「下世話なQ&A」の入口に戻る

 Q. 「罪」ってなんですか? どうして人間は罪人なんですか?

 Aさんのメール 「○○は罪ですか?」
 三十番地教会の牧師 「いいえ、そうとは言えません」
 Aさんのメール 「でも、△△までやれば、罪と言えるでしょう?」
 三十番地教会の牧師 「明確に線を引く根拠はありません」

 Bさんのメール 「私が□□□だ、とわかったとたんに、相談していた牧師さんたちは、みんな態度を変えます。やはり□□□はキリスト教においては罪人なんでしょうか」

 Cさんのメール 「どのキリスト教サイトに行っても、私を罪人だと決めつけ、あとは『あなたの赦しのために祈りましょう』と、形だけの対応をするだけでした。やはり○○○をした者はキリスト教では受け入れられないのでしょうか」

(2002年いっぱいでお問い合わせをいただいた方々に多かった傾向より再構成)

 A. 「罪」の宣告は、実はマインドコントロールなのです。

 上記の○○○であるとか□□□などには、たとえば、「ふりん」であるとか、「りこん」であるとか、「ばいしゅん」が入ったり、「どうせいあい」が入ったりするわけです。多くのキリスト教の教会は、そういうことをしたから、あるいは、そういう人間だから、という理由で、人を罪人呼ばわりし、「悔い改めなさい」「生き方を変えなさい」と要求します。その結果、変えようのない過去のことを責め立てられて、教会やキリスト教が大嫌いになってしまったり、変えようのない自分の性質を、変えなければならないと無理な努力をし続けたあげくに、うつ病になってしまったりする被害者が出ています。
  「教会性うつ病」、「教会性ノイローゼ」という言葉もあるくらいで、教会員や牧師たちに、変えようのない過去や自分の生まれながらの性質を、教会に受け入れてもらえないために、「神さまから拒否されているのではないだろうか」と悩んだ末に心の病を患ってしまう場合が、案外よくあるのです。
  教会の人びとは、自分たちが正しいことを言っている、あるいは自分は善意に基づいて言っていると思っていますから、この問題に全く気づきませんが、教会に受け入れられないことで傷ついている人は実はたくさんいるのです。


 しかしこの際、はっきりと言っておきましょう。教会で「あなたは罪人だ」「あなたのしたことは罪だ」と宣告されても、気にすることはありません。教会がすべて正しいわけでもありませんし、牧師や神父の言うことが神の言葉の代弁であるとも限らないのです。
  もしも、自分が教会によって傷つけられたと思うなら、遠慮なくその教会を離れてもかまわないのです。


 最近、ここ三十番地キリスト教会に寄せられる質問や相談のメールなどの傾向で、わかってきたことがあります。それは、多くの教会の牧師が、教会に来ている人をマインドコントロールするために、この「罪」という言葉をヒンパンに使っているということです。
  一般の信徒や求道者は、牧師といえば聖書の専門家で、誰よりもたくさんお祈りをし、神さまのご意志もご存知なはずだ、と思いがちです。つまり、「より神に近い人」という見方を信者からされているのが牧師です。
  そのような牧師が、「○○○は罪です。そのようなことをする人は罪人なのです。神さまに裁かれますよ」と言うということは、信徒にとっては、神さま自身からも拒絶されているのではないか、という恐怖を与えることになるのです。
  そして、そのように恐怖を与える可能性があることを利用して、教会の利益を守ったり、信徒の心を都合よくコントロールするために、好きなことを言ったり、平気で人の心を傷つけることを説教に織り込んだりという牧師が多いのです。これは、一種のマインドコントロールなのです。「罪意識」という束縛で、心をがんじがらめにし、牧師のいうとおりの人間にならないと、罰が与えられるという恐怖感を与えることで、人の心をコントロールしようとするのです。


