神をただキリスト教の神にすりかえるだけ、という思考が働いた可能性は否定できません。
キリスト教がローマの国教になって以降、神は教会の公用語となったラテン語で「デウス」と呼ばれるようになりますが、この言葉が「ゼウス」と発音が似ていることが何か意味しているのかはわかりません。ローマの公用語(というか共通語)といっても、最初のころは東半分がギリシア語圏、西半分がラテン語圏だったようです。ギリシア語では神は「テオス」といいます。このギリシア語「テオス」とラテン語「デウス」の発音が似ているのは、語源に関連がありそうですが、「ゼウス」という名前との関連はわかりません。全く関係がないのか、それとも何か関係があるのか、知っている人がいらっしゃったら、教えてください。
■デウスについて
「デウス」というのは、カトリック教会の公式言語であるラテン語で、キリスト教の唯一神を表すときに使う言葉です。あえて、今の日本語に訳せば「神」です。ラテン語起源のポルトガル語でも、神さまのことを「デウス」といいます。
日本では、キリシタンが「デウス」または「ダイウス」という言葉を使っていたと言われています。
もう少しくわしいお話をしますと、日本にカトリックのキリスト教が伝来した最初のころ(16世紀)は、このラテン語の「デウス」を日本語で訳するとき、仏教や儒教の言葉を借りて、神さまのことを、「大日(如来)(だいにち(にょらい))」、「天道(てんとう)」、「天帝(てんてい)」あるいは「天主(てんしゅ)」という訳し方をしていました。特に「大日」は「デウス(ダイウス)」という発音と似ている事から来ていたようです。
しかしのちに、キリスト教を日本に伝えたフランシスコ・ザビエル自身が、他の宗教との混同を避けるために、当初使用した「大日」を廃して、「デウス」と呼ばせるようにしたといいます。16世紀末には、日本のキリシタンの間では、「デウス」で統一されるようになったようです。
そういうわけで、日本でキリシタンと呼ばれたカトリックの信者たちは、神さまのことを「デウスさま」と呼んでいました。日本でキリスト教が弾圧され、強制的な改宗に応じなかったキリシタンは潜伏して「カクレキリシタン」となりましたが、それらの人たちもみな神さまのことを「デウス」と呼んでいました。
さて、余談になりますが、日本のキリシタンは、最初のころは、イエス・キリストのイエスを「ゼズ」あるいは「ゼウス」という呼び方をしていたそうです。しかし、弾圧が厳しくなる中で、弾圧する側の権力者のほうで、「耶蘇宗門(やそしゅうもん)」、「耶蘇教(やそきょう)」という呼び方がひろまっていき19世紀には「耶蘇教」または「切支丹」という呼び方が確定したようです。
■エホバについて
エホバ、またはエホヴァというのは、「エホバの証人」という宗教団体との関係で、耳にした人もいらっしゃるかも知れません。「エホバの証人」のみなさんは、神さまのことを「エホバ」という名前で呼んでいます。
しかし、このエホバというのは、旧約聖書で神を呼ぶときに使われた言葉の読み違えからきているものです。つまり、エホバというのは間違いから出てきた呼び名です。「エホバの証人」という団体名そのものが、読み間違いからきているというわけですから、ちょっと恥ずかしい話ですね。しかし、「エホバの証人」だけが恥ずかしいのではなくて、それ以外の一般的なキリスト教の世界でも、一時期、学者さんによってはご自分の著書に堂々と「神エホバが……」と書いていらっしゃる方もたくさんおられたので、キリスト教界も偉そうなことがいえたものではありません。
旧約聖書はもともとヘブライ語で書かれています。ヘブライ語の文字というのは、母音と子音に分けると、子音しか表現していません。これに母音をつけて読み下すには、自分の頭のなかで母音を補って読むしかありません。イスラエル人は母国語なので、そのままで読み下すことができますが、イスラエル人以外の人にとってはそれは難しいので、それぞれの文字に母音記号というものをつけて読みます。ヘブライ語で、神の名前を書いた部分は、文字だけ(つまり子音だけ)で表現すると、「YHWH」という音に相当する文字がならんでいます。
ところが、昔からイスラエル人、あるいはユダヤ人たちは、この部分を「アドナイ」と読んでいました。「わが主」という意味です。それはユダヤ人のいちばん基本的な戒律である「十戒」に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に書いてあるので、この「YHWH」の部分を条件反射的に「アドーナーイ」と読んでいました。そして、イスラエル人以外の人が読むためのヘブライ語聖書(旧約聖書)でも、「YHWH」の部分には「アドーナーイ」の母音記号がつけてあるのです。
そこから、「YHWH」に「アドーナーイ」の母音記号をつけて読む、という間違いが発生しました。つまり「adonay」なので、母音は前から「a,o,a」です。これを「YHWH」にあてはめると、「YaHoWaH」になります。英語風なら「イェホワー」と読めそうですが、ドイツ風に発音すると「イェホヴァー」になります。そこで、神の名前は「イェホワー」または「イェホヴァー」と呼ばれるようになり、日本語では「エホバ」と音訳されたのです。
そういうわけで、「エホバ」というのは、誤解から発生した読み方ですから、間違いなのです。
■ヤハウェについて
ヤハウェ、またはヤーウェ、ヤーヴェなど、いろいろ発音のしかたはありますが、ヘブライ語でこの言葉を神さまの名前である、と言っている人もいます。(ここでは一応「ヤハウェ」と呼ぶことにします。
これは、さきほど「エホバ」について述べたときにご紹介した「YHWH」を、学問的に仮説としてこう読むことができるだろう、と学者たちが考えた読み方です。ですから、あくまで仮説に過ぎないので、絶対に正しいとは言えないのです。おそらく「ヤハウェ」だろうということなので、「ヤハウェ」が正しい神の名前だ、と言い切ってしまうことはできません。一応便宜上、「ヤハウェ」という言葉を使っているだけです。けれども、一応「ヤハウェ」というのが最近の神学の傾向としては、ポピュラーになっています。
