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 Q. 神なんて想像上の産物にすぎないんじゃないんですか?

 質問 「あなたは神は存在すると思いますか? それとも存在しないと思いますか? なぜ、そう思うのですか?」

 Aくんの答案 「神など人間の想像した架空のキャラに過ぎないと思います。それは弱い人間が作り出した幻想です」
 Bさんの答案 「わたしは神さまは存在すると思います。けれども、キリスト教で言っている神さまがそれかどうかは、わかりません」
 Cくんの答案 「わかりません、そういうことを考えても、何の意味もないと思います」
 Dさんの答案 「ふだんはいないと思っていますが、困ったときや、苦しいときには、つい『神さま』と頼ってしまう、人間って弱いものかも知れません」

 三十番地教会の牧師 「ほとんどの宗教の信者が、自分ではそうと意識せずに、想像上の神を信じているんじゃないですかね」
 一同 「意味不明です」
 三十番地教会の牧師 「すいません……」

(2001年ごろには、そんなアンケートのようなことを教え子にしてみたりしていた時期がありました)

 A. 誰も本物を見たことがないんで、仕方ない面もあるんですよ。

「神はいない」でもよいのです


  神なんて、想像上の産物じゃないか……。はい、そうとも言えます。
  なにせ、神なんて姿も形もありません。同じように姿かたちがない空気やその他のガスのように質量や圧力が計測できるわけでもありませんし、ほとんどの人にとっては声や音を聞いた事もないわけですから、そんな存在を確定できるわけはないのです。残念ながら、神の存在を計測したり、証明したりした例は、聞いた事がありません。宗教の専門家でも、それはできないのです。
  したがって、神はいない。そう考える事もできます。

  ある宗教の信徒のなかには、「いや、科学で証明できなくても、神はいる。神は科学や理性の領域を超えたところにおられるのだ」と主張する人もいます。
  これはこれで、特に間違ったことを言っているわけではありません。有名な哲学者のイマヌエル・カント(1724−1804)という人は、人間には神などの超越的な存在や出来事は「人間には認識できない」ということを証明しました。しかし、神などの超越的な存在や出来事は「ない」わけではない、という可能性も残したそうです。ですから、「科学や理性による認識を超えたところに神はいる」と言うことはできるのです。
  しかし、これで明らかになるのは、「神はいない」ということを証明することもできない、ということに過ぎないので、神が存在していることを強く根拠づける話でもないのです。「神がいる」ということは、間違いだとは言えないけれども、正しいと証明することもできない。結局「そう言うのは勝手」というレベルにとどまらざるをえないのです。

  また、これは私もクリスチャンのはしくれでいながら、他のクリスチャンの方々を見ていて時々思うのですけれど、宗教の信徒の方々も、実はそれぞれめいめいに勝手な「神さま像」を思い描いて、文字通り「想像」しているだけの人が多いのです。自分の想像した神さまに「罰せられる」とおびえてちまちま暮らしている人がけっこういます。こんな姿を見た人から、「神さまなんて想像の産物を信じて暮らしてるなんて、バカなんじゃないの?」と笑われても仕方がないようなことを、多くの信者がやっているのです。
  神には姿も形もありません。神の声を聞いたとか、神の姿を見たという人の体験の多くは、錯覚か幻覚か妄想の類です(すべてがウソだ、とは言いません。これについては後ほどあらためて述べます)。人間には神の存在も神の思いも考えも、認識することはできません。たとえ、神が存在したとしても、それを人間は認識することができません。ということは、神は人間にとっては、「いないも同然」ということになります。「いないも同然」だったら、「神については想像するしかない」ということになります。それで実際、一生けんめい神の言いつけだとか、神の戒めだとかを想像して、自分の人生を束縛したり、他人の人生を責めたてたりしている人がたくさんいます(やめときゃいいのに、「イエスさまが見たら、何と言うかな?」と言って、信徒を脅してマインド・コントロールしようとする牧師もいます)。
  しかし、それらのほとんどは「神についての想像」です。神の存在も意図も、人間には認識できないのですから、人間は神の存在と意図については想像するしかないのです。冷静に考えてみると(別にとりたてて冷静にならなくてもわかることですが)、想像上の産物にふりまわされてなんて生きるなんて、くだらない生き方です。想像上の神にふりまわされて生きるくらいなら、神のことなんか考えるのはやめて、神のことなんか忘れて生きたほうが、よほど健全だ、と言えないでしょうか。
  そういうわけで、「神はいない」で生きる人は、それはそれでもかまわないのだと思うのです。


