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 Q. 日本人なのに、どうしてキリスト教なんか信じるんですか?

 ある平均的な日本人の家庭のお正月……
 父  「さ、着いた。まずはお参りして、それから境内のなかでお店でも見て回るか」
 息子 「父さん、ぼくはお参りしないよ」
 父  「なに? 一家そろって新年の決意を新たにするために初詣に来ているというのに、おまえは何てことを言い出すんだ!」
 息子 「ぼくは偶像礼拝はしないんだ」
 父  「えっ? は? なに?」
 娘  「お兄ちゃんは、この前のクリスマスに洗礼を受けたんだもんねー」
 父  「なに? 洗礼?! キリスト教のか? なんで? おまえ、それでも日本人か?!」
 息子 「日本人であるとか、ないとかは関係ない。キリスト教は世界宗教なんだから」
 父  「なんでわしに黙って洗礼なんか受けたんだ! なんでそんな勝手なことをするんだ!」
 息子 「信仰は個人の自由だよ。お父さんの許可なんかいらない」
 父  「な、な、なんだとーっ!!」

(2001年12月に受けた質問より)

 A. 日本人なのに、どうして仏さまなんか拝むんですか?

■キリスト教側から見れば、何の問題もないのだが……


  キリスト教サイドから言えば、別にどこの国民であるとか、どの人種であるとか、どの民族であるかということは、キリスト教を信じる上で何の妨げにもならないはずです。そこが世界宗教の世界宗教たるゆえんでありまして、世界中いたるところに、キリスト教の信者はおり、世界人口のおよそ33%(約21億人)がクリスチャンです。
  ちなみに、第2位はイスラームの21%(約13億人)です。次に多いのが無宗教と答える人で16%、その次がヒンドゥー教で14%、仏教はその次で6%(約3億9000万人)です。仏教よりヒンドゥー教のほうが人数が多いのは、インドの人口が多いからではないかとも思われますが……。
  まぁとにかく、キリスト教は、ユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教から分裂して、民族性からは解放された宗教を目指して、今日にいたっています。
  ですから、日本人であることは、キリスト教の信者になる上で、全く問題はないのです。キリスト教側から見れば。
  また、さきほど「民族性からは解放された宗教」と言いましたが、じっさいには、世界中の各地のキリスト教は、その儀式の行い方や教義の理解のしかたにいたるまで、その土地のお国柄や民族性などが色濃く反映したかたちになっているのが実情です。ドイツのキリスト教はいかにもドイツ風ですし、ブラジルのキリスト教はいかにもブラジル風です。ですから、日本風キリスト教というのがあっても全然問題ないのです。

  しかし、日本人の中には、「キリスト教は外国の宗教だ」という意識を持っている人が、今でもたくさんいます。「日本人らしさ」を大事にしている人にとっては、自分や自分の家族がクリスチャンになるなど、考えられない、という人もおられます。
  なぜ、「キリスト教は日本人の宗教ではない」という感覚を持っている人が多いのでしょうか。


■政治的な問題:遅れて来たキリスト教

  たとえば、仏教はどうでしょうか? 「仏教は日本の宗教だ」と思っている人が多いのではないでしょうか。
  しかし、仏教は日本の宗教ではありません。インドのゴータマ・シッダールタが悟りを開いたことから始まったインドの宗教(というより哲学)です。したがって、仏教も「外国の宗教」です。それなのに、今では「日本人の宗教だ」と思っている人が多いのです。これはどうしてでしょうか。
  それは、日本では聖徳太子以来、政治家が仏教を自分の思想として取り込み、それを配下の庶民にまで信仰させる、という方法を取ってきた歴史があるからです。
  これは、たとえば、キリスト教の「キ」の字も知らなかったヨーロッパの人びとが、ローマ帝国がキリスト教を国教としていったことから、みなキリスト教を信じるようになっていったことと似ています。
  時の権力者がある宗教を取り入れると、配下の臣民はその宗教の信者として数えられるのです。配下の臣民としては、自分たちの生活を守ってくれる信仰の対象はそうやって支配者に指定されたものしか許されませんし(さからって他のものを信仰しようとすると罰せられるわけですから)、また、その時々の権力者によって崇拝の対象を変更されても、それが自分たちの守護神となってくれるかぎり、なんでもよかったのです。
  日本では多くの支配者が仏教に帰依し、そのことが、臣民にも仏教が浸透する原因になりました。

