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 Q. 信仰があれば心の病気になんかならないって本当ですか?

  ある牧師 「本物の信仰があれば、うつ病や、精神分裂病のような病気にはかかるはずがないのです。また、かかってしまった心の病は信仰によって治せるのです。心の病はこの世にますますはびこっている人間の罪の結果です」
  ある信徒 (まずいなぁ……おれ、もう2年前から抗うつ剤飲んでるんだよね。睡眠薬も毎晩必要だしさぁ。でもこんなこと、この教会では言えないな。それに、いまは精神分裂病なんて言わないんだけどなぁ(統合失調症)……)
  ある牧師 「私の尊敬するひとりの牧師は、かつてうつ病を患ったことがありました。しかし、彼はそのうつ病を、薬に頼らず、自分の力で克服したのです」
  ある信徒 「えー? マジかよ。それじゃあおれは信仰ないってことじゃんかよ。あーあ、どうせおれの信仰なんて、そんな大したもんじゃないけどね。ここでは自分のこと、誰にも言えないな……」

(2007年5月、あるメールでの相談より、会話を再構成)

 A. いえ、教会が原因になる場合もあるのです。
  
 ここでは「成功主義」または「幸福主義」、「祝福主義」とでも名づけておきましょう。
  キリスト教の教会には時折、そういう風潮が蔓延することがあります。「信仰があれば、きっと幸せになるはずだ」、「信仰があれば、災いや病にはあわないはずだ」といったような単純な神話が、あたかも真実であるかのように語られたりするのです。信仰があれば、悔い改めを神さまに認めてもらえれば、人生は希望に満ちたハッピーに毎日になるはずだ。人生がハッピーなのは神に祝福されている証拠だ。神さまと出会えれば、君の人生はバラ色だ……。
  そういうことをやっておりますと、逆に不幸な出来事に見舞われたときには、「こんなにつらい目にあうのは、わたしが罪深いからなのか」と自分を責めたり、「こんなに苦しいことがたくさん起こるのは、あなた自身がじゅうぶん悔い改めてないからだ」といって他人を責めたりすることが、教会のなかでたびたび起こってきます。
  またあるいは、「どんなことにだって神のご意志が働いている。どんなにつらいことがあっても、神が与えた試練なのだから、神がこの苦しみを与えた意味を見つけ出しましょう」といったことも語られることがあります。そのために悲しむべきことを悲しむチャンスも与えられず、偽の喜びに塗り固められた屈折した心理状態におかれてしまうのです。


 しかし、この世で起こるいろいろな幸せな出来事も、不幸な出来事も、実は神の意志とは関係なく起こっているのだ、と考えたほうがよいのではないでしょうか。私はそう考えることを提案します。
  自分にとって都合のよい出来事を「神の祝福だ」と考えるのは勝手ですが、その裏側には人生の苦難を「神から祝福されていない証拠だ」と考えてしまうという落とし穴があるのです。苦しかったり、悲しかったりする出来事が起こったとき、「私は神に呪われたのだろうか」、「私の何に神はお怒りになっているのだろうか」という悲観的な思い込みや恐怖に満ちた妄想にとらわれて、かえって自分の精神を追い込んでしまうのです。
  そして、そのストレスがあまりに高まった場合に、うつ病などの疾患を発症することがあるわけです。
  「教会性うつ病」という言葉が一部のクリスチャンたちの間で使われているほど、キリスト教会が原因で心の病になる人は案外多いのです(もちろん「境界性」という用語のパロディです)。
  「心の病気になんかなるはずがない。だって信仰があるんだから」という思い込みこそが、心の健康をそこなう原因になるのです。
  「キリストは栄光の主なる神であり、罪に対する勝利者である」といった具合に、なんでもポジティヴに、なんでも前向きに。信仰が神に認められれば、きっと人生はうまくいくはず。「そうでないとクリスチャンとしての証を立てられませんよ」と追い込まれるような教会の環境だと、敗北者、あるいは疲れた者、悩む者としての自分を受け入れることが困難になるのです。それはたいへんしんどいことです。自分で自分を受け入れられなくなったとき、病気になっても何の不思議もありません。
  ましてや、「信仰があれば心の病にならない」などと、心の病をかかえている人の前でいうことほど、愛の無い、人を傷つける言葉はありません。無知というのは本当に人を傷つけることがあるのですね。


 本当は、クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、人生につらい出来事が起こるという点では同じなのです。
  もし、つらいこと、苦しいこと、悲しいことなどが起こったら、そのときは「ああ私は、人並みに苦労しているんだなぁ」と思うようにしましょう。広い世界には、あなたと同じような苦しみを抱えている人が、実はたくさんいるはずです。苦しみ悩む人生は、特に珍しい災難ではありません。日々苦悩する人生のほうが実はごく「ふつう」なのです。
  心の病を患う人も、それが特別珍しい災難だと思う必要はありません。
  こんなにストレスが多く、たくさんの人が強い孤独感を味わっている社会のなかで、心がいつも健全でいられるような力の持ち主などほとんどいません。もちろん個人差はありますが、多かれ少なかれ、たくさんの人が弱みを抱えたり、傷を負ったり、病を患います。それは誰にでも起こりうることなのです。


 教会が心の病を悪化させるということは先ほど述べましたが、その反面、行くと楽になる教会というのも、探せばあるものです。
  弱さを弱さのままで受け入れてくれる教会です。
  でも勘違いしないでくださいよ。ときどき「あなたは病気のままで神さまに愛されているから、あなたはそのままでいいんですよ!」と励ます人がいますが、それは病気で苦しんでる人を「そのまま」受け入れるということにはなっていません。
  「病気のままでいい」と言われてうれしい人がいるはずがありません。本当にその病気でじゅうぶん苦しんでいる人は、治りたいに決まっているのです。
  
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)というイエスの言葉のように、休ませてくれて、一息つけるような教会なら、うれしいですね。
  そして、本人が望んでいるようになるように、互いに祈り合うことができるような、そんな人のつながりがあって、「こういう風になりたい」という希望や願望が安心して語れるような場所があればいいですね。
  そういう教会なら、心の病をかかえた人にとって、治療にはならないかもしれませんが、治療と並行しての安らぎと慰め、励まし、癒しを受けることが可能なのではないでしょうか。
  そんな教会と出会えるよう、祈りつつ求めてゆきましょう。

〔最終更新日:2007年7月5日〕

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