「神はいる」もまたよいのです

  ところが、ややっこしいことを言うようですが、とにかく神が存在する事も証明できないかわりに、神が存在しない事も証明できないので、「神などいない」と考えるのもけっこうなのですが、「神はいるのではないか」と想定するのも好きずきだ、ということになります。ですから、「神はいる」と思いながら生きることも、またそれはそれでいいとも言えるのです。要は、どっちの考え方をとるほうが自分としては幸せなのか、どちらが自分としては落ち着くのかを基準に決めたらいいわけです。
  神を「信じる」と言いますけれども、要はいるのかいないのかわからないから、「信じる」わけです。いることがちゃんと証明できるのなら、神を「知る」という言い方になるでしょう。しかし、証明できないから「信じる」としか言いようがないのです(もっとも、心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875−1961)という人は、イギリス国営放送局のインタビューで「あなたは神を信じますか」と聞かれたときに、「私は知っている」と答えたそうです。心理学の立場から神を「知る」というのはどういうことなのか、これもあとでちょっと触れてみたいと思います)。

  「信じる」というのは、強く強く「本当だ」と思い込むことだ、と誤解している人がたくさんいます。信者のなかにもそう思い込んでいる人がいるし、信者でなく、信者になりたくないと思っていて、信者を軽蔑する人の中にも、「信じること」を「強い思い込み」のことだと誤解している人がいます。
  しかし、ここではっきりさせておきたいのですが、「信じる」というのは、「固い思い込み」のことではありません。「疑うと罰せられる」などというのは悪質なマインド・コントロールです。認識できない相手なのですから、存在を疑うのは健全な証拠なのです。
  「信じる」というのは、まぁ言うなれば、「そういうことにしておく」というくらいの感覚でしょうか。「そういう想定で事を進める」ということですね。
  「神を信じる」というのは、「神がいるということにしておく」。あるいは「神がいるかもしれないと想定してみる」という程度でじゅうぶんなのです。神のご意志にしても、「神はそういうことを望んでおられるのではないか、と仮に想定してみる」という程度でいいのです。

  「神はこう考えておられるのだっ!」と固く思い込むのは狂信です。そうなってしまいますと、結局自分だけが正しいという独善主義に陥って、宗教戦争を招くだけですから。「自分が神について考えている事は、あくまで推測にすぎないんだけれども」という謙虚さを持ちながら、「とりあえず、それが神の思いだと想定してみる」、「あれ間違ったかな、と思ったら、考えを改める」。信仰なんてそれくらいがちょうどいいのではないのでしょうか。
  なんで、そうまでして「神さまがいるということにしておく」のがいいのかというと、そうしたほうが、心が安心できたり、倫理的・道徳的な基準を持つことができたり、人生の意味を感じたり、生きる目標や目的ができたりすることがあるからです。信じたほうが幸せになれる人は、信じればよいのです。
  これら「信じること」の効用について、もう少しくわしく考えてみましょう。


心が安心でき、孤独感を癒すことができるようになる

  「神」という存在を想定しないでいると、この世は人間とその他の生物と無生物だけでできた、単にそこに存在している、それ以上でも以下でもない世界だというものの見方になります。
  とりわけその中でも、私たちの暮らしで重要な位置をしめているのは、人間同士の関係です。私たちは、夫婦や親子、兄弟や姉妹、そして親戚などの家族との関係、友だちとの関係、先輩後輩の関係、職場やその他の社会的な集まりで出会う人びととの関係など、さまざまな人間関係のなかで生きています。その中には、いっしょにいれば楽しかったり、心が安らいだりするような関係もあるでしょうし、傷つけあったり、いじめられたり、顔も見たくないのにどうしても顔を合わせざるを得ない、という関係もあるでしょう。
  案外、人間というのは狭い世界に生きている人が多いもので、自分の身の回りの人に裏切られたり、傷つけられたり、自分の事が理解してもらえなかったりすると、自分の人生全体がダメになってしまったのように落ち込んでしまいがちなものです。落ち込んでいるときに、慰めてくれたり、励ましてくれたりする人が回りにたくさんいる人はいいですが、誰もがそんなに器用に人間関係を広げているわけではありません。