  そういう意味では、日本でも、爆発的に信者が増え、日本にもキリスト教が根づくかと思われた時期がありました。それは安土桃山時代のキリスト教伝来以降、戦乱の時期を経て、江戸時代が始まる直前までです。特に、長崎では藩内の住民のほとんどがキリシタンであった時期がありました。これも、結局のところ、長崎の大名がキリシタンとなり、配下の臣民にもキリシタンとなることを要求したからです。
  昔の改宗は、村ぐるみ、藩ぐるみで行われました。ですからこの時期はキリシタンの数がものすごい勢いで増えました。支配者の号令でその土地の信仰が決まってしまうというのは、日本のキリスト教の場合も同じだったのです。
  長崎の藩主は領地をローマ教皇に寄進してでも、自分の領土を豊臣秀吉の侵略から守ろうとしたと言います。わたしたちは、つい日本が昔から統一国家であったような幻想を抱きがちですが、そうではなく、豊臣家側から見れば「天下統一」と呼んでいることが、各地の大名にしてみれば、侵略と征服でしかない、というのが正しい理解の仕方です。
  しかし結局、豊臣家が勝利を収め、豊臣に反旗をひるがえしていたキリシタン大名が罰せられるだけでなく、末端の領民にいたるまで徹底的にキリシタンの弾圧が行われ、日本ではキリスト教は、ごく一部の潜伏者(カクレキリシタン)を除いて、ほぼ完全に滅亡させられました。
  さらには、徳川家の時代になって日本は鎖国をしたので、新たにキリスト教を日本に伝えに来ようとする者は現れませんでした。鎖国の時代は200年以上も続きます。
  明治時代になって、やっと鎖国が解かれ、キリシタン禁制が解除されてから、やっとキリスト教は第2の日本上陸を果たしますが、それまでには、仏教が日本では大きな力をもって存在するようになっており、キリスト教は、いわば「遅れて来た存在」でした。

  ですから、日本にキリスト教が根づかず、「外国の宗教で日本とは関係ない」という意識で迎えられるようになった原因のひとつは、日本の「天下統一」をした(つまり一人の君主による中央集権体制を、この日本列島で確立した)支配者たちに気に入ってもらえなかった、ということがあるのです。
  もし、豊臣家や徳川家にキリスト教が気に入られていたら、日本にはもっとたくさんのクリスチャンがいて、キリスト教も一大勢力になっていたかも知れません。しかし、豊臣の侵略に対して、地方の主権を守ろうとした大名たちがキリスト教を信仰していた結果、逆にキリスト教は日本統一に対して敵対的な宗教だという受け止められ方をしたのです。これが、日本のキリスト教が味わった政治的な不幸でした。


■日本への順応と土着の問題:失敗したキリスト教

  仏教がキリスト教よりも日本人の間に浸透したのは、死者儀礼を取り込んだということも大きいでしょう。
  日本人が葬式を行う場合は、特に明確な信仰を持っていなくても、深く考えることもなく仏教の僧侶にお願いするということが多いようです。
  しかし、死者儀礼というのは、もともと仏教に含まれていた要素ではありません。それは、どちらかというと、儒教文化のなかにあった要素ではないかと考えられています。そもそも、日本の仏壇などにある「位牌(いはい)」というものも、仏教から伝来したものではなく、儒教に起源があります。儒教は先祖を大切に敬い祀るということをするのです。
  いずれにしろ、日本列島に住む人びとは、死者を弔い、祀る、ということは重視してきました。そもそも、ネアンデルタール人の時代から、死者に花をささげるというような儀礼を人類は行ってきているくらいなのですから(ネアンデルタール人の化石の胸のあたりに花粉の化石が載っているものが発掘されている)、人間にとって死者の葬りと供養は、ごくごく基本的な、そして普遍的な宗教行動と言えるでしょう。
  この人間にとって、普遍的に重要な死者儀礼を、日本の仏教界は自分たちの宗教活動のなかに取り込みます。そして、仏教の儀式としてお葬式や法事などを行うようにしていったのです。

  このような、もともと自分たちの宗教にないものを取り込んで民衆の宗教として土着化する、というのは、実はヨーロッパのキリスト教ではよくやってきたことなのです。
  たとえば、キリスト教のお祭りの代表みたいなクリスマスですが、これも、もともとはキリスト教のお祭りではありません。いまヨーロッパと呼ばれている地域に昔から住んでいた様々な民族がそれぞれに祝っていた冬至の祭(日が短くなるのが終わって、これから太陽のほうが力を盛り返してくるという喜びを祝う)を、キリスト教会が取り込んだものです。
  また、マリア崇敬にしても、もともと民衆の中であったヴィーナス信仰が、キリスト教の世の中になってから、マリアへの信仰にすりかわったものです(だから、金星(ヴィーナス)をマリアの象徴として重んじるのです)。女性を崇拝するのを教会の指導者たちは最初は嫌っていたのですが、民衆の側でマリアを聖人としてあがめる要求が強かったので、押し切られるようにして、マリアを崇敬することを認めたというのが実情です。教会は父権的な宗教を推進したかったのですが、民衆の側からは母なる神としての女神が切実に求められたということでしょう。もっとも、さすがにカトリック教会もマリアを「崇拝」することまでは許さず、「崇敬」することに留めていますが。しかし、マリアに神さまへの祈りを執り成してくださるようにお願いする、という信仰もあるのですから、これは実態としてはまぎれもなく、女神信仰のキリスト教による取り込みなのです。

