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 Q. 人間はどうして死ぬんですか?

 私はなぜ神がこの世をお造りになったのかが、わかりません。この世を作って、人びとに何を感じさせたかったのかがわかりません。
 なぜならば、 人は皆、生きては死んでしまうのです。
 なぜそんな残酷なことをしているのかがわかりませんでした。
 クリスチャンになっても、何をしても、最後は死んでしまうのに、なぜそんなことをしたのかがわかりませんでした。

(2012年2月、ある中学1年生の生徒さんがレポートに書いた質問より)

 A. 死があるからこそ生きる値打ちが上がるからです。

永遠の命?(聖書学の観点から)

 これとよく似た疑問を、ある新宗教の人たちから聞かされたことがあります。
 その新宗教の人たちは、間もなくこの世が終末を迎えて滅び、その後地上にパラダイス(天国)が始まって、そこでは信者は「永遠の命」を得て、いつまでも若いままで死なない、ということを信じて布教していました。
 その人たちは「神さまが造られたこの世は本当に素晴らしい作品です。この世が偶然によって生まれたなどということは考えられません。生物学が解明した生命のシステムは、とても人工的で複雑で精緻で見事なものです。神は生命をこのように素晴らしいものとしてお造りになったのですから、その生命が死ぬことを望んでおられません。そもそも人間は永遠の命を持つ者として造られました。しかし、アダムとエバが罪を犯したので、永遠の命を奪われました。ですから私たちは再び神のもとへ帰ることで永遠の命を与えられることができるのです」と唱えています。

 なるほど、それもひとつの考え方です。
 こんなに見事に生命のシステムが、なぜ崩壊するのか。神がこの世の生命を愛しておられるなら、そんな事はしないはずだという発想がでてくること自体は理解できます。「気持ちはわかります」と言ったところでしょうか。
 また事実、旧約聖書の天地創造物語を読んでみると、神が「食べてはいけない」と言っていた木の実を、エバとアダムが食べて、それ故にエデンの園から追放されたことが書いてあります。

 しかし、細かいことを言うようですが、天地創造の物語をきちんと読むと、そうストーリーは単純ではありません。
 たとえば、神は人に
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16-17)と告げています。
 ところが、蛇がエバをそそのかして食べさせようとする時、
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(同3:4-5)と言います。そして実際二人は食べても死にませんでした(3:6-7)。つまり蛇の言ったことの方が正しかったのです。
 この事実を知って神は怒り、
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(同3:22)と言って、二人をエデンの園から追放します。
 そうなると、このアダムとエバの物語によれば、禁断の木の実を食べたから人間に死が与えられたというわけではありませんし、「命の木」の実を食べれば永遠の命を得られるということは、まだこの木の実を人間は食べていないのですから、元来永遠の命を持ってはいなかったということになります。
 それどころか、神は最初には禁止していなかったけれども、実は「命の木」からも取って食べることは望ましくないと考えていたことになります。ということは、つまり、「人間が永遠の命を持たない」ということが神の本来の意志であるということになるのです。

死も生のプログラムの一部(生物学の観点から)

 この事は実は、近年の生物学の研究成果とも一致していて、最近では死も生命のシステムに最初から組み込まれたプログラムであるということが証明されています。
 たとえば、私たちの肉体の形ひとつとっても、指が5本あるのは、実は指と指の間の細胞の群れが死滅した結果です。ある程度まで細胞は増殖を続けるのですが、胎児の発生はこれまでの生物の進化のプロセスを再演しながら進むので、水かきがあった段階を通り、そのあと水かきが退化するプロセスをたどります。それが水かき部分の細胞の死滅によってもたらされます。
 ということは、人間と言う全体が完成するためには、死滅する細胞があることが避けられない前提だということです。