  この世で、人間関係という横のつながりだけしか目に入らない生活を送っていると、その人間関係がトラブルに陥ったときに、全ての希望を見失ってしまいそうになります。そんな時、「神がいる」、「神さまは私を見守っている」という縦のつながりを意識する思考法を身につけていますと、「他の誰にもわかってもらえなくても、神は私のことを理解してくれている」と思うことができます。これは大きな心の支えになります。
  仮定法で「もし神がいるならば」という想定をするだけでもいいのです。「もし神がいるのなら、私のことを見捨てずにいてくれるだろう」と仮定するだけで、効果があります。この思考法が、自分を完全な孤独に落ち込んでしまうことから救ってくれます。
  そして、この思考法に慣れてきて、次第に「神が私のことを知ってくれているから大丈夫」という気持ちが育ってきますと、今度は本当に「わが道を行く」「自分らしく生きる」という強さを身につけてゆく事ができるようになります。

  この思考法は、もともとわが道を行くことができる人や、周りが自分のことをどう思っていようが気にならない鈍感な人には、あまり効果がないかもしれません。人との関係のなかで翻弄されがちな人が、自らの支えとして、自分を見守る神の存在を想定してみる、ということに効果があるのだと思います。
  また、「わが道を行く」というのも、ほどほどにしておかないと、傍若無人で無神経な人になってしまう危険性があります(じっさい、「神さまは私のありのままを受け入れてくださる」と言いながら、どうしようもなくわがままな自分を正当化しているクリスチャンも時折見かけます)。何事も中庸がよろしい、というのは、このことについても言えるのではないかと思います。 


倫理的・道徳的な基準を持つことができる

  さて、「神がいるかも知れない」という発想ができる人というのは、自分の事を客観的に見ている第三者の視線を想定する事ができる人です。誰にも見られていないと思い込んでしまうと、人間というのは何をしはじめるかわかりません。「水は低きに流れる」と言いますが、ほうっておくと人間というのはだんだんと堕落してゆきます。
  人間同士の関係しか見えていない人は、自分の中に善悪の基準がありません。人間同士の関係のなかで決まったルールや法律などには従うことがあっても、他の人に見られていないと思うと、平気で反道徳的なことや、違法行為を行う事ができます。そして、自分の顔や名前さえ明るみに出なければ、何を言っても何をやってもいいと思い、自分の正体を隠しながら他人が苦しむのを見て喜ぶような、そんなダークサイドに陥る可能性を人間は常に持っています。

  自分の中に自分なりの善悪の基準を持っている人は、ある意味「美しい人」だと言えると思います。善悪の基準を持っているということは、その人なりの生き方の美学があるからでしょう。そういう美学を持っている人はすばらしいと思います。それは、理想化された武士道の倫理であったり、イスラームの生活様式であったり、仏道に帰依する心であったり、クリスチャンの隣人愛であったり、あるいは特定の思想や宗教に根拠をおくわけではないけれども、自分は家族に対する愛を一番大切にしていて、そこから全ての事を考える、ということでもいいのですが、その人なりの生き方の基準を持っている人は「美しい人」だと思うのです。
  ここで大切なことは、人に見られていようが見られていまいが、生き方が変わらない、ということです。そういう意味での変わらない自分を持っている人は、毎日の自分の生活から満足感を得る事ができますし、物事の善悪の基準となるべき美学を持っているということは、自分に自信を持ったり、自分についての尊厳の思いを抱くことにもつながります。
  「神が自分を見ている」と想定することは、そのような自分なりの美学を持つ助けになります。誰も見ていなくても、自分の行いをちゃんと見守っている存在がある、と思う事で、自分を律する事ができやすくなります。人間は弱いものですから、たとえ自分なりの美学があったとしても、やはり誰も見ていなければ、自分に甘くなってしまったりするものです。しかし、「もし神が見ていたら、どう思われるだろうか」と考えるくせをつけておくことは、人が見ていないところでも自分のライフスタイルを大切にする心の助けになるわけです。

