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 Q. 「信じる」って一体どういうことなんですか?


 神を信じるってどういう心持ちなんですか?
 「信じなさい。そうすれば救われます」って言われるんですけど、そんな風に固く何かを信じることが自分にできるのかどうかもわかりませんし、あまり信じ込んでしまうと、自分が見えなくなってしまうんじゃないだろうか、とか、何か自分が自分でなくなってしまうような気がして怖いんです。
 「信じる」って一体どういう気分になることなんですか?
(いつ、どなたに質問されたかも憶えてないくらい昔に質問された件)


 A. 「神さまがいるんじゃないか」と想定してみることです。


▼意外と共通理解はないのです

 そうですね。よく「信じる」とか「信仰する」とか言います。
 でも、実は「私は神さまを信じています」と言っている人の内面は、人それぞれバラバラなんです。
 たとえば「神を信じる」と言っても、その神さまのイメージは、雲の上にいるおじいさんのようだったり、宇宙の外側で全てをあやつっている博士のようであったり、あるいは道ばたで死にそうになっているホームレスの人の中にこそ神さまがいるのだ、と説いている人もいますし、人間一人一人の心の中に神さまが住んでいると考えている人もいます。
 どこに神を発見するかというのは、実は人によってかなり違うのです。
 でも、それを口に出してしまうと、「それは間違っている」と言われるんじゃないか、論争になってしまうんじゃないだろうかと思って、黙っているいる人がほとんどなんですね。
 ですから、「神とは何者か?」「神はどこにいるのか?」という話をクリスチャン同士でもほとんど論議しません。最初から一致しないような予感がするからです。ですから、同じ神を信じて一致しているようで、実は意外とクリスチャンというのは孤独感や孤立感を抱えているものですし、たとえば教会で牧師やベテランの信徒さんが自信たっぷりに「ここに神がおられます」、「ここに神がいると感じた」と言い切ってしまったりすると、そういうのとは違う感覚を持っている人たちは、「じゃあ、私の感じていることは間違いなのかな」と自己嫌悪に陥ってしまったりということはよくあります。

▼2段階の「信じる」

 しかし、私が私なりにいろいろな人と話したり、自分で考えたりして思うのは、一言で「神を信じる」と言っても、少なくとも2つの段階の「信じる」があるようなのですね。

(1)1つは「神」というものが存在することを信じる、ということです。神がいるのか、いないのか、証明することはできませんが、それでもとりあえず、どこにどのような形で存在しているかはさておき、とにかく「神はいる」と信じているということです。
 といっても、「神さまなんて、いて当たり前」と感じている人もいれば、「いるかどうかはわからないけれど、今は信じたい」と信じる努力をしようとしている人など、さまざまなパターンがあります。あるいは、普段はいないと思い込んでいても、つい「苦しい時の神頼み」で、危機に陥った時にだけ「神さまがいてくれたら……」と思わず祈ってしまう、というパターンもあるでしょう。これが悪いことだとは私は思いません。人間関係でも、つらいときに思い出してしまう人がいたりしますでしょう。そういうものだと思えば、そんなに責められるほど不謹慎なことだとは思いません。もちろん、「こんなときだけすみません」というご挨拶くらいあったほうがいいとは思いますけれどね。

(2)もう1つは、「神はいる」ということを前提にした上で、さらに「その神を信頼する」かどうかということです。
 これも、その中にはいろいろな方がいて、「神はとても頼りがいのある存在で、その人の人生やこの世の出来事に力を発揮してくれる」と感謝に満ちた生活をしている人もいれば、「神さまなんか全然頼りにならない。私の人生は最悪だし、世界には悲惨なことばかり起こっているじゃないか」と思って、神さまを恨んでいる人もいます。そういうことで、結局「神さまなんているはずがない」という結論に至っている人もいます。

