「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. 現世利益をお祈りしたら、どうしていけないんですか?
 いつのことか、牧師さんに「私の病気が治るようにお祈りしていていただけませんか?」とお願いしましたら、「キリスト教では、そのような現世利益をお祈りしないのです」と言われてしまいました。
 私にとって、病気が治ること、この病気による痛みや痒み、気分の悪さなどから解放されることは、大問題なのです。この病気のために私は自分の人生の大半を損して生きてきた気がしますし、じっさい生きていることの喜びも感じませんし、何のために生きているのかもわかりません。
 この病気を取り除いてくださいとお願いすることがそんなに悪いことなのでしょうか。何故私はこの病気に苦しみ続けないといけないのでしょうか。この病気で苦しみながら、わたしはこのまま死ぬのでしょうか。
 私は、私の病気を治る事を祈ってくれなかった牧師さんを恨みます。なんと人の心のわからない牧師さんだろうと思います。

(2013年8月、実際にお聞きした質問より)

 A. いけないことはありません。どんどん祈りましょう。


▼なぜ現世利益を嫌がるのか

 どうして現世利益(げんぜりやく)を嫌がるんでしょうね? 減税利益だったらいいんですかね?
 現世の利益というのは、欲望の表れだから汚れていて、そんなものを超越した、金品とも物質的豊かさとの関係のない信仰だけの世界に専念しなさいという意味なんでしょうか?
 一部のクリスチャンの中にはそういう方もいらっしゃいます。しかし、意外とそういうことを言う人が経済的には恵まれている場合が多かったりもするんですよね、ははは。だからわざわざ現世のことをお願いする必要がないという……
 牧師さんやそのお連れ合いさんがそういうことを言う場合、経済的には豊かだということはほとんどないというか、逆に非常に辛い生活を送っておられる場合が多いので、いわゆる「この世的」なものから目を背けて生きていかなくてはいけないという厳しさを強いられている場合もあるんじゃないかと思います。でも辛いことには変わりない。だから、他の人にも、「現世の欲望ではなく信仰を!」ということを強要してしまうのかもしれませんね。
 まあそういうわけで、「現世利益」はいけませんと言う人にはそれなりの理由があるんだなと思って、多少客観的に突き放して話を聞くほうが、自分の心の安定のためにもいいと思います。
人は人ですから、まず自分の心を守りましょう。

▼実際には祈っている

 また、実際のクリスチャンはどうなのかと言いますと、実はほとんどのクリスチャンは結果的には現世利益を祈っているのです。
 たとえば、「◯◯さんの病気が早く癒されますように(病気平癒)」とか、「◯◯さんの旅が安全でありますように、無事に帰ってこられますように(旅行安全)」とか、「◯◯さんの日々の勉強の努力が報われますように(学業成就)」とか、「◯◯さんの家族のおひとりおひとりにあなたの恵みと平安が満ち満ちていますように(家族円満)」といったお祈りは、教会でも個々人の祈りでもよく聞かれます。そればかり祈っている人もいます。
 しかし、それを誰も「そんな祈りはいけません」と咎めることはない。それがほとんどの教会の実態なのです。
 確かに、「お金をください」とか「商売が繁盛しますように」とか、お金に関することはあまりはっきりとは言わないようです。しかし、それにしても「教会に必要な糧が与えられますように」とか、「◯◯さんの生活があなたによって支えられますように」とか、それとなく遠回しな言い方で、やっぱり同じことを神さまに求めている場合が多いんですよね。
 まああからさまに言わないという点では多少の遠慮がありますが、じゃあ実際には神さまに何をお願いするのかというと、やっぱり現世で生きやすいようにさせてくださいということなわけで、人間の願いというものはどこでもそんなに変わらないものだし、それでいいのではないでしょうか。

▼イエスだって基本は現世利益を与えて回った

 キリスト教の始まりのおおもとになったイエスという人も、基本的には現世利益を確保するために奔走する人でした。彼の場合もっぱら、今日明日の食べ物を確保するのにも苦労するような貧しい人々が主な対象でしたが、そういう人たちに食べ物を提供し、一緒に食べる食事会を催すというのが、メインの活動のひとつでした。
 また、彼が病気治しの奇跡を行って回ったというのは、聖書を読んだことのある人ならよくご存知だと思いますが、あれも究極の現世利益ですよね。
 イエスは、病気の人が「私を癒してください。治してください」と求めてくるのに、「そういうことを願ってはならない」なんて、そんな冷たいことは言いませんでした。むしろイエスは積極的に病気の人や障がいを持つ人のところに出かけて行って、癒しを与えて回ったわけです。
 だいたい、食べることと健康であることというのは、人間の幸福の最低限の条件です。その条件が満たされていない人に対して、それを提供することがイエスの主な活動であったし、それが誰でも完全に平等に、自分の必要な分だけ与えられる世界というのが、彼の理想とする「神の国」だったわけです。
 ですから、イエスに従って生きるはずのクリスチャンたちが、現世利益を否定するというのは、全くもっておかしいと言わざるを得ないでしょう。むしろ、イエスに従うのならば、イエスのように食べ物を確保することと、病気を治すことに一生懸命になるというほうが正しいのです。

▼「主の祈り」

 「主の祈り」というお祈りが教会では伝えられています。イエスが弟子たちに教えた一番基本的な祈りと言われていて、何を祈ったらいいかわからない時にはこれを唱えなさい、ということで教えられたものです。
 以下がその全文です。(ここでは古い訳ですが、比較的よく日本の教会に浸透している文語訳で引用します)
 「天にまします我らの父よ。願わくば、御名を崇めさせ給え、御国を来たらせ給え、御心の天に成るごとく地にも成させたまえ。
 我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
 国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」
 この「主の祈り」、前半は神さまへの賛美になっていますが、後半は自分たち人間についてのお願いになっていますね。
 そのトップにあるのが、「我らの日用の糧を与え給え」です。要するに、「毎日食べるものに困らないようにしてください」という意味です。現世利益そのものですね。
 その次にあるのは、「私に悪いことをしてきた人を私は赦しますので、私の悪いところも赦してください」ということで、ほぼ人間関係についての祈りですね。
 それから最後は「私を試練に遭わせないで、悪いことから守ってください」という意味ですから、安全平和を願う祈りですね。これが家族のことになると家内安全です。
 イエスが教えてくれた祈り自体が、現世利益に満ちていますから、イエスがいかにこの世での安定した安心できる生活を大事に考えていたかがわかりますよね。

▼まとめ

 そういうわけですから、私は「病気の癒しを祈ってください」という願いを断った牧師さんは非常に冷たいと思いますし、クリスチャンらしくもないと思いますね。
 むしろイエスに倣う者なら、積極的に病気が治るように一生懸命お祈りするべきだと思います。
 自分に人の病気を癒すような奇跡の力がないとわかっていても、神が奇跡を起こして病気を治してくださるように、というくらいの気合いを入れて祈るべきだと思います。
 「飢え」と「痛み」ほど人間の一度きりの人生を破壊するものはありません。それを取り除くよう祈り、また出来る限りの奉仕でもすることが望ましいと思います。
 私だったら、もし依頼があったら、どんどんお祈りしますよ! 距離的に近いところで出前でお祈りに行ったこともあります。
 お祈りが必要でしたらお知らせください。一生懸命お祈りしますよ。
 いかがでしょうか?

(2015年3月31日記)








〔最終更新日:2015年3月31日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる

 教会の玄関に戻る

 教会の案内図に戻る