  この場合、あまり具体的に「神は○○○することを命じておられる」とか「○○○すると、神の罰が下る」とか「死んだあと地獄に落とされる」とか「天国に入れてもらえない」とか、そういう発想をするのは、やめておいたほうがいいでしょう。
 先にもすでに述べましたように、神が何を考えておられ、何を望んでおられるかは人間にはわかりません。わからないにも関わらず、「神は○○○を命じておられる」とか「禁じておられる」とか言うのは、しょせん全てフィクションです。フィクションに振り回されて生きるのはやめておいたほうがいいというのがまず指摘しておきたい一点。
  もう一点は、「神さまに罰せられる」とか「神さまにほめてもらえる」とか言っている姿勢自体が、結局「他人の目を気にして生きる」のと、さほど変わりがないということです。「神さまに罰せられる」「神が喜ばないのではないか」と恐れを抱いている人の大半は、実は「『神さまに罰せられる』と脅すように言う教会員や牧師の目を恐れている」というのが実情なのです。だから、教会から離れたり、教会の人と会わないようにすると、ホッとして解放されたような気持ちになるのです。
  唯一の絶対的に正しい生き方なんてありません。人それぞれが自分なりの生き方の美学を持てばいいのです。そうやって生きている自分が、自分自身の名に恥じないように生きているかどうか、見つめている神がいる、と想定するだけで十分なのではないでしょうか。


人生の意味を感じたり、生きる目的ができる

  もし、「神などいない」という想定に立ちますと、私たちの人生は、生まれてきて、生きて、そして死ぬ、それだけのことだ、ということになってしまいます。「人生など、死ぬまでのひまつぶしだ」と言い切る人もいますが、これなどは「神なき人生」の最たる発想だと感じます。別に「死ぬまでのひまつぶし」で満足できる人はそれでいいと思うのですが、それだけではどうも物足りないなという人も多いと思います。

  たとえば、生きがいを家族に求める人がいます。結婚して家族ができて、初めて独りぼっちだったときには感じなかった生きがいというものを感じられるようになった、という人はいると思います。子どもができると新たな希望が生まれます。子どものために生きる、と言う人がいます。その人は、自分が死んでしまったとしても、その後も子どもは生きてゆくという事実に、自分の生きてきた証しを見つける事ができるのでしょう。
  あるいは、仕事に生きがいを求める人もいます。自分のやっている仕事が自分の自己満足だけではなく、会社の発展に役立ったり、お客様に役立つ事で、社会に貢献したりする。そうすることで自分のやっていることが大きな意味を持つように感じ、それが満足感につながってゆくと思います。そういうことがなくても、生きていくためには働かなくてはならないので働いているという人は多いのでしょうが、同じ仕事をするにしても、自分という個人より大きなもののために働いている、という気持ちが持てると、仕事から得られる喜びは倍増します。
  また、国家や民族のために生きたいという人もいます。個人よりも、家族よりも、企業よりも、もっと大きなもの。もっと規模が大きくて、歴史があるもの。それは国家や民族です。そういったもののために自分の人生を費やしてゆくことで、人生の意味を確かめたいと思う人がいるのも、もっともだ、と思います。
  そして、神の存在を想定することは、個人よりも、家族よりも、企業よりも、国家よりも、民族よりも、もっと大きな規模と歴史をもつものから自分の位置を見直し、自分の人生の意義を見出そうとすることです。しかも、家族や会社や国家・民族というのは、その家族や会社や国家・民族の構成員にならないと、そこにおける自分の存在意義を感じ取る事ができませんが、神を想定することについては人間だれでも、どこにいても、どんなグループに属していても、全員共通で平等なのです。
  (ここでは、ある宗教団体に入らないと救われないとか、「洗礼を受けないといけません」とか、そういう狭量な宗教観は相手にしないことにしましょう。それは「神」を小さな一つの宗教団体の枠に押し込めてしまうことになるので、「唯一絶対の神」と言うわりには、あんまりスケールの大きな考えとは言えないのです。ある特定の宗教団体に属するということと、神の存在を想定して生きるということは同じではありません)。