 どうして、みんな「何が罪なのか」を追い求めるのでしょうか?
  どうして、多くのキリスト教の信徒や牧師は、罪を判定し、宣告することに、そんなに熱心なのでしょう?
  人間の全ての罪を、イエスが代わりに担ってくださって、神の赦しをとりなしてくださったのだったら、もうわたし達は自分の罪についてあれこれ悩む必要はないのではないでしょうか。
  神の赦しは過去の出来事であり、これから新しく罪を犯した者は、やはり裁かれるという考え方をする人がいますが、それは、イエスの十字架の死をムダにする考え方です。神さまの赦しは未来についても有効なのですから、私たちがこれから犯すかもしれない罪についても、それはすでに神に赦されているのです。
  それなのに、多くの教会では、かつての日本にあった「五人組」のように、お互いに「あれは罪ではないのか」、「これは罪ではないのか」と監視し合うように、教育されています。それは、結局は教会の組織を維持するためのマインドコントロールの手段に過ぎないのです。


 「罪」とは、旧約聖書の原語であるヘブライ語でも、新約聖書の原語であるギリシア語でも、「的はずれ」という意味を持ちます。
  神さまのご意志から離れている。あるいは、神さまとの関係から離れている、という意味です。
  根本的にはそういう意味だということだけがはっきりしていて、具体的に○○○をしたから罪だ、□□□をしているから罪だ、というのは、実は時代や社会背景など、その時その時の教会が置かれた状況によって変わってきています。
  また、「人はみな罪人である」という言い方が教会でされることがありますが、これも、人はみな神さまから離れている、という状況を単に表したものに過ぎません。
  もちろん、人間が神さまから離れていることを、神さまが喜んでおられるということはないでしょう。しかし、そのことによる罰はないのです。すでに人間は赦されていると考えるのです。悲しみながら待っている神さまがいる。そう信じるべきなのです。


 新約聖書のなかで、イエスは、「善いサマリア人」と一般には呼ばれているたとえ話で、何が罪であり、何が罪でないのか、という考え方を逆転させて考える仕方を教えてくれています。
 
 「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とブドウ酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカによる福音書10章30−36節)
  この物語に出てくる登場人物のうち、一見、最後にやってきたサマリア人が正しいことをしたように見えます。しかし、イエスがこの物語を語った時代と社会では、実は、半殺しにされた人を避けて通った人のほうが「正しかった」のです。
  祭司やレビ人(これらは神殿に仕える神聖な職業の人とされていました)といった人たちには、「死体に近づいてはならない」、「死体に触れてはならない」という掟がありました。彼らはこれを忠実に守って、半殺しではあるけれども、ひょっとしたら本当は死んでいるかも知れないと思って、用心のためにこの追いはぎの被害者を遠ざけるように去って行ったのです。これは、当時の律法では正しい行為です。もしもサマリア人のように、この追いはぎの被害者に触れてなどしていたら、彼らは大きな罪を犯す可能性があったのです。
  しかし、イエスは、このサマリア人を引き合いに出して、
「行って、あなたも同じようにしなさい」(同37節)と言います。ここでは、「死体に触れると罪を犯すことになる」という当時の宗教的な考えはふっとんでしまっています。むしろ、苦しんでいる誰かを見捨てることのほうが罪なのだ、ということを言外ににじませます。
  結果的には、イエスは、「罪を罪とも思わない。とんでもない冒涜者だ」という噂になったことでしょう。他にも冒涜者であると呼ばれる根拠になるようなイエスの発言は、新約聖書のなかにごまんとあります。その結果として、彼は十字架につけられて処刑されることになったわけですが。
  このようにイエスは、「宗教」が「罪だ」と決めつけているものを、本当にそうかどうか考えなおしてみて、「何が愛になっているのか」、「何が本当に苦しむ人の隣人になることなのか」という観点から、もう一度、何が正しいことなのかを考えるきっかけを与えてくれるのです。
  なにが罪なのか、ということは、
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」(同27節)とイエスが凝縮した律法だけで考える、それでじゅうぶんなのです。