 「信じること」「信仰」「信頼」、これらを英語では“Belief”と言ったり、“Faith”と言ったり、“Trust”と言ったりしますが、これは多少使い方に偏りがあったりしたとしても(たとえば、“Faith”は信仰のことを指す場合が多い。しかし人間に対する信頼を表す場合もある。“Belief”は神にも人間にも同じように使う。“Trust”は人間について使うことが多い)、そんなに厳密に区別したりするわけではないんですよね。
 ですから、日本語においても、神を信じるということを、別段「信仰する」という思い言葉を用いなくても、「神を信頼する」「神を信用する」という言葉に置き換えて理解してもいいのではないかと思います。
 先ほどの(1)、(2)に関して言えば、(1)は神に対する信頼のうちの「信」の部分、(2)は神に対する「頼」の部分という言い方もできるのではないかと思います。

▼「存在してるけど、頼りにはできない」

 では、私自身がどういう信じ方をしているかというと、正直な告白をしてしまえば、「神は存在していると思いたいが、あまり頼りにはできないな」といったところでしょうか。
 神がいる、という証拠はありませんが、神がいない、という証拠もありません。それなら、一応「いる」という仮定で生きてみたほうが、自分を客観的に見つめることもしやすいし、心細いときの支えにもなります。ですから、一応「いる」と思っておこうということにしています。

 しかしその一方で、私はあまり神に細かいところで手助けを期待するということはできないと思っています。
 なぜなら、神は私が苦しい時に「助けてください」と祈っても、すぐに助けてはくれないからです。また、神は私が何か願い事をしても、それをそのとおり聞き入れて叶えてくれた試しがありません。
 もし祈って願い事が叶ったと思う人がいても、私は簡単には信用しません。それは単なる偶然の可能性が高いし、ひょっとしたら、その人が自分の幸運を神に感謝する一方で、誰かが悲しみの涙にくれているかもしれません。

 かつて太平洋戦争で、広島と長崎に原子爆弾が落とされて大日本帝国が降伏した時、多くのアメリカ人が神に感謝しました。「これで戦争が終わる!」と。今でも「うちのおじいちゃんが日本上陸作戦に行かなくて済んだのは原爆のおかげです。原爆のおかげで今ここに私がいるのです。原爆は神の御業です」と当たり前のように言う人がアメリカにはいます。これを思うたび、人間が「神さまのおかげ」と言っている事ほど当てにならない、という気分に私はなります(ですから、逆に何か悪いことが起こっても、それを「天罰だ」と思ったりする必要もないということですけどね)。

 この世には「神はいない」という証拠はありません。でもたとえ神がいたとしたとしても、「神は全ての人の豊かさと安全を保障してくれるわけではない」「神は全ての人の願いを叶えてくれるわけではない」という証拠なら掃いて捨てるほどあります。

 ですから、神はいるかもしれませんが、神は何もしてくれないのです。神は私たちの生活に手出しをしたりはしないのです。むしろ手出しされたら迷惑です。明らかに不公平が生じてしまいます。神はこの世のことに手出しをしてはいけないのです。そんな不公平なことをしてこの世を混乱させる奴は、もはや神とは呼べません。
 そういうわけで、私は神は存在している「かもしれない」が、期待もしていないし、頼る気もないし、頼ってはならない。
 むしろ、神は何もしないでいただいたほうが、地上の出来事の不合理に、あきらめがつくとまではともかく、結局は人間の責任なんだと考えることはできるからです。

▼神=愛=命

 しかしその一方で、私は「神は愛です」(ヨハネの手紙一4:16)という言葉は非常に好きで、この言葉が本当だったらいいのになとは思っています。
 あるいは、「神は純粋な愛そのものである」という仮定が当たっているとすれば、そこに賭けてみたい」という気持ちとも言えましょうか。

 世界が災害にまみれているのに、それでも自然界は命を生み出そうとします。
 生物は皆いつかは死んでしまうのに、それでもまた新しい命が生まれてきます。
 この地球という星の置かれた環境も、太陽と月との距離も、生命を生み出す諸条件も、生命体そのもののメカニズムも全てが驚くほど見事に作り上げられていて、まるでこの世には設計者がいるのではないかと思いたくなるほどです。
 ここで、私は「創造論」とか「インテリジェント・デザイン」といった専門用語を出して、この世が神さまに全て精巧に作り上げられたのだ、という話をしたいと思っているわけではありません。たとえば、生物の進化でも、結構行き当たりばったりのような要素があることが最近の研究ではわかってきて、遺伝子や生物のパーツの中にも、昔は使っていたけど今は使ってない機能とか器官があることもあり、結構偶然に支配されているなと思うことも多いのです。
 ですから、やはりここでも、神がこの世のいちいち細かいことに手を下しているわけではない、ということが言えます。