  家族にしても、企業にしても、国家や民族にしても、人間は自分個人の枠を超えたより大きなものとつながることで、自分の存在や人生の意義を見出す事ができる、ということが言えそうです。その最たるもののひとつが、神とのつながりではないか、と思います。
  家族は、家族と家族でない者を区別します。企業は、社員と社員でない者を区別します。民族は、自民族と異民族を区別し、国家は国民と外国人を区別し、あるいは自国民であっても「非国民」呼ばわりすることもあります。それらの区別はともすれば差別に発展します。そういう意味では、個人を超えたものといっても、境界線があるものには全て限界があるのだと言えます。宗教団体でもそれは同じ事です。宗教は、信徒と異教徒を区別し、ときに差別します。ですから、私は、宗教の枠を越えた人類共通の神というものを、仮想してみることに意味があるのではないかと思うのです。

  その仮想は、あるいは「神」という言葉を放棄してでも、意味のあることではないかと思うのです。「神」という呼び名も、「神」という言葉でなんとなくイメージする何者かの存在も仮想でしかありません。「神」という言葉や仮想が、他の宗教に属する人びとと共通する超越的なものを考えるさまたげになるのなら、「神」という言葉を捨ててもかまわないのではないかと思います。
  宇宙が創造された時からその終末まで、この全宇宙の生物・無生物の存在を見守りつづけ、それと同時にどのひとりひとりの人間の心の中にも宿り、その人のすべてを愛している。そういう「何者か」と私は心の中でつながっているのだ、と考えてみることで、自分がここに存在していることのありがたさや、生きていく事には意味があるということを感じ取る事ができるのではないかと思うのです。
  私ひとりの人生は私ひとりだけのものではない。大いなる何者かの命と愛のなかで、私は意味のある存在とされているのだ。そういう想定を、自分のなかに描いてみることは、元気に生きてゆくうえで決して悪い事ではないのです。


人を赦し、寛容な心を持つことができるようになる

  これまで、仮に「神」とも呼ぶことのできる何者かの存在を想定することで、自分自身がどうなるのか、ということを中心に述べてきました。ここでは、他人をどう見るのか、ということにも触れてみたいと思います。

  自分を愛し、慈しんでくれる神がいると想定したとします。そしてその神は、人種も民族も国籍も宗教も超えて、普遍的に人間を愛している神なのだと想定したとします。すると、その神は当然、自分を愛してくれているだけではなく、自分以外の人間も同じように愛しているはずです。ということは、自分がその他人を傷つける事を、神が喜ぶはずはないだろうということに思い至ります。
  他人を見たとき、その人が自分とうまくやっていける人であったらなおさらのこと、たとえ自分と違うものの考え方をしていたり、性格が合わなかったり、自分に危害を与える人間であったりしたとしても、「この人も神に愛されている人なのだから」と考えることができれば、自分の中に湧き上がる敵意を鎮めることができるようになります。

  もちろん、
「敵を愛する」(マタイによる福音書5章44節)ということは簡単にできる相談ではありません。敵を愛せないのが人情というものです。そんなことが簡単にできるのなら、世の中から争いというものはとっくになくなっているでしょう。でも現実にはそうではありません。
  けれども、この言葉は田川建三という聖書学者からの受け売りですが、「絵に描いたモチでも、これはなかなかうまそうなモチじゃないか。そういうモチの絵を描くことには意味があるんじゃないのか」ということは言えるのではないでしょうか。
  新約聖書には、こんなことが書いてあります。
  