  日本でも、実はこういう風に、もともとあった信仰と融合して広まりかけた時代がありました。
  九州地方で最初にキリスト教が広まりかけたとき、キリスト教の神は「デウス」と呼ばれていました。カトリックの公用語であるラテン語では「神」は「デウス」なので、宣教師たちは神のことを「デウス」と日本人に教えました。これが、それ以前からあった仏教の「大日如来」と同じものだと考えた日本人はたくさんいました。
  また、キリスト教への弾圧が激しくなると、信者たちはカクレキリシタンとなって潜伏するようになるのですが、その過程で、マリアが観音と同一視され、「マリア観音」となっていったこともよく知られています。
  現在でも、和服を着たマリアとイエスの聖母子図は、日本のカトリック教会ではいくつも見ることができます。イエスもイエスの両親もユダヤ人なのですから、和服を着ているというのは理屈に合わないのですが、そのような理屈を越えて、カトリック教会では「日本人に受け入れることのできる聖母子像」として、和服のマリアとイエスの図を積極的に使用しています。

  けれども、それでもやはり、先に書いたような、戦国時代から江戸時代にかけて、政治的に不利な立場に追い込まれ、弾圧を受けたことの上に、死者や先祖を祀るというような、人類に普遍的な宗教行動を取り込むことまではしなかったがゆえに、キリスト教は、日本人にとって「なくてはならぬもの」になるチャンスを逃したのでした。


■入信儀礼の問題:からまわりするキリスト教

  このほかにも、キリスト教が日本人にはなじまない理由があります。
  それは、キリスト教の信者になるには、信仰の告白と洗礼が必要だという点です。

  日本に根づいた宗教は、信者と非信者の境界線を明確には引きません。
  たとえば神社は、信者であるかどうかのけじめをはっきりとつける必要もなく、参拝に来た人は、みな「善男善女」として受け入れます。
  お寺も、お葬式のときに何宗に属していて、どの寺の檀家かということは、はっきりはさせてはいるけれども、それは一般大衆の側からすれば、お葬式の担当地域の区分分けのようなものになっているのが正直な感覚で、まさか個々人の内面における信仰を問うなんてことはしません。それに、一般大衆としては、お葬式以外のときにはお寺にお世話になることもないので、お寺のほうでもふだんの生活における信仰などはうるさくは問わないのです。

  このように、日本人の宗教生活というのは、はっきりとした自覚的信仰を持ち、信仰を公に表明し、信者となる儀礼を行うというようなキリスト教的な宗教スタイルは、基本的にはなじみません。
  逆に、お願いごとをするときの神道や、お葬式のときだけお世話になる仏教とまるで同じように、キリスト教も信者と非信者を区別しないような宗教になれば、もっと根づくかもしれない。あるいはすでにかなり根づいているということになるかも知れません。


■意外な土着化:「恋愛文化」としてのキリスト教

  アエラ・ムック『キリスト教がわかる』(朝日新聞社、2002年)に、「“恋愛文化”としてのキリスト教」(井上章一)という記事があります。この記事の中で、筆者は、クリスマス・ケーキを買いに並ぶ列のなかに、袈裟を着たお坊さんを見つけた話をきっかけに、日本には学者や牧師などの専門家が考える「キリスト教の土着化」とは違うレベルで、かなりキリスト教は日本人の暮らしに根づいているのではないか、と問いかけています。これは面白い洞察だなと思いました。
  たしかに、お寺の子ども会でも、クリスマス・ツリーをかざってクリスマス会をお祝いするというところが少なからずあるようですし、バレンタイン・デーにチョコをもらえるかどうかは、若いお坊さんにとっては切実な問題だったりするわけで。「それは宗教は違いますから」という理由でチョコをことわるお坊さんはいないだろう、と。結婚式も、人気があるのは、神道式とチャペル式だけれども、どちらかと言えば、軍配はチャペル式の結婚式のほうに上がるようです。
  最近では、ハロウィーンも日本人の間に定着しつつあるようです。(まぁハロウィーンがどこまでキリスト教の文化かどうかは論議が分かれるけれども、それを言いだせばクリスマスだって、もともとはキリスト教以外のものを取り込んでいった結果だし、という細かい論議はここでは省きます)
  難しい神学論議はさておき、クリスマスとバレンタインと結婚式というイベントを通して、「恋愛文化」としてのキリスト教は、商業戦略というフィルターを通りながらも、しっかりと日本人の間に根づいてきているのではないでしょうか。
  そして、もっと言うならば、結婚式というのは、恋愛を家族愛へと発展させる儀式なわけですが、そこで夢に描かれる幸せなファミリーの姿にも、クリスマスとハロウィーンは欠かせないイベントになりつつあるというのが、いまの日本の実情なのではないでしょうか。