 また、一人の人間が完成して、生き続ける間にも、細胞は発生と死滅を何度もくりかえします。
 一説によれば、人間の体内の細胞は、約90日間で完全に入れ替わります。
 遺伝子というのは、単に生殖や世代間の遺伝に役立っているだけではなく、普段の何気ない生活の間も、どんどん自分の肉体の組織を作る細胞を再生産しています。それと同時にどんどん古い細胞は死んで捨てられてゆきます。
 そうしないと、肉体が古い細胞ばかりになってしまい、肉体の機能はどんどん低下してゆき、人間はすぐに死んでしまいます。できるだけ長生きをするためには、古い細胞はどんどん死んでもらって、新しい細胞で肉体を構成していかないといけないのです。
 そして、細胞には分裂する回数を決めている遺伝子も含まれていて、ある回数以上細胞分裂すると、それ以上は増えないように抑制されています。これが狂って、無限に悪い細胞が増殖して肉体を蝕むのをガンと呼びます。

 一人の人間、1個の個体だけではなく、ある生物の集団について見た時も、同じことが言えます。
 個体が死なずに生き続けていると、その子孫と同居しなければなりません。しかし、先に生まれた者がいつまでも死なないと、新しい世代の者は活躍する場を失いますし、食糧や資源なども奪い合い、その発展は限界に行き当たる、あるいはその種の滅亡につながりまねません。
 しかし、老いた個体が自然に死んでゆけば、新しい世代はじゅうぶん生きやすくなり、その世代が老いると次の世代が活躍するといった循環が成立し、結果的にはそのほうがその生物の繁栄に役立ちます。
 創世記の物語を書いた人たちは、まさか細胞レベルの生物学を知っていたはずはありませんが、個体がどんどん世代交代していかないと、社会が崩壊することは経験的に知っていた可能性がありますから、そういう人たちが「人が永遠の命を持つことを神は望んでいない」と解釈したとしても、不思議ではありませんね。

 そういうわけで、生物がしばらく生きて、それから死ぬのは生物学的にも合理的なシステムの一部であり、それは創世記の創造物語とも(偶然かも知れませんが)一致しているのです。

締め切りのある人生(人生論の観点から)

 人生論の観点からも考えてみましょう。
 死がなければ、人間の人生はどうなるでしょうか?
 人間というのは往々にして、締め切りがないと、怠慢になります。「いつでもいいや」と思っていると、何もできないものです。もちろん例外的にしっかりしている人もいますが、たいていの人は締め切りがないと、何も完成させることができません。
 死というのは、人生の締め切りです。やはりこの締め切りがないと、人間は自分の人生を無駄に過ごしてしまいかねないのではないでしょうか。死がなければ、人間は自分がこの人生において何をすればいいのかがはっきりしないのではないでしょうか。

 何故そんな事が言えるのかというと、これを書いている私自身、人生の後半に入った事を自覚してからのほうが、生きる事が面白くなってきたからです。
 若い時は「あれもやりたい」「これもやりたい」と思いばかりは先行しますが、実際にはいつでも何でも取りかかれる状態であるにもかかわらず(というより、いつでも何でもできる状態だからこそ、可能性がありすぎて)、結局何もできずに時だけが無駄に流れてゆきます。
 往々にして若い人のほうが、時間を無駄に過ごす傾向があるのは、そのためです。可能性がありすぎて、的を絞ることができないのです。そして、可能性が有り余っているのに、やれば大きな事もできるのに、「退屈だ、退屈だ」と言っているのです。

 しかし、人生が後半に入り、死、つまり自分の人生の終わりが視野に入ってくると、限られた時間の中で、自分が本当にやりたいことは何なのかを嫌でも真剣に考えるようになります。そして、そ れ以外の自分にとって無駄なことはあまりしないようになります。
 的を絞って努力するようになると成果が上がってきます。するとますますそれをするのが面白くなり、もっと力を注いでもっと大きな成果を得られるようにする。そうすると非常に生きていて楽しい生活の循環が生まれます。
 このように「生きていて楽しい」「生きているのが嬉しい」という気持ちを生み出すきっかけを与えたのは、「自分はいつか終わる」すなわち「自分はいつかは死ぬ」という自覚です。
 簡単にまとめると、「死がなければ、生きる喜びはない」のです。