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイによる福音書5章44−45節)
  どんな人間にも同じように恵みを与える、仮称「神」という存在を仮定してみて、「もし神がいるのなら、あの人も神に愛されている人なのだから」と考えてみるわけです。
  目の前に自分を傷つけ、危害を与える人間がいる状態で、その人間に敵意を持たずにいることはとても難しいことです。はっきり言って無理でしょう。しかし、もし目の前から去ることがあれば、目の前から去ったあとでもずっと憎悪を抱きつづけることは、自分自身の健康によくありません。できればその憎悪から抜け出したいものです。そのとき、「あいつも(残念ながら)神に愛された人間らしい」と考えることが、自分の心の中に渦巻く憎悪の堂々巡りから抜け出す助けになるのです。それは、一朝一夕に可能になることではありませんが、少しずつでも自分の中に育ててゆける心のありようなのです。

  別に、「神があの人を愛しておられるのだから、私もあの人を愛さなければならないんだ」とまで無理なことを考える必要はありません。「干渉しないという愛し方」もあるし、「黙認という形の寛容」もあるのだと思います。「神がじゅうぶんその人を愛しておられるのだから、別にこれ以上私が付け加える事もなかろう」と考えてもよいのです。争いを避けるためには、相互不干渉。互いに距離を取り合うということも、有効な方法のひとつです。「あいつも神に愛された人間だから」といって、首をすくめて、あえて先制攻撃も反撃もしない、という生き方があります。それも現実的な平和のひとつの形です。
  積極的に好意を表したい相手であれ、できるだけ係わり合いになりたくない相手であれ、「神が存在するのなら、この人も神の愛する子なのだろう」という想定をする事は、大人の対応ができるようになるための有効な手段なのです。


シンボルとしての神

  思いつくままに、「神が存在する」と想定してみることの効用を書きつづってみました。他にもきっといろいろあることだろうと思いますが、ここではもうこのへんでやめておきましょう。

  大切なことは、くりかえしになりますが、「神を信じる」というのは、「神がいることを無理やり事実だと思い込む」のではないということです。そうではなく、「神がいるということを仮に想定してみて、その想定のなかで生きてみる」ということなのです。

  神のことなど人間にはわからないのです。「神」という呼び名も、「神」としてこれまでイメージされてきた姿や言葉やわざなどは、すべて仮定の上でのシンボルとして人間によって考え出されたものに過ぎません。仮定だから意味がないというわけではなく、それらは「神」を知り、「神」とつながって生きていたいと願ってきた人類の歴史の貴重な積み重ねの結果生まれてきたもので、それぞれに教えられるところが多いものなのですが、しかし、どのシンボルもあくまでシンボルなのであって、実体ではないということを踏まえておかなければいけないのだと思います。
  (そういう意味では、たとえば、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖なる霊」というキリスト教における神の三位格も、そうやって神を理解しようとしたクリスチャンたちが考え出したシンボルです。神はひとりであるはずだという一神教的な制約があったので、3種類というたいへん限定された数の神のイメージになったわけです。しかし、「神はひとりだ」という考え方も、超越的なものを理解しようとする一つの型に過ぎません)。
  すべては仮定としてのシンボルであるという前提の上で、しかし、私たちの前にはそういうシンボルしかないわけですから(だって、神を直接知ることなどできないのですから)、そのようないろいろなシンボルから自分に合うものを取り込んだり参考にしたりしながら、自分に理解できる神のイメージをくみ上げてゆけばよいのです。

  その場合、ひとつの宗教・宗派にこだわる必要はありません。たとえば、キリスト教のなかでも、ふだんは三位一体の神しか認めないプロテスタント教会に身を置きながら、時にはカトリックのマリア崇敬によって心の慰めを得たりすることがあってもいいでしょうし、ふだんは無宗教的な生き方をしている人でも、バッハの音楽を聴くときに、単に芸術として音を楽しむだけでなく、その背景にあるバッハのプロテスタント的信仰を学びつつ、より深く味わい、インスピレーションを得る、ということがあってもいいのではないかと思うのです。また、仏教は一種の哲学であり、無神論とも言えるのではないかと思いますが、そうであるからこそ、逆にクリスチャンが仏教の知恵を学び、実践的な生き方に活かしてゆくということがあってもよいのではないでしょうか。
  そんな風に、いろいろな宗教のよいところを取り入れながら、人間を超えたものがある、という仮定のなかで生きていく、ということも、一つの生き方として悪くはないのではないかと思います。それは人間としての「正しい」生き方というよりも、「よく生きる」「よい人生を味わう」ための、実際的なひとつの方法なのではないかと思います。