 イエス自身がどんな人で、どんな人たちに囲まれて生きていたかを考えてみても、教会で行われがちな「罪人」論議が、いかに了見の狭いものかがわかるでしょう。
  まず、イエス自身が、
「徴税人や罪人と一緒に食事をする」(マルコによる福音書2章16節)人間であり、「大食漢で大酒飲み(訳し方によっては「食い意地のはった酒飲み)」(マタイによる福音書11章19節)と呼ばれるような人でした。
  またイエスの12人の弟子たちのなかには、漁師が4人も(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)いました。漁師は、その当時、悪霊の住みかであると思われていた湖に出る仕事であり、生魚を処理して生き物の血に触れる職業として、汚れた罪人だと思われていました(ほら、ここで、もう今とは「罪」の基準が違うことがわかるでしょう?)。また、トマスという弟子は双子の片割れで、これも当時、双子というのは不吉な出来事の前兆とされていましたから、これも神の意志にはずれた者、つまり罪人あつかいでした。さらに、徴税人マタイ(あるいはレビ)という弟子も登場しますが、徴税人と言う仕事も、ユダヤ人からローマでの税金を取り立てる、それも税金より多く取り上げた分のもうけが自分の所得というとんでもないヤクザ稼業でしたので、これも罪人と呼ばれていました。また、熱心党のシモンという弟子がいますが、熱心党というのは、イエスの故郷であるガリラヤ地方などで、何度も占領軍であるローマに対して反乱を犯していたテロリストの一派でして、シモンはそのグループの一員だったわけです。
  こうしてみますと、イエス及びイエスの仲間たちは、イエスが生きていた当時の人びとの目から見れば、とんでもない曲者集団に映ったはずです。いわば罪人集団でした。
  でも、そんな人びとも、イエスが死んだ後、キリスト教が成立してからは聖人あつかいです。彼らがかつては罪人と呼ばれていたことなど、ふっとんでしまって、また別の罪の基準が教会の中で支配的になってゆくのです。


 というわけで、いま現在、教会で「あれは罪です」、「これは罪です」と言われていることを、まともに受け止めすぎないほうがよいでしょう。
  キリスト教会の歴史を見ても、「黒人を差別することは神の意志にかなっている」と思い込んでいた(まだ思い込んでいる人もアメリカの一部の地方ではいらっしゃるようですが)時代もありましたが、いまでは黒人の神父や牧師を生み出せるように教会は変わってきました。
  また、
「婦人たちは教会では黙っていなさい」(コリントの信徒への手紙一14章34節)と聖書に書かれているにもかかわらず、女性の聖職者も、以前は認められなかったのが、認められるようになってきました。
  最近では、同性愛について認めるだ、認めないだと論議があちこちで沸き起こっていますが、すでに同性愛者の聖職者や結婚を認めるようになった教会も出てきています。
  このように、何が罪であるかの基準は、時代によって変わってゆきます。これからもどんどん変わっていくでしょう。
  「そんなことでは、何が永遠に変わらないものなのか、わからなくなってしまうじゃないか」と不安に思ってしまうクリスチャンの方もいらっしゃるかも知れません。
  しかし、そもそも目に見えるルールというものに永遠を求めるのが間違っているのです。形ある物は全て永遠ではありません。いくら牧師が口をすっぱくして「これは罪です」と言ったところで、「言葉」という「形」にしたとたんに、時代が変われば変質するものになってしまうのです。
  人間には、何が神の意志で、何がそうでないかを判別する力はありません。
  あえて言えば、キリスト教的には、神の姿・形・言葉として現れたのがイエスという人の生涯と死なのですから、基準はイエスにしかない、と言えるでしょう。
  そのイエスが、彼の生きていた当時、どんな風に言われ、扱われてきたかを考えるとき、「なにが罪か」と考えることなど意味がないことがわかってきます。
  イエス自身が「罪人」として生ききったからです。
  「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」
  これ以外に守るべきルールはありません。もちろん、このルールを実行してゆくだけでも大変なことですけどね。

〔最終更新日:2006年9月3日〕

このコーナーへのご意見(ご質問・ご批判・ご忠言・ご提言)など、
発信者名の明記されたメールに限り、大歓迎いたします。
三十番地教会の牧師はまだまだ修行中。
不充分あるいは不適切な答え方もあろうかとは思いますが、
なにとぞよろしくご指導願います。
ただし、匿名メール、および陰口・陰文書については、恥をお知りください。

ご意見メールをくださる方は、ここをクリックしてください……

 「下世話なQ&A」の入口に戻る

 礼拝堂(メッセージのライブラリ)に入ってみる
 ボランティア連絡所“Voluntas”を訪ねる
 解放劇場を訪ねる
 教会の玄関へ戻る