 しかし、それにしても、やはり広い宇宙のなかで、この地球に生命というものが奇跡的に誕生したということは特別のことだったんじゃないかなと私は思います。
 また、そういうことを思ってみたりする「私」の「心」という存在も不思議です。
 そして「私」という「心」は他人の「心」の存在を感じ取って、交流することもできます。そうして、人は人を「愛」したりします。
 もちろんこの地上には、戦争や犯罪や暴力が、あるいは人間の過ちによる災害があふれています。しかし、それでも人間は人を好きになったり、人のために自分の何かを使ってみたい、自分の何かを犠牲にしたいと思うこともあります。
 科学の世界では「エントロピー増大の法則」と言うそうですが、熱であれ、運動であれ、この世の全てのエネルギーは次第に拡散し、物質は崩壊し、生命は死に向かってゆきます。しかし、そうであるにも関わらず、生命は生命を新しく生み出そうとし、心は心を求め、愛そうとします。そして「命こそ宝」という感覚を私たちの心の中に生み出します。
 この働きの根源にあるものが「愛」と呼ぶべきものだと思いたい、という気持ちが私にはあります。

 そして、それが「神は愛です」という気持ちの告白に結びつくのであってほしい(ちなみに「神は愛」というこの聖書の言葉の原典はギリシア語で書かれていますが、ギリシア語の文法では「神は愛」と読んでも「愛は神」と読んでも良いのです)。
 この「愛」というものが「神」なのだ、と言ってしまってもいいのではないかと私は思います。
 そして、この世に「愛」があるならば、その「愛」を信用し、信頼する気持ちを持ってもいいんじゃないかなと思います。
 何を信頼出来るかを考えたとき、そこに(言葉だけの見せかけの愛ではなく)本当の愛があるかどうかで判断すればよいと思ってよいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼「愛」という「何か」を信じる

 そういう意味で、「神を信じる」とまでは言えなくても、「愛を信じる」という気持ちになれれば、それに越したことはないように思います。それはキリスト教では結局一緒のことです。「愛は神」なのですから。
 「神」と言ってしまうとよくわからないが、「愛」というものがあるところにはあるんだろう。それが本物なら信じてやろう、と。そう思えるならもう十分かもしれません。

 もっと言ってしまうと、「神」という言葉も、「愛」という言葉も、「言葉」であるかぎり結局は私たちの生命や愛の源である「何か」を表現するための道具に過ぎません。言葉はしょせん言葉でしかありません。私が「あってほしい」「いてほしい」と思うのは、その「何か」なのです。そして、その「何か」が「ある」と思いたいのです。

 その「何か」は「愛」なのですから、きっと私のことも愛してくれているのでしょう。また、あなたのことも愛してくれているはずです。全ての人が、全ての動物、全ての植物、全ての無生物、全ての存在と共に、その「何か」に愛されているのです。
 誰かに愛されているって想像するのは素敵なことではないでしょうか。
 「愛」そのものは目に見えず、形も質量もなく、実体がありません。また「愛」そのものが何か物を運んだり、移動させたり、実力行使できるわけではありません。何の力も持っていないようでありながら、しかし、愛ほど強いものはないとも言えます。

 というのは、たとえば具体的な人間関係においても、誰かに愛されていると実感することは、私たちに生きる力や喜びを与えてくれますし、生きがいや生きる意味を発見しやすくなります。生きよう。何かをしよう。そういう力を、人間は愛されることによって与えられます。愛に突き動かされた人間が何を生み出し、何を造り、何を実現するのか、その可能性は無限大です。「愛」の可能性は、そのまま人間の可能性になるのです。
 そう思うと、「愛」は無力でありながら、「愛」ほど強いものもない、ということができます。
 そういう「愛」の力を信用して、信頼して生きてみても、悪いことはないのではないでしょうか。
 そして、繰り返しになりますが、キリスト教では「愛は神」なのです。「愛」を信じることは、「神」と呼ぶこともできる何か不思議な「何か」を信じることと同じなのです。
 (でも、それでも「愛」は信じられるけど「神」はわからない、ということであれば、それでもよいのです)