神はどこに住んでいるのか

  さきほど、「私たちの前には仮定としてのシンボルしかない」と言いました。そういう意味では、私たちがふだん「神」と呼んでいるもの、その言葉、そのイメージは、実はシンボルという「想像の産物」でしかない、ということもたしかに言えてしまいます。
  しかし、なぜ人間は古来からそんなシンボルを作り出そうとしてきたのでしょうか。その原因はどこにあるのでしょうか。前述のユングという学者は、そういうことを人間の心の中を探求する事で見つけ出そうとしたようです。
  ユングは、精神科医として多くの臨床例にあたり、また世界の多くの宗教や神話を研究した結果、人間の心の深層には、意識よりもはるかに広く深い無意識の領域があり、その無意識のなかでも特に深い底の部分は、人類に共通の心の型のようなものが眠っている「集合的無意識」または「普遍的無意識」と呼ばれる領域だ、というモデルを考えた人です。そして、その人類に共通の心の型のことを「元型(アーキタイプ)」と呼びました。
  その元型のなかには、たとえば「老賢者」という人格があったり、「太母(グレート・マザー)」という人格があったり、「影」や「アニマ」「アニムス」(いずれも無意識のなかの異性)という人格があったりします。それらの元型は、ふだんは無意識の中に潜んでいるので、はっきりと意識されることはないのですが、時折、自分以外の人物や像に投影されて、神々のイメージになったり、それらの人格が投影された登場人物による神話となって姿をあらわしたりするのです。
  たとえば、キリスト教のよる「父なる神」のイメージも、明らかに「老賢者」の元型が投影されたものですし、「子なるキリスト」は幼子イエスについては「トリック・スター」という元型が投影されている可能性がありますし、大人になったキリストには「英雄」の元型が見て取れます。「聖母マリア」には「グレート・マザー」の面影が見えますし、悪魔には「影」の元型が投影されている場合が多いのではないでしょうか。
  もしそれが本当だとすると、神の正体は、実は私たちの心のなかにある元型だということになります。神の人格は、私たちの心が共通に持っている奥底に潜んでいる人格だということになります。

  そう考えれば、たとえば
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(ヨハネの手紙一3章1節)という聖書の言葉も、少し身近に感じられるようになるのではないでしょうか。
  「私たちは神の子だ」と言うこともできるし、しかしその反面、事柄はふだんふつうは意識できない無意識の深い奥底でのことですから、自分の意識しだいで思い通りに会うこともできないし、面影を感じることもまれである、という意味では「神と人は隔絶されている」と言うこともできるわけです。
  いずれにしろ、私たちは象徴を通してでしか、神に近づく事はできないわけですが、それはまったく根拠のない想像の産物というわけではなく、人の心の奥深くに潜んでいる何者か人格の存在があるからだ、ということまでは言えるわけです。


聞いた人や見た人が、まったくいないわけではない

  このような無意識の奥底に潜む人格には、たいていの人は直接出逢うことはありませんが、まれに、思いがけなく直接コンタクトしてしまう人がいます。
  通常、人の心の中で、意識と無意識の間には厚い壁があるわけですが、この壁が比較的薄い人や、場合によっては壁が壊れてしまっている人もいるのです。壁が壊れてしまっている人は、現代の精神医学の基準で言えば病気の状態なわけですが、古代の社会ではこのような人は霊媒師やシャーマンあるいは預言者として、ふつうの人が見ることのできないものを見る、特別な能力を持った人として大切にされてきました。
  そういう人びとは、神や悪魔や天使、その他、さまざまな無意識のなかに潜む人格と出逢います。ただ、自分の思い通りに無意識をコントロールするということはできないようです。無意識は意識の力でコントロールすることなどできないくらい大きなエネルギーのるつぼであり、それは人間の小さな力ではコントロールすることのできない巨大な自然そのものと言うこともできます。人間は、その自然そのものの動きの中から、メッセージを受け取ることしかできません。聖書の中でもいくつか幻想文学や預言書などがおさめられていますが、これらに描かれた幻の内容は、預言者が見てしまった無意識からのメッセージなのです。