 さらにありがたいのは、「私たちは自分がいつ死ぬのか、はっきりとはわからない」ということです。
 いつか死ぬといっても、もう今夜すぐ死ぬとわかってしまうと、何もする気力が失われてしまいがちです。誰もが泰然と自分の死を受け入れることができるわけではありません。
 しかし、「どうせ死ぬんだ。死ぬんだ……」と思いながら毎日を過ごしていて、すぐに死ぬのかというと、そういうわけでもありません。「死ぬ、死ぬ」と思いつつも、なかなかその死がやってこないというのが、多くの人の実情です。ですから「死ぬ、死ぬ」といって死を待ってばかりいる人生というのは、かなり時間がもったいないです。
 ですから、しばらく何年か、何十年かは死のことは保留にしておいて、「しかしいつかは終わる」という覚悟もしながら、締め切りを意識する人生を送るのが良いのです。

死んで、そして生まれ変わる(心理学の観点から)

 また、心理学的な観点から見ると、人間というのは、何度も象徴的に死と再生を繰り返しながら人生を生きてゆきます。
 ある人生のステージから次のステージへと映ってゆくのは、過去の自分に死んで、未来の自分に生まれ変わり、新しい人生を始めるようなものなのです。
 古代人たちはそういうことを、深いレベルで意識していましたので、成人式というのは大抵、激闘や危険を伴う儀式であり、擬似的に死を体験して、新しい存在に生まれ変わることを象徴するものになっています。今でも古代と変わらないような生活様式で暮らしている民族には、そういう通過儀礼(イニシエーション)が見られますよね。あれは、「痛み(あるいは恐怖)に耐えたら一人前だ」という意味だけではなく、「死んで、生まれ変わる」という体験を擬似的にやっているのです。
 キリスト教の洗礼にもそういう意味が含まれていて、特にそれは全身礼(浸礼)の場合明らかに表れていますが、水に沈み込むことで過去の自分に死に、水から引き上げられることで新しい命に誕生することを象徴しているのです。
 ですから、適切な時期にいったん死ぬということは悪い事ではなく、むしろ人間の成長とはそういうものなのです。
 象徴的な死と再生がなくては、人間は成長しません。いつまでも幼いままです。
 日本の成人式は、たいていホールにあつまって訓話を聞くだけですが、あれで大人になれるわけはありません。ですから日本人の20代の多くは精神年齢が低いのかも知れません。

 そして、肉体的な死にも、次の段階があると考えている人はいます。
 残念ながら、(脳死であろうと、心臓死であろうと)肉体が死んだ後に命があるかどうかは、まだ科学的にはどちらとも証明されていません。
 ですから、死後の世界があるのか、無いのか、はっきりはしませんが、死後にも全くこの世とは異なるステージがあると考えるのは悪いことではありません。
 むしろ、そういう期待が持てれば、私たちは死を「通過儀礼」としてポジティヴに捉えることができます。すると、死によって新しい命に生まれ変わることを楽しみにできるかもしれません。
 そんな風に「死を心待ちにする」という生き方もあっていいのではないでしょうか。

死を心待ちにして生きる

 「死を心待ちにする」というのは、その言葉だけではやや不謹慎に聞こえるかもしれません。
 しかし、「早く死にたい」と死ぬことを願うのではなく、いつ来るかはわからないけれども確実にやってくる人生の締め切りに向かって前向きな気持ちでこの世の人生を生き、その時が来たら次の新しい命のステージを楽しみにして死を受け入れ、この世のことはこの世に残る次の世代に任せて、自分は新しい旅に出る、という考え方ができれば、いちばん楽に生きられるのではないかと思います。
 そんな風に「生きて」「死ぬ」というのも「あり」ではないでしょうか。

〔最終更新日:2012年3月2日〕

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