確かなことは不明だとされていますが、この神の名前「ヤハウェ」が、ヘブライ語の動詞「ハーヤー(ある、存在する)」に起源があるという説があります。
紀元前13世紀、モーセが、奴隷として迫害されているイスラエル民族を救うために行きなさい、と神さまに命令される場面に、この動詞が出てきます。
「モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところに参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3章13−14節)
この「わたしはある」の「ある」が「ハーヤー」という動詞なのです。ただそこにある、静止してある、というのではなく、もっと積極的にダイナミックな意味をこめて「ここにあるのだ」、「ここに存在しているのだ」という意味をこめた動詞です。
モーセの前で「『わたしはハーヤーしている』というのがわたしの名前だ、と神が言った、というこの物語から、その活用形として「ヤハウェ」という言葉ができあがっているという説があります。
これもあくまで仮説で、確かなことはわかりません。
ただ、「ヤハウェ」というのが、神の名前として現在は広く使われている言葉であることは確かです。
わたしの神学生時代には、「父上、母上、ヤハウエ様を大事にしなさい」と冗談にして言っていた教授がいらっしゃいましたが、こんな冗談が言えるのも、「ヤハウェ」というのが仮説にすぎないという安心感もあるからなのでしょう。
■カミについて
さいごにオマケとして、日本語の「神」について少し考えてみたいと思います。
「カミ」という言葉は、やまとことばですから、日本ではキリスト教伝来以降よりも長い歴史を持った言葉です。日本では、古来から霊力があって畏(おそ)れ敬う対象のことを「カミ」と呼んできました。古代から日本では、人びとは、特別なカリスマを持った人間、動物、山や川、海、大地のような自然のなかにカミが住んでいる、あるいはカミそのものであると考えていました。そして、そのようなカミを祀(まつ)ってきたのが、各地にある神社(神道:しんとう)でした。
しかし、キリスト教が日本に伝来した当時、このような神道用語はあまり一般的ではなく、キリスト教の神を表現するために、仏教や儒教の言葉を借用して、「大日」、「天道」、「天主」などと表現していました。しかし、カトリックの宣教師たちは、やはり他の宗教と混同されるのをおそれて、ラテン語のまま「デウス」と呼ばせるようにしました。そして、そのまま日本はキリスト教弾圧の時代に入っていきました。
幕末、鎖国が解けて、キリスト教が再び日本に入ってきたとき、カトリックの宣教師たちのラテン語「デウス」、またプロテスタントの宣教師たち(その多くはアメリカから)の英語「ゴッド」の訳語として、最初に使われたのは「天主」、「上帝」、「神」などといった言葉でした。これは、中国で宣教活動を展開していたカトリックでは、「上帝」、「天主」という言葉が使われていたので、その影響を受けたのでしょう。中国では結局「天主」という呼び方にしなさい、とローマ教皇が命令して決着がついたようです。そのためか、カトリック教会は、中国を主として東アジアでは、長らく「天主教」という名前で呼ばれていましたので、日本でも明治時代の最初のころは、カトリックではもっぱら神さまのことを「天主」と呼ばせていました。
いっぽう、プロテスタントの宣教師たちは(その多くはアメリカから)英語「ゴッド」の訳語として、明治の最初のころは「天主」、「上帝」などという言葉を使っているところもありましたが、次第に「神」という言葉に統一するようになっていきました。
そしてカトリックでも、プロテスタントと同じく「神」という言葉を使おうと決定したのが1959年、それ以降は、日本においてキリスト教の神さまといえば「神」という言葉を使うようになったのです。
これは、もちろん神道の「カミ」と混同する危険性もありましたが、畏れ敬うべき霊力のある存在とか、人間を超越した存在という意味を表す上では適切だろうとされたようです。
わたし個人としては、神に名前があるという感覚にはどうもなじめません。
神という言葉を一般名詞として使い、キリスト教の神、ユダヤ教の神、イスラームの神、といった風に使うぶんにはいいのですが、「神」という名前の神がいるとか、神に向かって「ヤハウェ様」と呼びかけたり、というのはどうもしっくりときません。
神がモーセに向かって、「わたしはある(訳し方によっては、「ありて、ある者」あるいは「ある者としてある者」)」と答えたのは、神が人間から名づけられることを拒絶していることのしるしのように、わたしには感じられるのです。
ただある、ただいる、その者として存在しているのであって、○○○様という風に何かの固有名詞で呼べるような相手ではないのだ、という気がするのです。
名前をつけて呼べるということは、まるで人間と対等の存在ではないかという気がしますし、存在する場所も限定されてしまうような気がします。
神というからには、人間と対等ではありえず、はるかに人間を超えた超越者であり、どこにでも存在しうるのであって、とても人間に把握できるような相手ではない、という方であってほしいですね。そんな相手を名前で呼べるという感覚がわたしにはよくわかりません。
ですから、わたしが祈るときには、他に何と表現していいかわからないので、一般名詞あるいは称号のようなつもりで「神さま」と呼びかけるようにしています。
(参考文献:『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002)
〔最終更新日:2006年9月20日〕
このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。
礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる
ボランティア連絡所“Voluntas”を訪ねる
解放劇場を訪ねる
教会の玄関へ戻る