  壁が壊れているとまではいかないまでも、意識と無意識の間の壁の薄い人、あるいは一時的に壁が薄くなってしまった人が、夢や幻覚を通して、無意識の世界の存在を体験する事ができることはあるようです。たとえば、新約聖書に書かれた使徒パウロの回心の場面などは、このような幻覚体験のことではないかと思われます。
  
「ところが、サウロ(パウロはもともとサウロと名乗っていました)が旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」」(使徒言行録9章3−6節)
  なぜサウロ(パウロ)が、無意識のなかのとらえがたい何者かに直接触れたのではなく、イエスと出逢ったのかというと、おそらく彼の中でイエスという人物の存在がすでに無視しがたい大きな存在となっていて、イエスをシンボルにして神の元型を投影する準備が心の中でできあがっていたのだと思われるのです。もし、彼がブッダを迫害するヒンドゥー教徒であったなら(そんな仮定が成り立つのかどうかよくわかりませんが)、ブッダと出逢い、声を聞いたかも知れません。

  また、臨死体験というものを通しても、私たちは無意識の奥底にある、「向こう側の世界」について垣間見ることができます。死に限りなく近づいた人は、まず自分の体から出て自分の姿を見(体外離脱体験)、それから暗いトンネルを通り、大いなる光の方へと導かれるのだといいます。この光は太陽のようにとても明るいのですがまぶしくはなく、温かみを持ち、完全な人格を持っていることが感じられ、愛のかたまりとしても認識されるようです。阿弥陀如来というのは、この臨死体験がもとになって考え出されたのではないかと言う人もいます(阿弥陀如来の語源「アミターバ」は「無量の光」という意味だそうです)。
  私自身は、そのようなものと出逢った体験はないのですが、多くの人が共通の体験を持つということは、これはユングの言う集合的無意識の世界とも関係があるのではないかと思わされます。やはり、「あちら側の世界」には、完全なる愛、完全なる光の人格が存在しているのではないか、と。
  新約聖書のヨハネ文書には、そういう世界を連想させる文章がいくつも記されています。
  
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネの手紙一4章7−8節)
  「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神のその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネの手紙一4章16節)

  仏教圏に属する人は仏教のシンボルを通して、キリスト教圏に属する人にはキリスト教的なシンボルを通してでしか感知できないものではありますが、「無量の光」「完全なる愛」としての「何者か」は確実に存在しているのではないか、そう思わされます。


やはり神はいる?

  そういうわけで、神の実在は、実験や計測で証明するわけにはいきませんし、私たちの意識が体験したり認識したりする領域からは外れているようなのですが、どうもこの意識から離れる瞬間触れ始める世界には、「何者か」の人格が存在する、ということは推測するに足ることのようなのです。
  あとはもう、その世界に行ってみて確かめるしかありませんが、ここで注意しておきたいのは、どの宗教も自分からその世界(あの世)に飛び込んでしまうことは禁じているということです(キリスト教の世界ではカトリックが自殺についてははっきりと「罪」であると定めているようですね)。どうやら、自殺/自死を通しては、自然な形であちらの光の世界に到達することができないと考えられているようです。
  ですから、みなさん、できうる限り、自分に与えられた生涯は全うするようにいたしましょう。その長さ短さは自分ではわかりませんが、人生の終わりの時期は自然に迎えるようにするのが理想です。与えられた人生の時間が終わるとき、向こう側で待っている光と愛の人格に出会うことを、楽しみに待ちたいと思います。
  
  また、なにも死ぬのを待たなくとも、いずれ会えるのが、「愛」の塊としての人格なのだ、という臨死体験者の証言を信じるならば、いまここで生きている間から、少しでも愛し、愛される人生を求めることで、神の世界に近づくことができるのではないでしょうか。
  聖書は、私たちの「愛そう」とする気持ちの源流にも神の働きがあるのだ、と教えてくれています。

  
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならが、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(ヨハネの手紙一4章12節)

〔最終更新日:2007年2月14日〕

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