▼神さまが愛してくれていたらいいのにな 

 というわけで、「愛」という別名を持つ神さまがいると仮定してみる、あるいは想定して生きてみる。または、「愛」という別名を持つ神さまがいたらいいのになと思ってみる。
 「愛」という別名を持つ神さまと呼んでもいいような何者かがいるつもりで生きてみようか、自分は愛されているのかもしれないな、という気持ちで生きてみる。そして、それでうまくいきそうだなと思えたら、もうそれで十分あなたは「信じる人」です。
 それ以上のことは必要ではありませんし、むしろそれ以上のことは過剰であって、決して必要なことではないのです。
 そういうつもりで、「自分は愛されている」ということを、「軽く」信じてみることをおすすめします。


▼蛇足

 さて、ここから先は付け足しになりますが、よく教会の牧師さんや信徒さんの中に、「見えないからこそ信じるのです」とわかったような顔をして言う人が時々います。そして、それが妙に力強いんだけれど、よく意味がわからない。意味がわからないということは自分がバカだからなんだろうか? それともやはりそれは不信仰ということなんだろうか? と困った経験をした方はありませんか?
 ああいう物言いを気にすることはありません。あれは言葉遊びで人を煙に巻いておいて、何か自分が高尚なことを言ったかのように自己満足しているだけなのであって、言っていることに深い意味はありません。
 見たり触ったりして存在を確認できないものは、結局信じるか信じないかしかできないのは当たり前です。「見えないから、信じたい人は信じるし、信じたくない人は信じない」というそれだけのことなのです。だいたいそもそも「見えないんだから、もうあとは信じるしかない。信じない人もいるだろう」ということしか言えないでしょう。
 神を信じることが何か他の人よりも尊いことをしているかのように思いたい人が、自分は信じているということを自慢したいだけなのであって、そういう人に限って、その「信仰」の内容など、自己満足の妄想の集大成でしかないことが多いのですから、そのような人の言葉にたじろぐ必要はありません。

 また同じような理由で、たとえば、「ますます信仰が増し加えられますように」といったお祈りを牧師さんや信徒さんがすることがありますが、そういう言葉を聞いても、「もっと信心深くならなければならないのだろうか」とか、「もっと深く、固い信仰の持ち主がいるのだろうか」といったことに患わされる必要もありません。
 「神」というものがその存在自体客観的に証明できないかぎり、「信仰」というものはあくまで仮定/仮説に過ぎないのです。先程も述べましたように、「信じる」というのは、「神さまがいることにしておく」「自分は愛されていることにしておく」程度のものなのです。それ以上に「固い」「深い」ものにしようとすればするほど、信仰というものは自分勝手な思い込みもしくは妄想になっていってしまいます。その事は、古今東西どこの歴史を見ても、宗教がいかに血みどろの争いを繰り返してきたか、その有様に明らかです。
 「固い」「確固とした」「統一された」「明確な」信仰というものは、往々にして思い込みの延長であり、集団幻想か洗脳でしかないのです。
 ですから、繰り返しになりますが、「信仰」というものは「軽い」ものでよいし、「疑い」ながらでも全く構いません。むしろ、「疑いの無い信仰」というのは非常に恐ろしく危険なのであって、それは必ず狂信的な言動に結びつきます。

▼軽信のススメ

 「命って素晴らしい」「愛って素晴らしい」「神さまがいたらいいのにな」「神さまがいることにして生きてみよう」。
 もうそこまで思えることができたら十分です。それ以上の過剰な信仰はむしろ有害です。
 そういうわけでは、私は断然「軽信」をおすすめいたします。

(2015年4月2日)

〔初版:2012年7月11日〕
〔第2版:2015年4月2日〕

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