  日本人は年に1度、お正月くらいにしか神社に足を運ばないという人が多いのです。また、ほとんどの人がお葬式やお墓参りのときにしかお寺に足を運びません。では教会にはいつ足を運ぶのか?
  日本の教会はクリスマスと結婚式にはもっとオープンにしてもよいのではないでしょうか。「結婚式は教会員しか認めません」という姿勢を貫いているところが多いようですが、一生にそう何度もあるようなことではない大切な人生の節目を、チャペル式で行いたいと思う人がこの国には多いということを、前向きにとらえてもよいのではないかと思います。

  もっとも、それは一神教であるキリスト教を信じるクリスチャンのうちの多くの人にとっては、認めがたいありさまかも知れません。
  なぜなら、そのような現実を認めることは、多くの日本人にとっては、キリスト教の神さまも神社の神さまもお寺の仏さんも、みんなお願い事の対象であり、キリスト教の神も、それらの多くの神仏のうちのひとつに過ぎないということになってしまうからです。神は唯一のお方である、という考え方から出られない人にとっては、いまの日本でのキリスト教文化の受け入れられ方は不本意かも知れません。
  しかし、現実には、そういう形で日本人の中には、すでにキリスト教は根をおろしてしまっているのかも知れないのです。つまり、日本人式の多神教的な宗教との付き合い方に、キリスト教もすでに上手に取り込まれてしまったあとだ、と言えるかもしれないのです。


■それでも洗礼を受ける人のために

  「恋愛」や「家族愛」のイベントとしてのキリスト教行事が根づく一方で、やはり「教会」の「信徒」となるために「洗礼」を受ける人、というのは日本では珍しい人ということになるのかもしれません。洗礼を受けた信者というのは、たしかに日本の人口の1パーセントにも満たない少数派です。
  少数派であるということは、いろいろと孤立感を感じさせられることもあるし、周囲の無理解に泣かされることも多々あるということです。少数派でありつづけるのは楽なことではありません。
  しかし、たとえ「恋愛文化」であれ、キリスト教の文化や風習が広まることは大切なことではないかと思います。また、日本中のそこここで行われている結婚式で、恋愛と家族への愛が語られ、教えられるということも、大切なことではないでしょうか。
  特にどこかの宗教団体に入ってなくても、「なんとなく神さまはいると思うか?」と聞いたならば、予想以上にたくさんの人が「いるんじゃないかと思う」と答えることでしょう。ただ、それがキリスト教の神さまだと限定されると違和感を感じる人も多いでしょう。

  「キリスト教の神さまが唯一絶対の神さまだ(つまり、おまえがなんとなく信じている神さまはニセモノだ)」という理屈は、日本人には通用はしないのではないでしょうか。
  そうではなく、
「あなたがなんとなくいると思っている神さまは、実はわたしたちが信じているのと同じ神さまなのですよ」と言うほうが、まだマシなのではないかと思うのです。
  そのような形で、信者ではないけれども、「なんとなく頼れる神さま」「なんとなく話を聞いてくれる神さま」「なんとなくそばにいてくれる神さま」のことを感じることのできる人が増えていってくれるほうが、珍しく洗礼など受けて教会員になってしまった人にとってもいいことなのではないかと思います。

  
神さまは教会に来ている人だけのものではなく、教会に来ていない人や神さまのことなんか信じてない人をも愛しておられる、ということをクリスチャンが信じられるなら、「なんとなく神さまはいる」という人が増えることは、クリスチャンにとってありがたいことではないでしょうか。

  日本人なのにどうしてキリスト教なんか信じるのか。
  日本人であろうとなに人であろうと、キリスト教を信じるには民族も国籍も関係ないのです。
  そして、キリスト教だけが神さまと出会う唯一の方法であるというわけでもないのです。
  しかし、それでもキリスト教は、あなたが神さまと出会う助けの一つにはなることでしょう。
  ですから、どうぞ恐れないでキリスト教の門をたたいてみてください。

〔最終更新日:2005年12月10日〕

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